福岡藩
黒田家
47万3千石

黒田長政が関ヶ原の戦功によって、小早川秀秋が備前岡山に移った後の、筑前ほぼ一国を与えられ、豊前中津18万石から52万石に加増のうえ入った。黒田長政は、小早川隆景、秀秋以来の名島城から、新たに城を築き、城下の名を如水の曽祖父黒田高政以来の故地、備前福岡の名を取って、福岡とした。
二代黒田忠之は二人の弟、長興に秋月5万石(秋月藩)、隆政(東蓮寺藩)に4万石余(のち本藩に併合)を分知し、本藩の石高は47万3千石となって、幕末まで、福岡藩の表高となる。
幕末の時の藩主は黒田長溥(1811〜1887)美濃守。島津重豪(薩摩鹿児島藩)の九男。天保五年襲封。維新後、侯爵。父の影響から洋学を好み、開明派の大名として知られた。ペリー来航後は積極的開港論を展開、文久期には世子の長知を代わりに上京させて、公武合体の実現に尽力した。文久の政変以後は、長州藩と朝幕間の赦免や周旋を働きかけている。
嘉永期以降、軍艦や銃器を購入し、洋式銃隊調練を実施するなど、軍備の充実に努める。慶応元年正月、長州に脱走した尊攘派公卿五名の身柄を預り太宰府に移した。これを契機に藩内に勤皇派が台頭(平野国臣や野村j望東尼などの人物がいるが、いずれも藩とは関係なく行動)。長州藩と幕府間の周旋を目的とした藩の方針は幕府から長州藩と密かに同調しているとの嫌疑を受けた。このため、長溥は勤皇派を処罰し、一掃して疑いを晴らした。以後、藩論は佐幕派優勢であったが、大政奉還後、勤皇派が力をえて、藩内不統一のまま明治維新をむかえた。