肥後は4つの諸般に分かれている。なかでも熊本藩が54万石でもっとも大きい。横井・河上なども熊本藩。肥後は薩摩藩・長州藩に近い位置あり、横井という優秀な人物がいたにもかかわらず、幕末では存在感がない。隣の鹿児島県と県民性を比べる時によく引き合いに出される言葉が、「薩摩の大提灯、肥後の鍬形」薩摩では先頭に立つ者が、大提灯をかかげて先導するが、肥後では一人一人が鍬形の兜をかぶって大将気取りという意味。連帯意識が薄くてしかも議論好きなので、まとまらず、立ち遅れる。「肥後の議論倒れ」さらに頑固 「肥後モッコス」藩政は、ほとんど藩校時習館の出身者が牛耳っていた。
時習館の学風は朱子学をモットーとして「古註を主とすれども真註を捨てず」といった立場であったが、次第に字句の意義の解釈に終始する傾向が強まり、詩文をもてあそぶことを学問とする、道学者の養成所となっていた。藩の主流派は、こういう時習館の方針に一本化されるべきとする「学校党」で佐幕であり、中心人物は筆頭家老松井佐渡であった。
それに対抗するのが米田是容(長岡監物)や横井小楠を中心とする「実学党」で、学問は古典の字句の詮索を目的とせず、経世の為にあってそれを現実社会に適用すべきであるとした。実学の名は、学校党が「横井平八郎(小楠)は実学めさる。学に虚実のあるものか」と辛かったところからつけられたものであった。小楠ももちろん時習館に学ぶが、29歳の時に居寮長となる。


熊本新田藩(高瀬藩)
細川家
3万5千石

細川利重は兄の肥後熊本藩主細川綱利から新田3万5千石を分与され、形式だけの新田藩で、蔵枚支給で、領地はなく特に藩政を見るということもなく、藩主は定府であった。
幕末になって、高瀬に陣屋を構えることになったので、高瀬藩と称することもある。


熊本藩
細川家
52万石

加藤清正は、秀吉の死後は、北政所の示唆に従い、徳川体制への傾斜を深める。関ヶ原でも、九州にあって、東軍方として活動し、小西行長と分け合っていた肥後半国から肥後一国52万石へ加増となる。その後、改易となる。替わって豊前小倉より細川忠利が54万石で入り、以後、肥後熊本は細川家の領するところとなって、維新に至る。
藩政の実権は保守佐幕派の学校党が握っていたため、第二次長州征討にも積極的に参加し長州藩と交戦している。鳥羽伏見戦役時にも旧幕軍に加勢しようとする動きがみられた。戦後、大勢に順応する形で新政府に恭順。保守派が強いため兵式は旧式であった。西洋式軍制への対応は遅れ慶応4年3月に漸く着手されている。


宇土藩(熊本新田藩)
細川家
3万石

熊本藩主細川忠利の父、細川忠興は、二男の細川立孝を非常に愛し、自分の隠居領である八代城と所領3万石を立孝に与えようと考える。しかし、8代は枢要の地であり、また忠興、立孝の死もあり、立孝の子行孝が幼少であったこともあり、3万石は宇土の地に与えられ、熊本藩支藩としての宇土藩が成立する。支藩として宗藩を支え、熊本藩宗藩に二人の藩主を送っている。


人吉藩
相良家
2万2千石

相良の姓の由来は遠江榛原の相良。源頼朝により、肥後球磨郡人吉を領有。いわゆる「鎌倉以来」である。戦国時代には島津傘下にはいって、竜造寺、大友との三国鼎立時代の荒波をかいくぐり、秀吉の九州征伐時、老臣深水宗方の奔走で、するっと島津傘下を抜け出して直大名として、所領安堵。関ヶ原では西軍につくが、これも老臣犬童頼兄(いんどうよりもり)が、東軍内通を約していたため、所領安堵。
その後、他家からの養子藩主が多く、両派の対立は尾を引いたまま、藩主親政には程遠く、藩政改革もままならず、幕末に突入。文久2年、軍制改革をめぐって洋式化を主張する佐幕派と反対する勤皇派との抗争事件が起き、勤皇派が勝利。大政奉還後、恭順した。