副島 種臣
Soejima Taneomi (1828-1905)
 種臣は佐賀城下の国学者、南堀端・枝吉家の次男として生まれた。枝吉家は昔から立派な家柄で、父、南濠は弘道館の先生をしていた。種臣の兄神陽はひまさえあれば本を読んでいて、それを見てうらやましそうにしていた種臣をみて父は“素読”(本を声に出して読むこと)を教える。また、父は槍の稽古もしていた。
 種臣は、大きくなるにつれて兄神陽を目標にするようになる。「肥前の松陰」とも言われるようになる。熱烈な尊王論者の兄・枝吉神陽の「日本君一論」に影響を受け彼を中心とする政治結社「義祭同盟」に参加する。
20歳になると、江戸から戻ってきた神陽の教えを受けながら、江藤新平や大隈重信らと日本の将来について真剣に考えるようになる。そして、鍋島直正に選ばれ、京都にも勉強に行く。「佐賀に枝吉次郎あり」と呼ばれるほどに力をつける。31歳のときに次郎は佐賀藩士・副島和忠の養子となり名前を種臣と変える。その3年後兄の神陽がコレラで死んでしまう。
 種臣は1865年大隈重信が発案した英語中心の長崎学校、致遠館の監督になってくれと頼まれそれを引きうける。漢学の時間は先生として英語の時間は若い生徒に混じって授業を受けた。そして自らもフルベッキに師事し、英語、米国憲法、万国公法等を自発的に学ぶ。(その熱心な様子は校長のフルベッキが日記に「私は2人の優秀な生徒を持った大隈重信と副島種臣である」と書き残したほどであった。)
1867年、大隈重信と共に脱藩上京するが、まもなく藩吏に捕らえられ国元に送還され、謹慎を命じられる。明治政府樹立後、出仕して参議・参与として活躍する。政体書の起草にも携わる。
政府の外務卿になり、明治5年の6月にペルーのマリア・ルーズ号という船が修理のために横浜港につく。その船から中国人の木慶と言う人が夜の海に飛び込み逃げてきた。そして、近くのイギリス船に仲間を助けてくれと逃げ込みむ。調べて見るとマリア・ルーズ号は人買い船であった。船の中には客として231人の中国人がいたが、実際には奴隷扱いとされていた。
 これを聞いた、種臣はマリア・ルーズ号を日本の裁判にかけようと言が、しかし他の人たちは外国を恐れて「外国の船のことだ。日本には関係ない。」とか「触らぬ神にたたりなしだ、見て見ぬふりが一番いい」といって種臣の意見に反対する。しかし正義感の強い種臣は、マリア・ルーズ号を日本の裁判にかける。途中いろいろな問題はあったが、裁判に勝ち231人の中国人は国に帰ることが出来た。これを解決した種臣は、「正義人道の人、副島外務卿」と世界中に知れ渡る。
その後、征韓論に組し、明治6年の政変で西郷隆盛と共に下野し、清国を歴遊する。以後は再び政府高官を歴任する。享年77歳
 種臣は、外交だけでなく、漢詩や書家としても有名で「青海」という名で2000点もの作品を残した。