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| last updated : 2009/11/23 |
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2009年の暮れには、この最新曲を含む、三枚組みのボックス・セット(下記参照)がリリースされました! |
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ある音楽祭でサンドラとDJ BOBOが出会った際に、DJ BOBOからサンドラに声をかけて、このコラボレーションの実現となったそうです。スイスで最高5位、ドイツで最高13位の久々の大ヒットを記録しました! |
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BIOGRAPHY
(下記の内容は「MEMBERS」のセクションでも簡単に触れています。)
★誕生〜幼少時代
名前は、Sandra Anne Lauer(サンドラ・アン・ラウアー)といい、1962年5月18日、フランスとの国境に近いドイツの都市、ザールブリュッケンにおいて、フランス人の父、ドイツ人の母の間に生まれました。
サンドラ・ファミリー
13才の時
初めてのステージ
少女時代のサンドラは二才年下の弟、ガストンと2人部屋で暮らしていました。そして、壁には当時のアイドル、デビッド・キャシディやショーン・キャシディのポスターが貼ってあったそうです。また、(5ドルくらいの)おこづかいで2人で聴くシングル・レコードなどを購入していたそうです。
10才の時に、クラシック・ギターを手に入れ、彼女の担任でもある先生にレッスンを受けていました。先生はサンドラの家と同じ道路沿いに住んでいたそうです。
12才の時には「チルドレン・ソング・コンテスト」に参加しました。そこで、オリビア・ニュートン・ジョンの曲を歌いました。(ちなみに、サンドラが12才の時というと1974年ですので、当時のオリビアのヒット曲というと、全米No.1の「愛の告白(I Honestly Love You)」があります。サンドラは何を歌ったか判りませんが、サンドラの歌う「愛の告白」とか、聴いてみたいですね。)
14才の時に、プロデューサーのジョージ・ローマン氏に見出され、1976年6月に、ドイツのメジャー・レーベル「BASF」と、ソロ歌手として契約、「Andy mein Freund(私の友達、アンディ)の意」という曲をリリースしました。この曲はまだかわいらしい声のサンドラが甘ったるく歌うポップスです。(ちなみに、アラベスク加入以前のソロ・シングルはこの曲だけです。日本でのレコードのライナーには、ドイツでは既にアイドル歌手として人気があった、と書かれていますが、シングル盤一枚きりのリリースですので、それほど人気があったとは言えないと思います。)
また、ギター・レッスンの傍ら、10年以上もの間、週に二回、3時間のバレエのレッスンも受けていたそうです。
アラベスクに加入して
最初のシングル★アラベスクに加入
彼女がまだ16才の時、両親はサンドラがアラベスクにリード・シンガーとして参加する契約を結びました。サンドラの加入は、それまでアラベスクでリード・ボーカルだったハイクが脱退したためでした。サンドラは、5枚目のシングル「ペパーミント・ジャック」から参加し、解散するまでの約6年間、リード・ボーカルを担当していました。世界中のどこよりも日本で人気が高く、1981年と翌1982年にはコンサート・ツアーも行いました。特には80年〜82年の日本での売り上げはめざましいもので、同じ頃、世界的な人気を誇ったアバと同じくらいの売り上げが日本ではありました。
(アラベスクに関しては、他セクションで詳しく解説していますので、ここではこれくらいにしておきます。)
★アラベスクの解散、そしてソロ活動へ。
アラベスクの解散後は、アラベスク時代から親交のあった(後に夫となる)マイケル・クレトゥのプロデュースで、シングル「JAPAN IST WEIT(日本は遠い)の意)」をリリースしました。しかし、このシングルは試験的に制作されたもので、彼女のどんなアルバムやCDにも収録されていませんし、プロフィールにも公式なリリースものとしては扱われていません。あくまでも「試験的」ということらしいです。当時125枚しか売れなかったということで、サンドラ・ファンの間ではプレミアものとなっています。
「ビッグ・イン・ジャパン」 「JAPAN IST WEIT」
【日本未発売】
このシングルは、西ドイツのエレクトロニック・ポップ・グループのアルファビルにより英語で歌われた、1984年のヒット曲「ビッグ・イン・ジャパン(BIG IN JAPAN)」をドイツ語でカバーしたものです。楽曲やアレンジはオリジナルにかなり忠実で、とても良い曲です。原曲の「ビッグ・イン・ジャパン」の歌詞の内容は、「日本でビッグになれば何だってできるさ」という、まさにアラベスク時代の彼女のことを歌っているかのようで、彼女のシングルにもピッタリだったかもしれません。しかし、あくまでも試験的にリリースしたということで、まったくヒットしませんでした。
なお、カップリングの「SEKUNDEN」はマイケル・クレトゥの書き下ろしです。「JAPAN IST WEIT」「SEKUNDEN」とも作詞は、Michael Kunzeという、ドイツ人アーチストの楽曲の作詞をする職業作家で、シルバー・コンベンションを初めたくさんのアーチストに詩を提供している売れっ子作家です。
★ヨーロッパでヒット。
ヒューバート・カー
アルバム『テン・ソングス』
既にボニーMのクルーや、その他のアーチストのプロデュースや作〜編曲などで経験を積んでいたマイケル・クレトゥは、「JAPAN IST WEIT」のリリースから約1年という十分な準備期間を経て、サンドラのためにしっかりとしたチームを組みました。それは、後にドイツ本国を始め世界的な成功を収めるドイツのエレクトリック・ポップ・トリオ、ヒューバート・カーのリーダーで作曲や歌を担当するヒューバート・ケムラーでした。彼はサンドラの(実質的な)デビュー曲のタイトルを「マリア・マグダレーナ」にしようと言った人でもあります。また同時にサンドラの初期の曲において、かけあいの男性ボーカルや、バックコーラスも担当していました。他にもヒューバート・カーのメンバーであるマルクス・レール(G&Ky)、クラウス・ヒルシュブルガー(B)もソング・ライティングなどの面で強力にサポートしていました。
1985年5月には、実質的なファースト・シングルの「マリア・マグダレーナ」をリリースしました。これは、西ドイツはもちろんのこと、南アメリカからエジプトに至るまで、計21カ国でNo.1を獲得。また、5カ国以上でトップ10ヒットとなりました。この曲はイギリスでも大ヒットし、サンドラ〜アラベスクとしても、英語圏での初ヒットとなりました。続く「ヒート・オブ・ザ・ナイト」もまたまた大ヒットで、あっという間に西ドイツでトップ・スターとなりました。そしてその年の11月には『THE LONG PLAY』というファースト・アルバムもリリースし、ビッグ・ヒットを記録しています。このサンドラ人気はヨーロッパ中に飛び火したほか、(CDやアルバムのライナー・ノーツなどではまったく記載がありませんが、)ロシアでもかなりの人気を得ました。
「TOKYO MUSIC FESTIVAL」★東京音楽祭出場のため来日
1986年5月には、第16回東京音楽祭参加のために来日しました。大会では「ヒート・オブ・ザ・ナイト」を歌い、銀賞を受賞しました。また、いくつかの日本のテレビ番組(下記参照)にも出演しました。
「ROCK TV」(テレビ神奈川)「ROCK TV」(テレビ神奈川)
テレビ神奈川とテレビ大阪だけで放送された深夜番組「ROCK TV」に出演しインタビューを受けました。この番組では「ヒート・オブ・ザ・ナイト」のクリップが紹介されました。
*出演者は左から:
なぎら健壱・大友康平・SANDRA・岩田純子(通訳)・鳥越マリ
「シークレット・ランド」★ヨーロッパでのスターへ。
サンドラは、ヨーロッパやロシアにおいては、当時人気のマドンナと同じくらいの人気を得、アラベスク時代よりもはるかに上回る成功を収めました。1988年1月には、アラベスク時代から長期にわたりサポートを受けていたマイケル・クレトゥと結婚すると同時にスペインのイビザへ引っ越しました。またこの年の8月、西ドイツにて「German Female Singer Of The Year (最優秀国内女性アーチスト)」にも選ばれました!
この人気は、日本とはまったく逆の現象で、日本では、アラベスク時代からの一部のファンに支持されましたが、一般の人にはほとんど受け入れられなかったようです。
「ヘブン・キャン・ウェイト」
★チャリティ・シングルに参加
1989年11月には、ARTISTS UNITED FOR THE NATUREのメンバーの一人として、自然環境保護のためのチャリティー・シングル「YES WE CAN」(クイーンのブライアン・メイ、チャカ・カーン、マイケル・マクドナルド、ジェニファー・ラッシュらが参加)を西ドイツでリリース。最高15位を記録しました。カップリングは同曲のインストなのですが、「NATURE SOUND」ということで、鳥の鳴き声などが聞かれ、アマゾンの奥地にいるような雰囲気にさせられるバージョンとなっています。 シングル 「YES WE CAN」
★エニグマに参加、そして世界へ
1990年には、エニグマがアルバム『サッドネス(永遠の謎)』をリリースし、シングルやアルバムがヨーロッパやアメリカなど世界的に大ヒットしました。(エニグマがマイケル・クレトゥということや、サンドラもコーラスで参加していたことは後に判明。)
1993年のエニグマの2ndアルバム『2〜ザ・クロス・オブ・チェンジ』にもコーラスで参加。このアルバムに収録されている「リターン・トゥ・イノセンス」は世界的に大ヒット。この曲の間奏の英語のセリフもサンドラが担当しました。当初は別の女性がセリフを言う予定だったのですが、何らかの事情でサンドラが担当することになったそうです。
この「リターン・トゥ・イノセンス」は、その歌詞、幻想的なサウンド、民族的なボーカル・・・など、本当に心が洗われるような感動の名曲です。1988年に長野で行われた冬季パラリンピック(身体に障害のある人のオリンピック)で開会式の選手入場曲にも採用されました。この様子は、ちょうどテレビで見ていたのですが、詩の内容やメロディもあいまって本当に感動ものでした!また、一時期、テレビ朝日系「ニュース・ステーション」でもBGMに使用されていたそうです。(当時、私の家のテレビは「テレビ朝日」は映らなかったのです)
ちなみに、サンドラはエニグマのすべてのアルバムにおいて、いくつかの曲のコーラスを担当しています。
マキシ・シングル
「リターン・トゥ・イノセンス」
/エニグマ
★出産と音楽活動休止
1995年7月には、サンドラに双子の赤ちゃんが授かりました。名前は二キータとセバスチャン(2人とも男の子)です。
これにより、同年にリリースされたアルバム『FADING SHADES』を最後に、子育てに専念するためサンドラとして、またエニグマのコーラスとしての音楽活動はしばらく休止となりました。
from SANDRAnet
★音楽活動の再開
「FOREVER」 ビデオ・クリップサンドラは出産してから、子育てに専念するために音楽活動からは退いていました。(この間、2枚組みのリミックス・アルバムや、リミックス・マキシ・シングルはリリースしています。)
しかし、2001年には子育ても一段落し音楽活動を再開、12月にはオリジナル・レコーディングとしては、6年ぶりになるニュー・マキシ・シングル「FOREVER」をヨーロッパでリリースしました。ドイツのチャート「MEDIA CONTROL」では、最高47位とスマッシュ・ヒットを記録。また、この年の暮れ、ドイツ衛星放送「SAT1」とドイツ・エイズ基金による番組『Stars 2001 - AIDS-Gala』が、ベルリン空港で行われた際には、クリフ・リチャード、ファルコなど、他アーチストらとともに出演しパフォーマンスを見せてくれたそうです。
翌2002年には、なんと8年ぶりのオリジナル・アルバムとなる、『THE WHEEL OF TIME』をヨーロッパでリリースしました。このアルバムは「MEDIA CONTROL」で、最高8位というビッグ・ヒットを記録しました。
なお、サンドラの2002年春のインタビューはこちらをご覧ください。
そして、上記にも記載したように、「I Close My Eyes」から、3年半ぶりとなるシングルは、スイスでの人気アーチスト、DJ BOBOとのコラボレーション。
ある音楽祭でサンドラとDJ BOBOが出会った際に、DJ BOBOからサンドラに声をかけて、このコラボレーションの実現となったそうです。
スイスで最高5位、ドイツで最高13位の久々の大ヒットを記録しました!
2007年11月には、公私共に長期間パートナーであった夫のマイケル・クレトゥと離婚しました。
離婚の影響か、しばらくは新しい楽曲のリリースがありませんでしたが、2009年には、「In A Heartbeat」や、元モダン・トーキングのボーカリストである、トーマス・アンダースとのデュエット曲「The Night Is Still Young」をリリース。最新のオリジナル・アルバム『HEARTBEAT』もリリースされました。
そして、同2009年暮れには、三枚組みのボックス・セット『プラチナ・コレクション』をリリース。貴重な12インチ・バージョンを多数収録したオススメ品です。
しかし、こうして、サンドラは形を変えて、それぞれの年代において、アジア(アラベスクとして)、ヨーロッパやロシア(サンドラとして)、アメリカや他のたくさんの国々(エニグマのコーラスとして)・・・と制覇していったと思うと、もう感無量です。
ドイツの雑誌『BRAVO』
1990年4月号の表紙BRAVO賞も受賞しました。 BRAVOのミニ・ポスターより
サンドラのソロ・デビューに関する疑問 サンドラのシングル「Japan ist weit」のリリースは1984年の4月、アラベスクの最後のアルバム『恋はナイト・アンド・デイ』のリリースは同年の12月となっています。また、日本では最後のシングル「恋はナイト・アンド・デイ」のリリースは翌1985年の1月となっています。これは、サンドラがアラベスクの活動と平行してソロ・シングルをリリースしたのでしょうか?ある見方としては、オリジナル・アルバムと、ベスト・アルバムや企画ものアルバムとのリリース間隔の関係から、ビクターが、それまで既にレコーディングしたものを意識的に少しずつ遅らせてリリースしてきたため、アラベスクが既に解散してしまい、サンドラが(試験的な)ソロ・デビューをしたのにもかかわらず、日本においてアラベスクの新譜がリリースされるという現象が起きたのではないかという意見もあります。1984年ごろになると、アラベスクはドイツ国内でも目立った活動をしていなかったので、どうやら、その年の初めには実質的に、既に解散していたのではないかと思われます。このあたりの事情に詳しい方の情報提供をよろしくお願いします。
あるドイツ人のサンドラ・ファンによると、サンドラはヨーロッパで人気が高くなってからも、インタビューでは、アラベスクに関して「以前、アラベスクという女の子の3人グループにいたことがあった」という程度でしか語ったことはなかったそうです。彼女にとって、アラベスクはアイドル時代の恥ずかしい過去だったのかもしれません。特に、幻のファースト・シングル「Japan ist Weit」については、まったく触れることはなかったそうです。
サンドラのファン・サイトについては、ヨーロッパ(特にドイツ)やロシアに非常にたくさん存在しますので、もっと詳しく知りたい方は、それらを参考にされるのも良いと思います。しかし、残念ながら、英語、ドイツ語、ロシア語で書かれている場合がほとんどですのですあまり期待しない方が良いかも・・・。LINK
(H15年6月)現在、日本のおいてサンドラについて書かれたサイトは、下記のERIRINさんのところくらいしか存在しないようです。ま、私のページですら、かなりコンパクトにまとめてありますけど。
SANDRAnet ご存知、オフィシアル・サンドラ・サイト。サンドラの他にも、アラベスク、マイケル・クレトゥ(サンドラの夫)などのセクションもあります。必見です。 Crocodile Music Management & Publishing Homepage サンドラ、エニグマらをマネジメントするクロコダイル・ミュージックのサイト。サンドラらの新譜情報については、最も信頼がおけ、早いソースではないかと思います。サンドラのビデオ・クリップも見ることができたり、またいくつかのファン・サイトも掲載されています。 VIRGIN MUSIC GERMANY ドイツ・バージンのオフィシアル・サイト。サンドラやエニグマの新譜情報などは上記のクロコダイル・ミュージックと並び、最も信頼のおけるものです。 http://www.eririn80.com/doyouknow/sandra.html 80年代洋楽を扱ったERIRINさんのスーパー・サイト「MAGNIFICENT 80'S」。サイト内のサンドラのセクションでは、サンドラの映像も見られます。(日本語) ELEPHANT MUSIC 日本では入手困難なユーロディスコのCDやDVDを専門に扱うオンライン・ショップ。特にヨーロッパ各国から直接買い付けたCDには珍しいものがたくさんあります。日本語サイトですので、安心して取引ができます。
サンドラのDVDやCDもカタログに掲載されています。
*サイト内の記述につきましては、もしも間違いなどを発見された場合、メールかボードなどでお知らせくださると助かります。
That's not the beginning of the end
That's the return to yourself
The return to innocence...
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special thanks to Ken-ichi