間部 詮勝
Manabe Akikatu (1804-1884)
 文化元年(1804)2月19日、越前鯖江藩5代藩主の詮煕の3男として鯖江に生まれる。兄詮允の死により、文化11年9月11歳で家督を相続し、鯖江藩5万石の7代藩主となる。若い藩主詮勝には、叔父の牧野貞喜(常陸笠間藩主)、叔父の山名義蕃、それに仙台久徳・酒井忠固(山名・仙台・酒井は旗本)らが後見人となり、詮勝を補佐する。
 文化14年(1817)4月には将軍家斉に御目見えをすませ、翌年2月に元服、実名を詮勝と改め、同年(4月に文政と改元)12月には従五位・下総守に任ぜられる。藩財政の建て直しに着手し、倹約によって財政の立て直しすすめ、家中に対し5年間の半知を命じる。詮勝自身も倹約の先頭に立ち、平日は一汁一菜を旨とし、居間での燭台は用いないという徹底ぶりであった。詮勝への初めての加役は、文政2年(1819)における公家衆への勅旨御馳走方であった。期間は8月27日から9月3日まで勅使一行の饗応方を無事つとめている。文政4年(1821)6月、国許鯖江へ初めて入り、その翌年には領内を巡検している。また文政6年には石見浜田6万5千石の松平康任の女簾を正室に迎えている。文政9年(1826)6月、詮勝は奏者番を拝命した。天保元年(1830)に寺社奉行の見習となり、翌2年5月には寺社奉行加役の本務に就任。ついで同8年7月には大阪城代に昇進、位階も四品に叙せられた。天保9年(1838)4月には京都所司代に栄転し、官職も侍従になった。京都所司代在職中の詮勝は、天皇御手許の増額や公卿の増給を建議したり、京の辻々に町名を書いた札を立てるなどの便宜を図り、行政官としてその手腕を十分に発揮した。天保11年(1840)1月には、西丸老中に昇進し、大御所家斉付、それに城主となった。鯖江の地にはもともと城がなかったので、幕府から築城費として5千両が下賜され「築城図」などまで作成されたが、幕末期ということと、城地の選定の問題などにより遂に実現しなかった。
 詮勝の西丸老中在職は3年9ヶ月におよんだが、天保14年(1843)9月、病気を理由に老中職を解任された。天保の改革推進者の老中首座水野忠邦との意見の不一致によると言われる。老中解任後は琴棋(琴と碁)書画に親しみ、仏典の研究や写経の一方で、時節の到来を待つかのように国許鯖江で藩政の充実に意を用い、藩財政の改革、海防策の充実、学事の奨励、心学の普及、医学の充実など、多方面にわたって藩政の立て直しを図った。
 詮勝は、安政5年(1853)6月、罷免された老中堀田正睦・松平忠固のかわりに太田資始・松平乗全とともに詮勝は再び老中(勝手掛・外国用掛)の座に15年ぶりに復帰することとなった。そして日米修好通商条約の無断調印(実際は幕府に外交権があったため勅許を得る必要はないのだが)に激怒した孝明天皇が攘夷を言い出したことから、困り果てた関白九条尚忠が幕府に対し、事情説明のための上洛を求めた。それにより詮勝は条約締結の事情を上奏するため京に上ることになる。この途次から廷臣・志士には断固とした処置で臨むとの決意を述べている。詮勝は上洛したものの、病気を理由に参内せず、朝廷に対し無言の圧力を加えた。そして、井伊大老の腹心である長野主膳と協力、在京の幕政批判勢力に対する弾圧の方策について腐心する。この間、京都と江戸で、尊王攘夷派の公卿・大名・志士の逮捕・投獄が始まった。橋本左内、梅田雲浜、吉田松陰らがあいついで逮捕され、厳しい処罰を受ける。世に言う安政の大獄である。吉田松陰は間部詮勝の暗殺を計画していたと言う。
 安政5年9月17日、詮勝は「天下分目のご奉公」という決死の覚悟で入京したという。寺町二条の妙満寺を宿所とするが、詮勝は病気を理由に参内せず、朝廷に対して無言の圧力を加え始める。長野主膳と協力し在京の幕政批判勢力に対して弾圧の方策を進めた。京と江戸での弾圧同時進行の中、詮勝は関白九条尚忠を復活させ、10月には徳川家茂の将軍宣下の勅許を得たことにより、入京より37日目にして参内し、九条関白に条約の無断締結を弁疏した。その後、京都所司代酒井忠義を督励して、尊皇攘夷派の公家や諸藩の志士の逮捕の手を広げ反幕派の公卿や大名を隠退させ、幕吏を罷免し志士の検挙など弾圧を進めた。またこの年安政5年12月に参内、孝明天皇に初めて拝謁し、幕府が条約を締結した理由を了承する旨の勅書を受けることができた。が、詮勝はなお滞京し、鷹司政通・輔煕親子、近衛忠煕、三条実万ら四卿の罪状を摘発するなど活発な動きを見せている。
井伊大老からの指令を一通り終えた詮勝は安政6年2月、京都を立って帰府した。同年7月末には、米国公使ハリスと貨幣問題、とくに金銀貨幣の品目・量目問題について協議している。このときに詮勝が返事に窮して、「拙者は日本では老中と申すもので金銀などのことは生来知るところではない。幕府の理財事務は勘定奉行が、領内の財政は家老が司っている。だから御質問の点はここにいる勘定奉行と交渉されたい。」と答え、老中の無能ぶりをさらけ出しハリスを唖然とさせた。安政6年12月、詮勝は井伊大老との間に大獄の朝廷処分問題などで食い違いを生じ、老中を辞任した。安政7年3月3日、桜田門外の変で井伊大老が横死したことにより安政の大獄の決着をみるが、文久2年には、大獄に加担した関係者の処分が行われ、詮勝については領地一万石を召し上げられ隠居謹慎、家督は8代藩主間部詮実に相続された。その後の詮勝は政界から隠退し、松堂と号して、絵画や書、茶道、彫刻などを手がけ、文芸の遺品を多く残している。慶応元年五月、謹慎は解かれ、鯖江に帰国を命じられる。明治3年3月、東京向島の小梅村(墨田区)の間部邸に移り、明治17年11月に同所で亡くなった。享年81歳。