| 板倉勝静 |
| Itakura Katukiyo (1823-1889) |
| 文政6年1月4日、奥州白河城で伊勢桑名藩主松平定永の第8子に生まれ、天保13年、備中松山藩板倉勝職の養子となり、嘉永2年閏4月襲封。はじめ周防守のち伊賀守を称す。陽明学者山田方谷に出会い、 元締役兼吟味役としてその才を用いる。 |
| 安政4年、寺社奉行に就任したが、安政の大獄の弾圧に反対し、井伊直弼に奏者番兼寺社奉行を罷免される。文久元年復職。文久2年老中に進み外交事務を主管し、8月の生麦事件などで幕閣と対立したため一時退職したが、元治元年長州征伐で凱旋し、再度老中となり、会計総裁となる。1862年、老中となり、徳川慶喜の宗家相続と将軍就任に尽力する。将軍徳川慶喜の信任厚く、終末期の幕府の中枢として活躍。慶応の藩政改革にあたってはよく補佐し、大政奉還にあたっては 不満ながらも実現に種々努力した。 |
| 鳥羽伏見の戦いに敗れ、慶喜と共に海路江戸へ帰り、家督を勝全に譲り隠居した。その後奥羽越列藩同盟に参加。その後、官軍によって日光に幽閉されるも大鳥圭介によって救出される。次いで箱館に渡り、榎本武揚と共に薩長軍に抗戦したが敗れ、自首した。備中松山藩は朝敵として岡山藩の追討をうけ鎮撫使の支配下となる。 |
| 明治2年、勝静は東京で禁錮される。版籍奉還後の9月、先々代藩主勝ラの弟勝喬の4男勝弼を藩知事として松山藩は復藩し、翌月高梁藩と改称される。明治4年、勝静は禁を解かれ上野東照宮祠官となり、22年4月6日、67才で没した。 |