肥前佐賀藩
鍋島家
35万7千石

 肥前佐賀藩は、35万石の大藩である。維新後「薩長土肥」といって藩閥政府の一角を占めているが、薩摩や長州、土佐にくらべて、幕末期に活躍したという印象がないし、常に4番目に呼ばれる存在でしかない。どのようにして、その地位を得たのか。その秘密は、当代きっての国際通にして、「二重鎖国」をとりつづけた異色の名君・鍋島閑叟の存在にあったのである。
 天保元年(1830)、鍋島閑叟は肥前佐賀藩の藩主となった。佐賀藩の財政もひどいもの。閑叟、江戸から帰国しようとした当日に、借金取りが押しかけて、出発を延ばさなければならなかったという。藩政改にあたってまずすべきことは財政再建だった。そのためには藩主の権力を強くする必要がある。佐賀には小城、蓮池、鹿島の支藩があったが、それらの権限を奪って、代官の権限を強化、こうして中央集権的な体制を築いて、藩主による改革を推し進める基磐を作っていった。
 閑叟は、有明海干拓や農地改革を断行して、農業生産性を向上させるとともに、綿花栽培、砂糖製造、磁器製造などの殖産興業政策を推し進め、ほかにも、櫨・楮・海産物などを生産して領外へ売り出した。なかでも重要なのは、松浦郡山代炭坑や、高島炭坑、杵島郡福母炭坑などの石炭の採掘で、これを輸出して大きな利益を上げるこができた。大阪商人からはそろばん大名と呼ばれるほどであった。しかし、これらの貿易で得た利益を軍事費に充てた。もし本気で佐賀藩が軍事行動を起せば、日本を統一できるだけの軍事力があった。これによって、軍事の近代化をはじめとする藩政改革を行うことができたのである。他藩の改革は、優秀な家臣によって行われたが、佐賀は藩主みずからが改革の推進者だったのである
佐賀藩の特殊事情は、福岡藩とともに、1年交代で、長崎警備を担当していたことだった。外国船来航が増えてくると、海防の必要性からも、軍備の近代化を急がねばならない。二か所に反射炉を作って大砲を量産することに成功し長崎港内の砲台を整備して、港外の伊王島、神ノ島にも砲台を建設した。幕府のために多数の大砲を製造もしており、ペリー来航に慌てた幕府が、大砲製造の技術者を佐賀藩から借り受けたほどだから、その技術水準は日本一であり、佐賀藩は、いわば当時の日本の大砲工場なのであった。しかし、その技術は秘密とされ、津軽・土佐・長州から技術援助を求められても、それをすべて断っていたほどだ。
 長崎に海軍伝習所ができると、伝習生140名のうち幕府派遣が40名なのに対して、佐賀藩は48名も派遣している。彼らはとくに優秀だったといわれ、彼らがもととなった佐賀の海軍は日本一の海軍といわれた。また、閑叟は、長崎を通じて海外の情報も入手しており、橋本左内の幕政改革案で外国事務宰相に擬せられるほどの国際通で、彼自がオランダ船に来りこんで操縦法をたずねるなど、西欧技術への好奇心は強く、蘭癖大名とも呼ばれていた。
 その積極的な好奇心はとどまるところを知らず、安政3年(1856)には、藩士島義勇を箱館に派遣して蝦夷地を調査させ、開港したばかりの箱館での対外貿易の可能性を模索していた。ほかにも、幕府の遣米使節など機会があれば藩士を送り、西洋の知識を求めていた。ところが、閑叟は、改革を通じて藩の力を蓄え、さらに、独裁的な権力を持ちながらも、他の雄藩の藩主たちのような、幕政や朝廷の政治工作に、まったく興味を示さなかった。それどころか、せっかく多数の藩士を長崎海軍伝習所へ派遣して、航海術をはじめ近代科学を学ばせながら、軍事技術の他藩への移転を防ぐため、他藩との交流を禁ずる、「二重鎖国」政策をとりつづけた。目は海外に向いていても、一国内では閉ざされていたというわけである。
 文久2年(1862)、尊王擾夷派と公武合体派の確執が高まるなかで、佐賀藩の存在は重みを増し、朝廷からも、幕府からも、協力要請があった。閑叟は、隠居した気楽さからか、ついに中央政界進出、要請に応じて上洛し、朝廷と幕府間の調整につとめた。海外事情に明るい閑曳が攘夷であるわけはなく、公武合体派だった。
 これをチャンスと、二重鎖国の佐賀藩を飛び出したのが江藤新平だった。江藤は、嘉永3年に結成された尊王攘夷派の秘密結社・義祭同盟に加わり、そこで他藩の尊攘派の動きに刺激されての脱藩だった。この義祭同盟とは、副島種臣の兄の国学者枝吉神陽が結成したもので、藩を否定して、朝廷を中心にした国家をめざした。江藤や副島のほかにも、大木喬任、大隈重信と、のちの明治政府の要人たちがメンバーに揃っていた。
閑叟は、体力の衰えもあり、また、他藩との折衝もスムーズにいかず、早々に佐賀へと引き揚げてしまった。江藤のほうは、京都で桂小五郎とともに活動、まず藩論を変えることが先決と、佐賀へ戻った。しかし、二重鎖国を破っての脱藩によって永蟄居が命ぜられ、他の義祭同盟のメンバーも、藩内にとどまって目立った行動を起こしていなかった。
 しかし、慶応3年(1867)12月、王政復古の大号令が下されると、さすがの佐賀藩も、あわてて江藤を上京させた。しかし、佐賀藩の軍勢は鳥羽・伏見の戦いに間に合わなかった。ようやく、佐賀藩の軍事力がその威力を示したのは、上野の彰義隊を攻撃したときだった。佐賀藩の最新鋭アームストロング砲の砲撃によって、勝負はたった一日で決着がついたのである。これ以後の戊辰戦争でも、佐賀藩の近代的な装備は大いに活躍した。
 こうして佐賀藩は、どうにか薩摩、長州、土佐に次ぐ4番日の地位を得ることができたのである。閑叟は、幕政改革に提言することも、参与会議に出席することもできたし、最新の技術と軍事力に裏付けられた実力もあった。しかし、動かなかった。結局、閑叟にとっては、日本よりも藩のほうが重要だったのだろう。
 閑叟のこの間の立場は、日和見主義とか二股膏薬とか言われているが、彼の独裁と二重鎖国政策が、藩内の派閥抗争や、志士たちの無謀な拳丁兵への参加を、未然に防ぐことになった。その結果、多くの優秀な人材を失わないまま、新政府に送りこむことができたのである。これは、閑叟の功績として過小評価されてはいけない。