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 アラベスクは、西ドイツ第二の音楽出版社の副社長で、プロデューサーでもある西ドイツの音楽界の大物、ヴォルフガング・メーヴェスが当時世界的に人気が高かったアバやボニーMの向こうをはったグループを作ろうと思い、先ず「ハロー・ミスター・モンキー」と言う曲を作り、その曲に合うアーチストを自らの手で作り出し、女の子3人を集め、アラベスクという名前をつけたのが始まりです。

 1978年1月、ヴォルフガング・メーヴェスは、このテープを持って「ミデム」(MIDEM/THE INTERNATIONAL MUSIC MARKET)に売りこみに行きました。「ミデム」とは、毎年1月にフランスのカンヌで開かれる音楽業界の集まりで、世界各国のレコード会社が、自社のアーチスト、作品、デモ・テープなどを持ち込んで、そこに集まる各国のレコード会社や音楽出版社に売り込む見本市です。

 彼は、ここで日本の各社に売り込み、ビクター音楽産業に見出され契約を結びました。当時、ビクターは積極的にアメリカ以外のヨーロッパからのディスコ作品を買い付けていたので、このアラベスクも、そうした一アーチスト、一作品として買い付けられました。この曲には、いくつか他の日本のレコード会社へも売り込みがありましたが、一番熱心だったビクターがその権利を獲得しました。しかし、その時には誰も、後にアラベスクがこんなにもビッグなアーチストになるなど、夢にも思っていなかでしょう。(たぶん、本人たちも)

 こうして4月に日本で発売された「ハロー・ミスター・モンキー」は、レコード業界関係者の予想を裏切り、先ずディスコで大ヒットとなりました。その波は、有線放送、ラジオにまで広がり、シングルは最終的に40万枚のセールスを記録する大ヒットになりました。また、この当時は、まだアルバムがなかったために、シングルのB面の「バギー・ボーイ」までがディスコや有線で人気を集めたほどでした。

 「ハロー・ミスター・モンキー」がこれほどまでに売れた背景としては、もちろん、当時は、世界的なディスコ・ブームであったことが挙げられますが、日本でもちょっとした猿ブーム?だったことも影響しているのかもしれません。堺正章、(故)夏目雅子主演によるテレビ・ドラマ『西遊記』が人気となり、主題歌の「モンキー・マジック」や「ガンダーラ」がチャートを賑わせたり、ドリフターズの人形劇主題歌だったピンク・レディーの「スーパー・モンキー孫悟空」がB面でありながらもヒットしました。
 しかし!何よりも、日本人にも受け入れやすかった、♪ハロー・ハロー・ミスター・モンキー♪のフレーズやキャッチーなメロディによるところが大きいのではないかと思います。

 1977年の秋のデビュー時点でのメンバーは、メリー・アン、ミシェーラ・ローズ、カレン・アンの3人でした。ファースト・アルバム完成前には、メリー・アンが抜けてハイク・ランボーが加入しました。また、5thシングルの「ペパーミント・ジャック」からは、またメンバーが変わり、カレン・アンとハイク・ランボーが脱退し、サンドラ・ラウアーとジャスミン・フェッターが加入しました。以後、1985年の解散まで、このメンバーで活動することになります。(日本でのライナーにはまったく触れられていませんが、ハイクとサンドラの間には、エルケというメンバーも存在しました。彼女は約半年間だけアラベスクに在籍していたようです。詳細はMEMBERSのサイトをご覧ください。)

 「ハロー・ミスター・モンキー」の大ヒットを受けて、日本では、1985年の解散まで次々とシングルをリリースしましたが、本国西ドイツなど、他の国々では、それほど多くのシングルやアルバムは発売されませんでした。シングル・カットされた楽曲も、日本でのものとはかなり異なっています。海外では、バラード調の「哀愁のマリゴット」「インディオ・ボーイ」を初め、「傷つけないで」「シティ・キャッツ」などがシングルとしてリリースされています。特に、西ドイツにおいてアラベスクの最初のヒットとなったのが、バラード調の「哀愁のマリゴット」というのは意外です。

 1979年の11月には、テレビ番組「11PM」の10周年記念番組の特別ゲストとして初来日しました。その後、1981年、1982年の二度に渡って、コンサートを日本各地で行いました。その時の様子はCONCERTSをごらんください。

 1984年発表の9枚目のアルバム、『恋はナイト・アンド・デイ』を最後にグループは解散しました。ラスト・シングルは、同アルバムからタイトル曲の「恋はナイト・アンド・デイ」ですが、原題は「Time to say -good bye-」(「さよならを言う時」の意)なので、アルバム制作時から、解散をある程度予測していたのではないかと思います。

 1985年の解散後は、サンドラはマイケル・クレトゥのプロデュースの元、ソロ活動をスタートさせ、西ドイツにて大ブレイクし、アラベスク時代よりも大変な人気となりました。特に、マイケルの作曲したセカンド・シングル「マリア・マグダレーナ」は、西ドイツのチャートで1位を獲得、またイギリスでもスマッシュ・ヒットを記録するほどでした。

 サンドラが抜けた後のミシェーラとジャスミンの二人は、「ルージュ」という二人組ユニットとして、西ドイツを拠点に活動を始めました。1987年頃まで、「Hold On」「Love Line Operator」など、何枚かのシングルをリリースしましたが、それほど大きな話題にはならなかったようです。
 1988年には日本でもデビューを果たし、西ドイツとは違う、独自の企画でシングルやアルバムをリリースしました。また、東京音楽祭にも来日し、ステージでは日本でのデビュー曲「恋はNO TIME」を披露してくれました。同曲はヒットしませんでしたが、当時のユーロビート・ブームに乗ってか、人気の高かったディスコもあったということです。また、アルバム『ルージュ』もFUN HOUSEからリリースされました。このアルバムでは全曲を三木たかしが作曲しています。三木たかしと言えば、典型的な演歌〜歌謡曲系作曲家で、彼がルージュを手がけたのは大変な驚きでもありました。
 結局、ルージュは本国で売れなかったので、日本でもう一花咲かせよう・・・とでも、考えていたのかもしれません。

 

 

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last updated : 2003/1/15