会津藩
松平家
23万石
| 徳川時代、会津藩は儒学的教養の高さではおそらく日本で第一位にあげられる。儒学的教養の高さという意味では、その学問を観念的な段階にとどめるのではなく、日常のあらゆる行動を律する生きた思想として実践しているということである。単に観念的な学問としてならば、他に目的論として力を注いだ藩も多い。会津藩は藩士の封建的秩序を美学的の段階まで練り上げ、工芸美術品のごとく磨きあげている。 |
| 文久2年(1862)ごろの京は、尊穣急進派の浪士があふれ、天誅という名の血なまぐさいテロが続発していた。京都所司代や町奉行所は1人の犯人も挙げられない猛威ぶりであった。来春、将軍の上洛が予定されている幕府首脳も困り果てた。 |
| その結果、所司代や町部京を統括して京の治安を強化する京都守護職の設置を決めた。京の警備だけでなく、大阪城代や近国の名代として朝廷との交渉連絡で政治の中枢にも参画できる守護職は、武門の栄誉であった。幕府ははじめ、薩摩の島津久光をこの要職の候補に想定した。現薩摩藩主・茂久の父である久光は、公武合体論者で、国父として藩政の実権をにぎっていた。しかしよく考えてみれば、外様の大藩の薩摩が朝廷と親密になり、天皇の名をかりて発言したりすれば、幕府にとつて大きなマイナスとなる。やはり守護職は「徳川の門葉である親藩から選ぶべし」となり、御三脚田安家の出身である前福井藩主の松平慶永(春嶽)の名があげられた。ところが慶永は幕府の政事総裁職という、いわば首相の職にあり、内外に難問が山積するいま、その職を離れるわけにはいかなかった。 |
| そこで浮上したのが、会津藩の9代藩主松平容保であった。会津の藩祖保科正之は、3代将軍家光の異母弟で、家柄、格式ともに守護職にふさわしかった。このとき28歳の容保は病で、家門の名誉より、守護職の重大さを重い、幕府の要請を再三、拝辞した。「会津は東北の片田舎で、家臣も田舎武士で禁裏の風儀をわきまえておりません。そんな者が万一、朝廷に対し無礼無作法があった場合、松平家を取りつぶし、私一人が腹を切っても済むことではなく、将軍家の一大事となります」これが容保の辞退の正直な気持であった。 |
| 容保は若いころ、朱子学者の山崎閤斎に師事して儒学や神学を修めた。その後、神道と国学に傾倒し、師の闇斎に「神の道と天皇の徳がこの世で唯一無二である」と説いて、垂加神道学を完成させたほどの篤い尊王思想の持ち主であった。当時、攘夷派だけが尊王家ではなく、公武合体という尊王左幕論者のなかにも多かったが、その意味でも容保は京の守護職として最適任者といえた。それを熟知していた幕府政事総裁松平春嶽は、みずから会津藩邸に赴き、単に幕府の崩壊をくいとめるためだけでなく、和宮降嫁も実現した今、日本国の危機を救うために公武合体のかすがいになってくれと、大局的な見地から容保の説得に当たった。 |
| 公武合体の強化で幕政も改まり、外圧も解決できるという見通しをもつ容保の気持ちは、ここで大きく変わった。ところが、国家老の西郷頼母が、「いま京へ行くなどとは、薪を背負って火中へ飛びこむようなものです」と大反対した。藩の柱石として容保も信頼する頼母の反対の理由はこうであった。これまで京都所司代を勤めて成功した例はほとんどない。それは朝廷と幕府の板ばさみとなって、双方から不満をもたれるだけだからである。ましてや攘夷論の盛んなとき、守護職としては、幕府を擁護せざるを得ないこともある。そうすれば長州など急進派から敵視され、もし彼らと妥協すれば、守護職の責務は果たせない。頼母の言説は、のちの戊辰戦争で現実のこととなるのだが、一個の安全を計って安きをむさぼれば、日本の危機を救う「義の重きにつく」という士道の第一義にそむくことになる。その武士道が形骸化しているだけに、あえて容保は一身も家門も捨てて、火中の栗をひろう決意をしたのであった。 |
| 容保松平容保が1000の精兵を率いて入京したのは、文久2年(1862)12月24日である。無警察状態におびえていた京の市民は、蹴上から守護職の本陣となる栗谷の金戒光明寺までの沿道を埋めつくし、こんな俗謡を口ずさんで松平肥後守容保を歓迎した。「会津肥後さま 京都守護職つとめます 内裏繁昌で公卿安堵トコ世の中ようがんしょ 和宮降嫁問題で尊攘激派に脅かされ、京郊外へ隠遁した公卿たちもほっとしたことだろうが、それにもまして松平容保を歓待したのは孝明天皇であった。 |
| 孝明天皇は頑迷といえるほどの外国嫌いではあったが、幕府には好意的で、公武合体の推進論者でもあった。だから年が明けた文久3年正月2日、挨拶に参内した容保に対し、治安維持を期待する言葉とともに、天杯と緋の衣を授けた。武家が天皇から御衣を授けられるということは、江戸時代になつてからこれが初めてであったから、容保は無上の栄誉に浴したわけである。 |
| 天皇のこの期待にこたえるべく容保は部下を激励したが、しかし温厚な人柄の容保の当初の方針は、血で血を洗うがごとき武力弾圧ではなく、なんとか説得でテロを終息させようとした。ところが、将軍家茂が上洛する直前に、足利将軍三代の木像の首を、何者かが三条河原に晒す事件が起こった。これは明らかに将軍家茂を諷した脅しであったから、さすがの容保も激怒し、断固として強硬手段をとることにした。しかし、逮捕できたのは、わずか9人の浪士にすぎなかった。 |
| この不成果は、当時、京に2千数百人いたといわれる尊操派の勢力が、守護職のそれを上回っていたせいでもあった。警備力の無力を痛感した容保は、文久3年3月中旬、将軍上洛の警固として上洛していた浪士組の残党(のちの新選組)を会津藩お預りという形で配下に加え、翌元治元年(1864)には、旗本・御家人の剣術達者な子弟を集めて京都見廻組を結 成させた。こうして、松平容保は、職務遂行のため、いやおうなく長州藩などの反幕勢力と対立していかざるをえなかったのである。 |
| そして、鳥羽・伏見の戦いでは、東征大総督府の会津討伐は当初からの既定方針で、いかなる和解も容認するつもりはなかった。”朝敵”の汚名を被せられた会津藩は、ここに全藩を挙げて臨戦体制に入らざるを得ず、慶応4年(1868)3月、軍制改革を行い、藩士を年齢・身分によって分類した。それに諸藩の脱走兵で組織した秋月隊、幕臣大鳥圭介らが率いる諸隊も加わって、その総兵力は約5300名。 |
| 会津軍では、まず主要な進入路である日光口、越後口、白河口の三街道を固めるべく、主力兵を配置して、万全の会津防衛戦線を築きあげた。これに対し、東征軍は10万の大兵力をもって攻め寄せた。会津軍は劣弱な砲火力にもかかわらず、士気すこぶる旺盛で、各所に東征軍を撃ち破った。ところが、とんでもない陥穴があった。 |
| 二本松から石窟をへて、猪苗代へ通じる間道で、ここは途中に良成峠という天峻があるため、合速写は軽視し、防備が手薄だった。東征軍参謀・伊地知正治はこの欠陥を発見すると、主力をもっ丁母成峠を突破し、猪苗代城も抜い て、怒涛のごとく会津城下近くの戸ノロ‥原に押し寄せた。戦況容易ならぬとみた松平容促は、前線部隊の激励に戸ノロ方面に出陣、白虎隊にも出動命令が下った。戸ノ口煩、滝沢口で敗れた会津軍は、殺到する東征軍で騒然たる中、城下の藩士やその家族を城内に収容し、ここに籠城戦を戦うことに決定した。 |
| この8月23日の戦いがもっとも激しく、会津藩士の戦死は460余名、藩士家族の殉難は230余名にも上った。鶴ケ城 (若松城) はこの日から完全に東征軍に包囲されてしまった。容保は形勢を挽回しようと、米沢藩に援兵を求めたが、米沢藩もすでに降伏寸前であり、かえって会津藩に降伏を勧めてくる始末であった。 |
| 鶴ケ城は孤立無援のまま、両軍の対峠は20日ばかり経過した。東征軍は日増しに強まる晩秋の寒気が気になりはじめた。もし、このまま時日を費やせば、寒気と積雪で東征軍は動きがとれなくなる恐れがある。ここは断然、一挙に鶴ケ城を攻め陥す以外にないと、9月14日、猛砲撃を加えて、全軍に総攻撃を命じた。城兵も砲撃でもって応戦し、あるいは城を打って出て壮烈な白兵戦を挑んだ。東征軍が城の東南、小田山に砲陣地を構築し、眼下の城内に砲弾を撃ち込んだので、会津軍は多数の死傷者を出した。日を追って死者の数がふえ、屍臭は城内に漂ったが、藩士や婦女子の士気はいっこうに衰えることはなかった。しかし、容保はこれ以上の抗戦は、いたずらに死者を増やすのみであり、弾薬・糧食の冬きた城内の惨状をみて、ついに降伏を決断した。城内の白木綿はみな包帯に使用されて無く、白布の断片を縫い合わせて白旗に用いたという。 |