| 堀田 正睦 |
| Hotta Masayosi (1810-1864) |
| 文化7年8月1日、下総佐倉11万石藩主正時の庶子として、江戸で生まれる。翌文化8年4月に父正時が死亡したため、兄正愛が堀田家の家督を継いだ。正睦は文政7年(1824)年12月、正愛の養子となり、同8年に下総佐倉藩を襲封した。正睦は幼名を左源治のちに正篤と称し、やがて正睦と改めた。文政8年3月、家を継ぎ相模守と称し、同12年4月、奏者番となり、天保5年(1834)8月、寺社奉行を兼ね、備中守と称した。同8年5月大阪城代となり、天保12年老中となるが、老中首座の水野忠邦の「天保の改革」がはじまったばかりで、正睦は、この改革が行き過ぎであると阿部正弘に直言し、疎まれるようになり、14年退任した。佐倉に戻り、藩政改革を行い、学問振興に力を入れ蘭学を奨励し「蘭癖」と評された。 |
| 安政2年10月、正睦は老中に推挙され、同3年10月外国事務総裁となり外交問題の責任者となった。そして、外交事務担当の人々に数箇条の諮問文を提出し衆議を求め、外交方針の確立に努力している。 |
| 安政2(1855)年、安部正弘は老中首座を正睦に明け渡し、目前に迫った開国問題を処理させようとする。阿部正弘のあとを受けて老中首座となり、この時名を正睦と改めた。翌年、外国事務総裁として日米修好通商条約の締結に動いた。開国通商の必要を認めた正睦は、安政5年正月、日米修好通商条約に調印する勅許を得るべく目付、岩瀬忠震、下田奉行、井上清直を全権委員に任命して、通商条約の交渉を担当させ、正睦は条約の勅許を取り付けるため、安政5年2月に勘定奉行、川路聖謨ら数10名と上京。天皇はじめ、関白、伝奏役らに莫大な金銀を贈り、2ヶ月も費やしたが熱烈な攘夷論者である孝明天皇は、開国に反対だった。それにもまして天皇にとって不快だったのは、正睦が黄白(金銭)を散じることだった。勅許を得る工作に失敗する。 |
| 約2ヶ月の周旋もむなしく、このたびの失敗から朝廷に信用される者を将軍にせねばと考えるになる。正睦が京から江戸に戻るとすぐ、安政5年4月23日、井伊直弼が大老に就任した。井伊は6月19日に勅許なしで条約に調印し、25日には14代将軍を家茂にし、尊王攘夷派弾圧の「安政の大獄」がはじまる。次第に一橋派に傾く正睦を、紀伊派の井伊直弼は交渉失敗の責をとらせるという理由で、6月23日罷免された。井伊にすれば一石二鳥の処分であった。8月には隠居処分になり、更に文久2年蟄居を命じられ、元治元年佐倉で病死した。隠居後は、八丁堀の屋敷に移って悠々自適の日々を送る。享年55歳。墓は千葉県佐倉市、甚大寺にある。 |
| また藩政においては疲弊した藩財政の再建、文武の振興、勧農、子育教諭などを勧めたが、とりわけ洋学の導入による近代化については特筆すべきものがあり、わが国初の西洋医学病院「順天堂」の開設、洋式軍事体制の導入など、諸藩の注目を集めた。 |