福井藩
松平家
32万石
| 越後高田から、秀康の二男で、忠直の弟、松平(越前)忠昌が52万石で入り、地名を福井と改める。 |
| 幕末の松平春嶽慶永は御三卿田安斉匡の子に生れる。嘉永、安政期に藩政改革を進め、洋式兵制の導入や軍備の充実に努めた。対外的には一橋派の中心として活動したため井伊直弼政権下で、慶永は隠居を命じられ、幕府の命で、越前系の一門の中でも最も微禄の越後糸魚川藩主松平(越前)直廉が松平(越前)茂昭となって、最後の藩主となる。文久二年、慶永は赦されて政界に復帰し、幕府の政治総裁職に就任、さらに公儀政体論に基づく新たな政権構想の実現に向けて京都を舞台に活動した。王政復古後はもっぱら徳川宗家の救解と存続に力を尽している。 |
| 徳川一門として討幕には積極的ではなかった。当初、新政府も慶永の立場に配慮して藩兵の徴兵を免じたため、北陸道鎮撫軍は福井を通過したにとどまった。しかし、北越戦争が激化するにつれ、新政府による諸藩兵の動員数も増加の一途を辿り、そのなかで大藩の福井藩が一兵も参加しないわけにはいかなくなった。五月に朝廷の特旨をもって出兵を命じられたが、茂昭の病気を理由になかなか腰があがらない。徳川一族として消極的な態度を隠そうともしなかった。漸く七月に入って申訳けばかりの藩兵百五十名を柏崎に派遣した頃、すでに北越戦争は終盤にさしかかっていた。 |