阿部 正弘
Abe Masahiro (1819-1857)
正弘は文政2年(1819)10月16日、備後国(広島県東部)福山藩主、正精の六男として、江戸西の丸下の藩邸に生まれた。10歳で柴山敬蔵、門田堯佐らに儒学を学び、また馬術槍術などにも修練した。父正精が正弘7歳の時に没し、三男、正寧が家督を相続したが正寧は生来の病身でかつ子がいなかったので、正弘が兄の養子になった。
天保7年、兄正寧のあとを継いで7代藩主となり、翌年正弘は初めて幕政に関係することになり、譜代大名が仕官のはじめは誰もが任ぜられる奏者番となった。同11年、寺社奉行、同14年閏9月、天保の改革で失脚した水野忠邦の跡をうけて25歳の若さで老中に抜擢された。2年後には老中首座になる。当時、幕政の急務は幕府権威の回復と外交問題であった。正弘は弘化2年以降、老中首座にあってこれらの問題にあたる。また島津斉彬ら有力大名とも友好があり、改革を穏和的に進める。
ひしひしと迫る外圧に対し、幕閣では弘化2年7月、海岸防禦方を新設し、正弘がこれを主宰して外交・国防について専管することとした。そして嘉永6年(1853)6月3日、4隻からなるペリー艦隊を迎えることになる。ペリーはアメリカ大統領の親書を幕府に受け取らせ、来春の再来航を約束して、日本を去った。ペリーが来航し、通商、燃料食料の供給、難破船の保護希望等の強引な開国を求めるそのやり方に立腹した正弘は、幕閣をはじめ、大名、幕臣、陪臣、浪人にまで対応策の上書を求めたが、はかばかしい案は得られなかった。攘夷か開国か、祖法を守るべきか破るべきか、決定にあたって正弘は諸藩主・幕使に対策案を諮問した。これについては、今日なお評価のわかれるところである。正弘にすれば広く意見を求めることで、国内勢力の協調を計ったのだろうが、結果これが幕府の威信を弱めることになった。しかし、この時に正弘により登用された、勝海舟、川路聖謨、岩瀬忠震、大久保忠寛、江川太郎左衛門などの人材はその後の幕末の動きに重要な働きをしている。
安政元年(1854)、ペリー艦隊は再来航し、幕府に開国を強要した。戦いは避けねばならず、開国やむなしとせざるを得なかった。そして3月3日「日米和親条約」12か条が締結され、長く祖法として堅持されてきた鎖国政策はついに外圧によって破られた。嘉永7年3月、日米和親条約を締結。イギリス、オランダ、ロシアとの間にも次々と和親条約を結ぶ。老中首座を堀田正睦に譲ったあとも内政に専念し、対外政策を築いていった。大船の建造を許可し、品川沖にお台場を築く。さらに天下武備の根源は旗本の兵備にありと考え、講武場(築地鉄砲洲、のち神田小川町、後に講武所と改称)を設立し、西洋の兵制、砲術などを学ばせる一方、蕃書調所(のちに開成所、さらに東京大学に発展)を設立したり、長崎に海軍伝習所を開設するなど、次々に進めた。安政4年6月、にわかに病で倒れ、39歳で病死した。過労のためといわれる。