| 小笠原 長行 |
| Ogasawara Nagamiti (1822-1891) |
| 文政5年5月11日、唐津藩6万石の藩主長昌の長男として唐津城本丸に生まれる。長行が2歳の時、藩主長昌が亡くなるが、当時の幕法では当主が17才以下の場合国替えになる。小笠原氏は6年前に陸奥棚倉から転封してきたばかりで、国替えになると藩の財政が危ういため、養子を入れることになった。そこで先ず、長行は聾唖で廃人であると幕府に届け出をし、信州松本松平家から長国を向かえ長行を庶子とした。 |
| 天保13年、長行は江戸に出て藤田東湖、安井息軒らに師事しまた、高島秋帆らに西洋砲術を学ぶ。幼い頃より聡明であった長行は学識で名声を博し、ペリー来航後の軍備改善の建白書が注目され、藩主長国が安政四年、長行の聾唖が全快したと届け出し、養子とすることが認められ、37才にして唐津藩の世嗣となる。そして文久2年7月奏者番、同閏8月若年寄、9月には老中格、10月に外国御用取扱と異例の出世をとげた。時に安政の大獄関係者の追罰問題がおこり長行は井伊及び閣老らの追罰を主唱し幕議もこれに決定する。同年12月将軍後見職一橋慶喜と前後して大坂へ向かい、次いで入京参内したが、翌3年4月生麦事件解決のために帰府した。京都では賠償金支払いやむなしの幕議であったため、帰府後閣議でそのことを告げ、5月3日閣老の名義で賠償金を支払うという証書を、イギリス代理公使ニールに渡す。その直後、尊攘派の圧力に屈した家茂が攘夷期限5月10日を布告したため、老中井上正信、松平信義らが病気と称し登城をひかえたため、長行が5月9日独断で賠償金10万ポンドを支払う。次いで5月25日、支払いの事情説明という名目で幕兵千余人を率い海路上坂、直ちに京へ向かう。人質同然に京に縛られている将軍家茂の救出が目的と言われるが、途中6月淀(伏見)で、家茂の親書により止められ、6月朝命により免職され帰府し、閉居した。元治元年9月、謹慎を解かれ壱岐守と改める。慶応元年9月大坂にて老中格に再任。10月老中に進み、翌2年第2次征長敗戦の攻めを問われて職を去ったがほどなく復帰、11月老中に再任され、12月再び外国御用取扱を命ぜられ、翌3年正月上坂、兵庫開港問題について尽力した。王政復古成るや、慶応4年2月老中を辞し、3月江戸を脱出し奥州棚倉、会津、仙台と転々、そこより榎本武揚の指揮する旧幕艦隊に投じて箱館に至る。五稜郭降伏に先立ち、国外に去ったと見せかけて東京に帰り潜伏。 |
| 明治5年7月に至って外国より帰ったふりをして自首したが、罪は問われなかった。病と称し深川高橋邸に閑居し、以来一切世に出なかった。明治24年1月22日没。享年70才。 |