徳川将軍家

 将軍家定の治世は、嘉永6年(1853)11月に将軍に就任し、安政5年(1858)8月の死をもつて終わるが、将軍就任の年の6月、ペリーが開国要求のアメリカ国書を持って来航。和親条約の調印を強要した。ときを同じくして先代・家慶が没したが、世子は頼りにならぬ家定責任の重大さに幕閣(老中首座・阿部正弘)は、国書を広く諸大名に示して意見を求めた。いわば幕府慣例を破ったわけだが、これが後々まで外交問題のみならず、将軍継嗣問題にまで、諸大名に口出しされる羽目ともなった。
ところで、次期将軍候補と目されていたのが、前水戸藩主斉昭の第七子・一橋慶喜と、家の徳川慶福であった。前者を推そうとしていたのは、先の松平慶永や島津斉彬らに代表される大師下詰の家門大名に、加えて大広間詰外様の雄藩勢力。これらを一橋派といった。片や後者を推挙しようとしていたのが、溜問詰の譜代大名たちであり、その筆頭がほかならぬ彦根藩主・井伊直弼であった。彼らを俗に南紀(紀州)派と称した。一橋派が将軍継嗣の原則としたのが、「年長・英明・人望」であり、事実、慶喜ははやくから前将軍家慶に目をかけられていたし、また、賢明のほまれが高く、年齢的にも、すぐ将軍名代として振る舞うこともできた。これに対し南紀派は、「皇国の風儀」を強調し、「血脈」 こそが継嗣決定の最大要素であると主張。わけても紀州藩付家老・水野忠央(新宮藩主)などは、将軍側近や大奥方面にも、慶福の将軍継嗣を力説してまわった。
 もともと大奥では、水戸流の質素剛健の風を嫌い、したがって、水戸嫌いの斉昭嫌いであったからである。一説によれば、将軍後継は十歳位の可愛いほうに、というわけで慶福に人気が集中したという。しかし、両派の対立は、将軍継前問題に限らず、外交問題をめぐってもその根は深かった。つまり、両派の対立はたんに後継者選びだけでなく、幕末の外圧に直面した幕藩体制の危機を、どう乗り切るかの基本姿勢とも大きく関わっていたのである。
 安政5年正月、ときの老中・掘田正睦は、条約調印問題の勅許奏講のために上京したが、将軍継嗣問題はこのころから、外交問題とからんで、運動の焦点は江戸から京都に移った。堀田正睦の上京と前後して南紀派は、勅許奏請の使命達成を側面から援助すべく動いた。が、京都の情勢は南紀派が予想したよりもはるかに逼迫していた。一橋派が外交措置に関する建議に、公然と将軍継嗣問題をからめて論じ、前関白・鷹司政道、右大臣・近衛忠酎、内大臣・三条実万らを自派に引き入れていたばかりか、天皇側近の公卿を通じて、一橋慶喜を将軍継嗣とする内勅を、幕府に下されるよう要請していたのである。
 このままでは劣勢をはね返せないと判断した南紀派は、突如として井伊直弼を大老に推して就任させた。この直弼の大老就任が南紀派の画策であったとするのは、就任の前日、水野忠央の姻戚にあたる薬師寺元真が、直弼の意向を打診していることから明らかだとされている。直弼は大老となるや独断専行、次々と手を打っていった。
 条約調印不許可の勅読が下った(3月20日)にもかかわらず、6月19日には、八リスと軍艦ポータハン号上で日米修好通商条約を締結した。この違勅調印は一橋派の面々にまたとない攻撃の材料を与えた。徳川斉昭、松平慶永、伊達宗城(宇和島藩主) らは、直接、直弼に合って、あるいは書簡を送って違勅調印を激しく詰った。この抗議には、将軍継嗣問題で南紀派が譲歩すれば、違勅調印に関しては認めてもよい、との政治取引きの意向もあったようだ。翻って、幕府は旧例によって、将軍継嗣問題を朝廷に奏し、6月14日、京都からの返書が到着するや、19日に先述の条約を調印ハ 同月25日、幕府は、紀州の徳川慶福を将軍後継とする旨を発表した。ここに14代将軍が決定したわけだ。 しかし、これが一橋派の政治的取引きをも、直弼が一蹴した結果となり、事態は新たな局面に突入することとなる。
文久2年(1862)1月、坂下門外の変で老中安藤信正が失脚すると、中央政界進出をめざしてがぜん動きだしたのが、薩摩藩の島津久光であった。兄斉彬の死後、藩主の座についたわが子忠義の後見人となった久光は、斉彬の遺志を継ぎ、公武合体による擾夷の実現をめざしていた。同年3月、久光は1000余の兵を率いて鹿児島を発ち、京都へ朝廷から、幕政改革の勅命を引き出し、それを持って江戸に乗りこもうというのである。
 ところが、この久光の上洛を、薩摩の尊穣急進派の志士たちは、久光がついに討幕に立ち上がったものと勘違いし、京都の薩摩藩邸に集結した。すでに過激派浪士鎮撫の勅諚をうけている久光としては、自藩から暴発者を出すわけにはいかない。同志相討つ寺田屋の変が引き起こされたのは、すでにみてきたとおりである。尊攘急進派を鎮圧した久光の声望は朝廷を圧し、上申していた幕政改革の趣意書も採用された。その内容は、安政の大獄によって失脚していた一橋慶喜と松平慶永(春嶽) を幕政に復帰させ、公武合体を推進しょうというものだった。久光は、勅使の江戸派遣を建言江戸城で将軍家茂に謁見した勅使は、尊攘、のち、公武合体、国内一和、夷秋天下泰平の朝旨を伝えた一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を大老格の政事総裁職に就任させ、幕政を一新するよう迫った。
 当時、幕政を牛耳っていたのは、老中の板倉勝静、水野忠清、脇坂安宅らだった。彼らは、いかに天皇の命令とはいえ、この要請には憤激した。幕政やその人事に介入する勅使を送られること自体が前代未聞、ましてや裏で糸を引いているのが外様大名の、しかも無位無官の島津久光とあれば、おいそれとは受け入れられない。交渉は、大いに難航した。幕府首脳陣は、慶永の政事総裁職は認めたものの、慶喜の登用については難色を示した。無理もない。慶喜といえば、将軍家茂と将軍就任を争ったかつてのライバルである。なかなか首をタテに振ろうとしない幕閣に対し、久光は側近の大久保利通に命じ、隣室に刺客をしのばせて返答を迫るという手荒い方法で、しぶしぶ承諾させたという。和宮降嫁からわずか1年あまりの問に、朝廷(京都)と幕府(江戸)の力関係は、かくも逆転していたのである。目的を達した久光は、閏8月、得意満面で江戸を発ち、京都へもどった。
 文久2年(1862)7月、一橋慶喜は将軍後見職に就任した。安政の大獄以来、じつに4年ぶりの政治的カムバックである。いまや幕府の命運は、弱冠25歳、聡明の誉れ高い慶喜の手腕にかかっていた。就任早々、慶喜は、松平慶永とともに、公武合体の方針にもとづいた大幅な幕政改革を推し進めた。参勤交代制の緩和、洋式軍制の採用、洋書調所の設置などがその主なものだ。参勤交代制の緩和は、幕府権威の失墜を示すものだとして、一部に異を唱える者もいたがすでにこうした柔軟な政策をとらざるを得ない情勢にあった。10月には、2回目の勅使東下があった。尊攘急進派の公卿三条実美と姉小路公知が、江戸へ行き、和宮降嫁のときの約束を楯にとって、幕府に攘夷の実行を迫ったのである。
 そのころ、京都は、長州と土佐の尊攘急進派の天下と化していた。長州尊攘急進派の筆頭は久坂玄瑞、土佐のそれは武市半平太(瑞山)である。武市らの命をうけたテロリストたちは、「天誅」と称する暗殺、脅迫を日夜くり返していた。標的とされたのは、佐幕派の人間や、公武合体派の公卿だった。こうしたテロ活動に対し、慶喜と松平慶永は、京都の治安回復および有事の際に畿内諸藩を指揮させるため、京都守護職の設置を決め、すでに閏8月1日、会津藩主松平容保をこれに任命していた。攘夷督促勅使の江戸派遣は、こうした長州・土佐の尊穣急進派と結びついた三条実美らが、国事参政や国事寄人といったポストに就き、朝廷の主導権を完全に掌握したことを示していた。このとき、幕府の内部に、穣夷は不可能と申し上げて政権を返上しょうとの議論もおこったが、結局、将軍家茂と幕間は、十二月にいたり、やむなく孝明天皇の勅旨を拝受し、「攘夷奉承」と答える道を選んだ。そして、攘夷実行の方法については、家茂が上洛して説明すると約束させられた。
 翌文久3年(1863)3月3日、上洛した将軍家茂は、外夷掃討祈願のため、賀筏神社へ行幸する孝明天皇に供奉した。そして、4月11日には、石清水八幡宮で天皇から穣夷の節刀を授けられることになった。神前で、操夷を誓わされるのである。行幸の当日、慶書は、家茂病気を理由に自分が名代となって随行し、さらに腹痛と称して八幡宮山麓にとどまり、節刀拝受だけはなんとか逃れた。しかし、その後も朝廷側は、執拗に攘夷実行を迫ってくる。1日も早く江戸に帰城したい家茂は、苦しまざれに操夷期日を5月10日と奉答してしまった。開国論を主張する慶喜が、幕府と朝廷に将軍後見職の辞表をたたきつけたのは、攘夷期日の2日後であった。慶喜の敏腕が発揮されるのは、このときからであった。
 一橋慶喜は、第15代将軍に就任する4か月前の慶応2年(1866)7月、幕政改革を自由に行うことを条件に、徳川宗家を相続していたものの、将軍職についてはずっと辞退していた。それには、理由があった。宗家を継ぐ者が将軍になるという従来慣習によらず、諸侯の衆望をになって将軍の座に就き、いわば″恩″を著せる形で、将軍権力を強めようとしたのである。崩壊寸前の幕府の屋台骨を建て直すには、幕間に有無をいわせない大改革が必要だった。このあたり、老練な政治力というよりない。しかし、老練ということでは、さらに上がいた。西郷隆盛とともに、薩摩藩の討幕派の指導者であった大久保利通である。幕府が長州藩の処分にもたついている間に、大久保は、幕府をさらなる窮地に追い込むべく、この機会に将軍職を廃止して、その権限を雄藩会議に移そうと、渚北で謹慎中の岩倉異視や中山忠能らとひそかに連絡をとり、しきりに朝廷工作を行ったのである。
 しかし、孝明天皇の慶喜支持は変わらず、討幕派が後退を余儀なくされるなかで、第15代将軍職に就いた慶喜は、幕府を中心とする強力な中央集権体制の確立をめざして、斬新な政策を次々と実施していった。しかも この改革は、経済・軍事の両面にわたるフランス公使レオン・ロッシュの肩入れもあって順調に成果を上げ、幕府が昔日の権威をとりもどすのも時間の問題かと思われた。ところが、将軍就任のわずか20日後の12月25日に、孝明天皇が36歳の著さで急逝した。そのころ、洛中には痘瘡(天伏州痘)が蔓延していた。天皇も全身に発疹があらわれ、侍医が痘瘡と発表した。日頃から丈夫な体質で、その後、快方に向かっていたが、24日に急変したという。討幕派の岩倉具視らによる毒殺説がささやかれるゆえんだ。極端な夷秋嫌いで、頑固な穣夷論者であったが、幕府びいきは終始一貫ゆるがなかった孝明天皇の崩御は、慶喜にとつて大きな痛手であった。と同時に、討幕派に、またとない反撃のチャンスを与えたのである 薩摩の西郷・大久保らは、翌慶応3年(1867)1月に即位した明治天皇がまだ16歳の少年であるのに乗じ、薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を実現させ、徳川を一大名の地位に引きずり下ろそうと、朝議を反慕の方向へあやつろうとした。しかし、土佐は元来、佐幕的色彩が強く、越前も土佐に同調し、宇和島にしても薩摩ほど徹底した反意ではなかった。
 こうした討幕派の動きを、慶喜は着々と先手を打ってかわしつづけた。慶喜は、3月にフランス・イギリス・オランダ、4月にアメリカの使臣を大坂城で引見し、外交主権と国内支配権を幕府がいぜん維持していることを見せつけた。さらに、ほとんど成果のないままに解散した四候会議に自信をもった慶喜は、5月23日に参内し、徹夜の奮闘で、懸案だった兵俸開港と長州藩に対する寛大な処分の勅許を手に入れた。この兵庫開港とは、薩長と結ぶイギリス公使八リ1・パークスが、かねてより幕府に要求していたもので、討幕派は、この勅許を幕府が朝廷から得ることだけは避けたかった。西郷らは、もはや平和的な方法で討幕を企ててみたところで、しょせん成功しないことを悟り、ここに、ついに武力による討幕を決意するに至ったのである。
 薩長両藩に芸州藩(広島)が加わり、討幕挙兵の具体的な策が練られたのは、慶応3年10月8日のことだった。薩・長・芸の3藩は、すでに9月中旬に討幕の密約を結んでおり、土佐藩でも板垣遇助・中岡慎太郎らが薩長に同調していた。あとは、挙兵のための大義名分、すなわち討幕の勅命を受ければよい。こうした討幕派の動きを危惧したのが、土佐藩であった。前藩主山内容堂は、もともと佐慕的傾向が強く、幕府と薩・長・芸藩との武力衝突を回避させるため、すでに10月3日に、藩士の後藤象二郎・福岡孝悌を通じて、老中板倉勝静に「大政奉還の建白書」を提出していた。建白書は、この年6月に長崎から京都へ向かう航海の途中、坂本龍馬が後藤象二郎に授けた「船中八策」を修正したもので、その内容は、将軍が政権を朝廷に返上し、新たに列藩合議をおこして、その議長に旧将軍を就任させるというものだった。建白書を前にして、内外の情勢と将軍職を失う利害得失を熟慮した慶喜は、ついに慶応3年10月14日、京都・二条城で大政奉還の上書を天皇に上奏し、翌15日に勅許された。24日には、将軍辞職を願い出たが、これは勅許を得られなかった。慶喜が大政奉還をした14日、奇しくもこの日は、岩倉具視らが画策し、薩長雨藩に 「討幕の密勅」が下った日でもあった。
 じつは、西郷らは、6月に薩土盟約を結んで、土佐の大政奉還建白に同意していた。また、芸州藩も、藩主浅野茂長が、土佐藩と時を同じくして、幕府に大政奉還の建白書を提出していた。要するに、薩・芸2藩は、時局がどちらに転んでも対応できるよう、二股をかけたうえで、最後は武力討幕にもつていくつもりだったのである。「討幕の密勅」 は、大政奉還によって、挙兵の名分を失ったが、薩長両藩はそんなことはおかまいなく、国許から藩兵を京に上らせた。薩長の肛の内、まして 「討幕の密勅」など知るよしもない慶書と幕間は、薩長の先手を打ったこの大政奉還で、政権はいったん返上するものの、能力のない彼らはいずれ自分に政権を委任してくると、本気で考えていた。時流を読む眼は、甘すぎたのである。
徳川慶善が大坂城に入ってからも、会津・桑名の族本らの慣激は収まらず、「君側の好は薩摩である。薩摩を討て」といきり立っていた。慶喜は彼らをなだめるため、納地に代わる新政府への経智献上を願い出ることを朝廷側に認めさせた。だが結局、慶喜の上洛は実現することなく終わった。一方、朝廷側でも、新政府の構成をめぐって、西郷隆盛、大久保利通、岩倉異視ら武力討幕を主張する急進派と、山内察堂、松平春嶽ら列保全議をめざす穏健派の対立がつづいていた。むしろ、会議の主導権は、しだいに容堂ら穏健派が握り、西郷ら急進派は不利な立場に追い込まれつつあった。12月22日には諸藩に対し、「徳川家祖先の美事、良法は御変更なきが故に・・・」と表明して、徳川側の君臣を慰撫し、この趣旨を京都三条橋詰に掲示し、市民の不安を払拭しょぅとまでしたのであった。ところが、幕府側にとつて事態が好転していたかにみえた12月25日払暁、江戸で思いもかけない事件が起こった。三田の薩摩藩邸および同族の日向佐土原藩邸が、江戸市中の警護にあたっていた庄内藩を主力とする5藩兵2000余によって砲撃され、焼討ちされたのである。
当時、江戸市中では、浪士や無頼の徒による辻斬り、強盗、放火といった事件が相次いでいた。じつは、これは西郷隆盛の腹心、江戸隠密の益満休之助田尚平と関東郷土のおよび伊牟相良総三の三人が、西郷の密命をうけて指揮していたものであった。武力討幕を策していた西郷隆盛、大久保利通ら薩摩は、大政奉還により出兵する名分を失った。会議だの談合だのではラチがあかないとみた西郷は、江戸の治安を撹乱して幕府を挑発し、戦いにもちこむようにしむけたのであった。庄内藩士たちは、これに業を煮やして、浪士たちの巣窟となっていた薩摩藩郎と佐土原藩郎を悦討ちにした。この報が大坂城にもたらされたのは12月28日のことであった。会津・桑名・旗本の面々は討薩・主戦論一色となり、慶喜もこれを押さえきれず、ついに開戦を決意する。西郷の謀略は、まんまと図にあたったのである。
明けて慶応4年(1868)元旦、慶喜は 「討薩の表」をしたためて諸藩に配り、「幼帝を侮り奉り、諸藩の処置に私論を主張」する君側の姉を一掃するための参陣をうながした。1月2日、大河内正質を総督とする幕府軍(東軍)1万5000が京をめざして大坂城を進発した。夕方、山城団淀城に入った東軍は、ここで二手に分かれ、陸軍奉行・竹中重囲が率いる本隊は、伏見街道を北進して3日に伏見に看陣、伏見奉行所を本陣とし、陸軍奉行並・大久保忠恕が率いる別隊は鳥羽街道を北進した。これに対して、朝廷・新政府軍(西軍) では、幕府軍の撤退と、これに応じなければ 「朝敵」として討つことを決定すると、薩摩・長州・芸州藩兵が伏見奉行所を包囲、また、薩摩・彦根・西大路藩兵が鳥羽口の四塚開門をかためた。その数、合わせて、およそ5000であった。
1月3日、両軍は、鳥羽と伏見で対峠した。鳥羽口の四塚関門では、桑名・大垣・見廻組の兵を先頭とする幕府軍と新政府軍との間で、「通せ」 「いや通さぬ」と押し問答がくり返された。午後5時すぎ、斜陽まさに西山に傾かんとするころ、鳥羽口の大久保忠恕らが薩軍に強行突破を通告し、北進を開始した。その直後、薩軍砲隊の大砲が火を吹き、徳川軍の頭上に炸裂した。鳥羽方面で砲声が轟くと、伏見でも薩軍が奉行所に大砲を放ち、攻撃を開始した。こうして鳥羽・伏見の戦い、戌辰戦争の幕は切って落とされた。鳥羽口では、街道両側に展開していた薩軍が強風を背にして攻め、縦隊列をとつていた幕府軍は新式火器の一斉銃射をうけて隊列を乱し、やむなく下鳥羽へ退却した。一方、伏見では、はじめ会津藩の大砲奉行・林権助の指揮する砲兵隊が長州軍を砲撃したほか、土万歳三の率いる新選組が白兵戦を挑むなどして善戦健闘したが、まもなく軽装で新鋭武器をもつ長州軍に圧倒され、夜半、淀城へ退却した。翌4日早朝、態勢を立て直した幕府軍は、濃い霧の中をふたたび鳥羽・伏見に迫り、会津軍や新選組が陣頭に立って薩長軍を圧倒、一時は幕府軍が勝利するかと思われた。しかしこの日、征討大将軍・嘉彰親王が薩摩・芸州藩兵を率いて御所を進発、鳥羽街道を南下した5日に、薩長側に錦旗(錦の御旗) がひるがえるにいたって、それを遠望した幕府軍兵士はたちまち浮き足だち、形勢は逆転、幕府軍は雪崩をうって、淀城めざして退いていった。錦族が薩長側にひるがえつたということは、すなわち、幕府軍が「朝敵」 の烙印を押されてしまったということである。この錦旗は、すでに前年の10月、岩倉異視が薩摩の大久保利通、長州の品川弥二郎に原図を渡し、ひそかにつくらせていたものだった。
 敗走する幕府軍は、淀城に入って、いま一度、態勢を立て直そうとした。ところが、淀藩は城門を閉ざしたまま、入城を拒んだのである。そのころ淀藩主の稲葉正邦は時の老中として江戸におり、淀城は当主不在の城となっていた。だが、いかにそうだとはいえ、譜代に裏切られた幕府側のショックの大きさは想像にあまりある。急追する新政府軍先鋒の革靴と砲撃の音が、すぐそこまで聞こえ、やがて淀川の対岸にその姿を現した。淀城に入った新政府軍と幕府軍は、木津川を挟んで対峠し、暗闇の中、両軍は壮烈な白兵戦をくり返したが、幕府軍はしだいに敗走をはじめた。さらに追い打ちをかけるかのように、山崎を守っていた津 (藤堂) 藩兵が、淀藩の帰順を知って新政府側に寝返り、翌1月6日朝、八幡・橋本に陣取っていた幕府軍に向けて、砲撃・銃射の雨を浴びせてきた。士気萎えた幕府軍は総崩れとなり、兵を乱して大坂城へと逃げ帰った。また、それまで戦況を静観していた紀州藩をはじめとする畿内の諸藩が、いっせいに背き、新政府側に寝返った。ここに、鳥羽・伏見の戦いの大勢は決したのである。
大坂城の徳川慶喜は、淀・津両藩の背信を知らされると、もはや形勢挽回は不可能と悟った。だが、それでも徹底抗戦を叫ぶ兵士たちには、みずから陣頭に立って出馬すると鼓舞しておきながら、1月6日夜、京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)の兄弟と、老中首座・酒井忠惇、老中・板倉勝静らをともない、ひそかに大坂城を抜け出した。幕府の軍艦開陽丸を捜したが、闇夜のために見つからず、やむなくアメリカの軍艦イロクォイス号でその晩を過ごすと、翌朝に開陽丸に移り、1月8日、天保山沖を抜錨、江戸へ逃げ帰った。慶喜が江戸城に入ったのは十二日である。このとき、慶喜が乗り込んだ開舎錦の御旗をひるがえし東征大総督、江戸へ進軍暢丸をはじめ、蠣龍丸とい幕府軍艦を率いていたのが、副総裁の榎本武揚であった。榎本は、大坂城内にあった金貨18万両を大坂湾内に仔泊させていた軍艦に積み込み、江戸へ向かった。この18万両は、のちの蝦夷共和国建設から箱館・五稜郭戦争の軍資金になったという。
1月7日朝、大坂城の兵士たちが目を覚ますと、将軍慶喜の姿はない。徳川のために最後まで戦い抜く覚悟をしていた彼らも、肝心の君主の逃亡で茫然自失となり、その日のうちに城を棄てて逃げ出した。こうして、大坂に集結していた幕府軍は姿を消した。 鳥羽・伏見の戦いに勝った朝廷は、1月7日、徳川慶喜追討令を発した。10日には慶喜をはじめ松平容保・松平定敬・板倉膠静らの官位を剥奪し、旧幕府領を新政府直轄にすると発表、ここに幕府軍(東軍) は、正真正銘の「朝敵」「賊中早」となった。また、全国の諸藩を帰順させるため、東海・東山・北陸・山陰の各街道の鋳撫総督を任命し、中国・四国追討総督、九州鎮撫総督を派遣した。これを迎える諸藩は、次々と朝廷側に従っていった。
1月13日には、三職七科制という新政府の官制を定め、天皇親政によって藩の権力を排除した。この新政府の方針を実質的に指導したのは、薩摩の大久保利通であり、この時点で、山内容堂ら列保全議をめざしていた藩主たちの役割は、政治の表面から消えた。さらに2月3日、天皇親征の詔 が発せられ、9日、東征大総督有栖川宮峨仁親王以下、督参謀には西郷隆盛 (薩摩)広沢真臣 (長州藩)・林玖十郎(宇和島藩) らが就任した。2月15日、東征軍五万は 「錦の御旗」を先頭に京を進発、東海道・東山道・北陸道の三方から、江戸に向かって進軍を開始した。
 慶応4年(1868)1月23日、徳川慶書から陸軍総裁を命ぜられた海舟が、真っ先にしたのは、幕府に対するフランスの援助を断ち切ることであった。それまで幕府は、陸軍がフランス式の訓練をうけてきたように、親仏路線をとってきた。それは慶喜自身が、フランスかぶれし、ナポレオン3世から贈られたフランス式の第一級の軍装で、馬に乗っている写真が残されていることからもわかる。慶喜は、これまで親仏派の小栗上野介や栗本鋤雲らを重用し、海舟や大久保一公羽らを嫌っていた。海舟を起用せざるを得なかったのも、ほかに人がいないからで、慶喜には不本意なことであった。
 フランス政府もまた、長州征伐のときに軍資金600万両、軍艦3隻、その他銃砲器を幕府に貸し、慶喜が恭順謝罪に傾いて小乗を罷免してからも、公使レオン・ロッシュは慶喜に近づき、金も武器も融通するから、薩長とあくまで戦えとそそのかしてくる。じつは、その背景には、薩英戦争以来、薩長を支援しているイギリスに対する焦りがあった。この時、イギリスは、横浜の貿易総額の4分の3を占め、フランスはその巻き返しに躍起となっていたのである。それを見抜いた海舟は、このままフランス寄りの政策をつづけてその対抗上、イギリスはますます薩長に接近すると警戒した。1月24日の夜、海舟はロッシュを訪問、軍事訓練の契約解除を申し入れた。
 次に、海舟がしたのは、慶喜の寛永寺引き寵り恭順の旨を、各方面に知らしめることであった。すでに1月7日に、朝廷は慶喜追討令を発し、2月9日には、有栖川宮職仁親王を大総督とする東征軍の陣容が決定、まもなく江戸に進軍してこようとしている。薩長の親英・討幕路線をいかに軌道修正させるか。鳥羽・伏見の戦いで露呈した、英仏の代理戦争ともいうべき薩長と幕府との戦争を、どうすれば食い止めることができるのか。2月14日、海舟はイギリスの海軍教師団を訪ね、慶喜の恭順謹慎とフランスとの絶縁を告げた。明日にも、薩長との太いパイプをもつ英公使八り−・パークスの耳に伝わるだろうという、海舟の計算であった。2月25日、海舟は軍事取扱となった。事実上、海舟は、幕府の最高責任者となったのである。
 「錦の御旗」を押し立てた東征寧が駿府城に入った3月5日、海舟のもとへ旗本・山岡鉄太郎(鉄丹)が訪ねてきた。山岡は寛永寺で慶喜の身辺護衛にあたっていた高橋伊勢守(泥丹)の義弟で、慶書から駿府の総督府へ、慶喜恭順を伝えるよう命ぜられ、海舟の了解を求めにやってきたのである。この鉄舟と泥舟、海舟を「幕末の三丹」という。すでに海舟は、諸藩の家老にあてて、世界情勢を説いたうえで、いま日本国内で分裂すべきではないという趣旨の手紙を送っていた∩ また、東征軍の中止を願う慶書自身による謝罪・嘆願書も、松平春山獄らの手を通じて朝廷に提出されていたが、これは筋違いとして突き返されていた。
 東征軍は、3月5日には駿府城に入り、翌6日、江戸城総攻撃を3月15日と決定した。西郷・大久保の時期を逃さぬ行動力は、見事に武力討幕を導いたのである翌日、山岡は、薩摩の江戸隠密・益満休之助を連れて江戸を発った。益満は、前年暮れの辻斬り・強盗・放火など関東撹乱の中心人物だったが、捕えられ、海舟の邸に預けられていた。9日、駿府で西郷隆盛と会見した山岡は、海舟から託された手紙を渡した。その内容は、慶事恭順の意志はあっても、騒ざ立っている土民を鎮めるのはきわめてむずかしく、また、前年の三田・薩摩藩郎を拠点とするゲリラ行動を正義というなら、皇国は瓦解するというものだった。西郷は、痛いところをつかれた。たしかに、益満らの活動は自分が指図したものであり、弁解の余地はない。そして、いまは争っている時ではないという「皇国の存亡」を掲げる止論の前に、西郷は、江戸城総攻撃の前に勝舟と会見することを山岡に約束したのである。西郷は三月十日に駿府を発ち、12日に池上本門寺の官軍本営に者陣した。これを聞いた海舟は、さっそく西郷に会見を申し込み、13日、山岡を連れて品川の薩摩藩郎で西郷に面会したが、この日は本題に入らず、翌日の会見を約しただけで、別れて帰った。14日、海舟は、こんどは大久保一公羽を連れて、2度日の会見に臨んだ。では、この談判はどのように進んだのか。後年の大村藩士・渡辺清の談話 (「江戸攻撃中止始末」) によれば、おおよそ次のようなものであったという。まず、膠海舟が、「明日、江戸城攻撃ということであるが、われわれは慶喜の命により、どこまでも恭順ということでやっているので、箱根以西に兵を止めてもらいたい」 というと、西郷は、「恭順というなら、その証拠を見せてもらいたい」 といって、江戸城の明け渡しと兵器弾薬、軍艦の受け渡しをもとめた。海舟は、うなずいたのち、「軍艦だけは、榎本武揚が取り仕切っているので、請け合えない」と断ったうえで、いま江戸は、慶喜でさえ思うにならない情勢であり、江戸城を攻撃などすれば、天下の大騒乱となることは明らかである。ともかく、明日の戦争は止めてもらわなければならぬと熱弁をふるつた。西郷が、「それなら、よろしい。恭順がどれくらいできるかを見ましょう。明日の攻撃は止めましょう」 といったので、海舟は満足して引き取ったという。恭順すなわち降参しているものに戦争をしかけることは、「方凶公法」 に照らして認められないと、新政府軍の江戸城総攻撃を非難するパークスの談話が、西郷の耳に届いたのは、この会見の前後であった。もし、会見前であったなら、西郷はとんだ狸ということになる。4月11日、江戸城は、平和のうちに官軍に明け渡された。この日、寛永寺を出て水戸へ向かう慶喜の顔は、やつれて、ヒゲも伸び放題の痛々しい姿だったという。