水戸藩
徳川家
35万石

幕末維新史に登場する主役クラスの藩で、もっとも悲惨な運命をたどったのが水戸藩である。尊攘思想の総本山でありながら、内部抗争にあけくれていた。明治政権が出来上がった時、要職に就いた人物はだれもいなかった。嘉永6年(1853)から安政期まで維新をひっぱり、果たしてきたこの藩の活躍ぶりを考えれば、ほとんど信じられない現状である。現在までに歴史に名前が残っている人物といえば、徳川斉昭、藤田東湖は別格にしても、他に天狗党の武田や東湖の子、小四郎ぐらいである。
天下の副将軍といわれた水戸家は代々、「御三家」の中で最も貧乏な藩であった。尾張の61万石、奇襲の55万石に対して、水戸は35万石であった。それも実収は30万石もあやしいといわれた。それでも「御三家」として、格 式・動向といった面では少しも変わらなかったから、いきおい、水戸は清貧に甘んじなければならず、加えて、この藩には名君・賢侯がつづいたため、ここに、いわる水戸的な風土=水戸学といったものが発生・成長したといわれている。
水戸は2代藩主・徳川光園が尊王を唱えてから、たえず幕府から猜疑の目で見られていたが、8代藩主・斉帽の死にともなう。藩主継嗣問題で、保守派と改革派の争い表面化したことで、なおその感を深めたといっていい。すなわち寛政 (1789ー1800)以来、親藩的立場に立つ立原翠軒派=保守派と、勤王を前面に押し出す藤田幽谷派=改革派の対立がつづいていたが、継嗣問題はいまや藩を二分する派閥抗争にまで発展。のちのちまで水戸藩を大きく揺るがすことになる。
藩主継嗣問題は、8代藩主・斉惰の継子に、将軍家斉の子・清水恒之丞一を迎えようとする保守派(立原派)と、斉脩の弟・敬三郎(斉昭)を立てようとする改革派(藤田派)が対立して激しく争い、ついに藤田派の勝利となって敬三郎が斉昭となった。ときに文政12年(1829)のことである。新藩主となった斉昭は、藤田東湖(幽谷の子)を側用人に起用し就封に反対した保守派の人々を藩政から遠ざけ、翌天保元年(1830)から改革に積極的に取り組むこととなった。
 斉昭が藩政改革を推進して、めざましく活躍するのは、弘化元年(1844)に藩主の座を退くまでの15年間である。この改革にみられるのは文武の奨励であり、質素倹約の徹底であり、また、思想統制の強化であったといえる。斉昭の藩政改革は実に華々しく、方面からの注目を浴び、それがために幕府から褒詞、黄金、鞍などが与えられて表彰されたが、弘化元年、突如として幕府から藩主引退、謹慎を命ぜられるのである。
 このため斉昭は江戸駒込に屏居し、ついで致仕するのだが、これは藩政改革の行き過ぎと、幕政への口出しが多すぎるというのが理由であった。しかし、事実は立原派の幕府への讒訴は紛れもなかったので、水戸内部での抗争はもとより、水戸と幕府の対立はますま深まっていくのである。 幕府は斉昭にかえて、斉昭の嫡子・慶篤(十三歳)を十代藩主に就任させる。藩内では当然のことして政権交代が起こり、改革派は退けられ、保守派の家老結城寅寿らが主導権を握った。
嘉永2年(1849)3月、斉昭は謹慎を解かれ、ついで藤田東湖ら改革派で罪を得た者の蟄居も許され、藩内は改革派の復帰で、再び政権が交代して結城ら保守派が追放される。
 嘉永6年6月、ペリーの来航によって老中首座・阿部正弘は、斉昭を海防参与に起用。斉昭は直ちに藤田東湖、戸田蓬軒など改革派の人々を江戸に呼び、海防掛とし補佐を命じると、自身は 「海防愚存」と題する建議書を阿部正弘に提出するなど海防に尽力した。だが、これらは翌安政元年(1854)3月、日米修好通商条約の締結により、すべてが水泡に帰したのは周知のとおりである。 幕政=海防参与から身を引いた斉昭は、藩内の海防・軍備充実に取り組むが、その最中、江戸を襲った大地震(安政2年10月) で、藤田東潮と戸田蓮軒両名が藩郎の倒壊で圧死。この”水府の二田″と称された改革派の中心人物の死は、さらに藩内抗争を激化させ、結果、保守派の結城寅寿ら一派十数名の処刑にまで発展していく。かくも血で血を洗うがごとき、水戸藩の抗争は他藩に例を見ない激烈さといってよいであろう。
安政5年、斉昭は、日米修好通商条約調印と将軍継嗣問題で、大老・井伊直弼を攻撃したのみか、押しかけ登城を行ったかどにより再び駒込に幽閉されてしまう。 そうした矢先の8月に起こったのが、水戸藩への密勅降下事件である。 幕府は勅詫が水戸から他藩へ回付されるのを恐れ、また勅諚を朝廷に返上させるべく水戸藩に圧力をかけた。ときの水戸藩家老で藤田東湖の流れを汲む岡田信濃守、大場弥右衛門、武田耕雲斎らを退け、新たに国許から鈴木石見守、太田丹波守らを呼び、執政を命じるなどしている。幕府の圧力に抗する激派は、勅諚が蒲の返還派によって密かに持ち出されるのを防止しようと、江戸へ通じる水戸街道の長岡宿に屯集し、往来する人々を改めるという挙に出た。これについては、単なる暴動との説もあるという。が、いずれにせよ、水戸藩の混乱は異常としかいいようがない。
 こうした激派に対し、鎮派とよばれた人たちは、勅諚を他藩に回達することは、水戸蒲=斉昭により禍いがふりかかると主張。激派ヒの溝はさらに深まっていく。ここで両派の争いをなおも深刻かつ複雑にしたのが、激流の中にあった会沢正志斉(水戸の尊王思想をあおった『新論』の著者)が、鎮派に与して長岡宿屯集勢を批判したことである。東湖の流れをくむ激派は分裂、抗争は三つ巴となった。勅読返還がすすまぬなか、安政6年に入ると小十人目付の綿引八郎(4月)、立原源太兵衛、吉村新三郎や奥右筆の開辰三帥(いずれも5月)らが、藩の英断を促すため、あるいは、悲憤憤慨の余りに割腹自刃するいたましい事態まで発生した。
万廷元年(1860)3月、井伊大老が桜田門外で倒れ、8月、水戸の斉昭が61歳で没すると、幕府による激派への探索は厳しくなり、また、対立する鎮派・中間派による排撃も過酷をきわめ、激派はしだいに巨頭的人材を失っていく。長岡宿屯集を指導し、大老暗殺を計画した高橋多一郎は、追い詰められて大坂で自刃し、金子孫二郎は幕府に捕えられて斬刑に処せられている。このあと、有賀半弥ら水戸浪士による高輪のイギリス公使館襲撃、坂下門での老中・安藤信正襲撃を通じ、激派はなおも人材を減じていったのである。
このように見てくると、水戸学の重大な要素である尊王思想は、そのほとんどが外部に向かうよりも、内部抗争においてより多くを燃焼させてきたといえる。そして、かれらが行きつくところの、筑波山における天狗山兄の挙兵も同断であった。この巻丁兵は、もともと亡き斉昭の尊王穣夷の志を、天下に具現すことにあったのだが、藤田小四(東湖の四男)・田丸稲右衛門らが旗を挙げた元治元年(1864)3月、旬日を経ずして藩内の醜い内戦の様相を呈しはじめるのである。かつての鎮派=鈴木石見守・市川三左衛門らが、新たに水戸を出て挙兵した武田耕雲斎らと合流した藤田小四郎=天狗党と那珂湊で激突するのであった。