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 このセクションでは、アラベスクに係わる人々や、楽曲提供者5名すべてについて、記載してみました。


Wolfgang Mewes
(ヴォルフガング・メーヴェス)
1982年の来日時

プロデューサー
 アラベスクを結成した人です。アルバムのライナーには、「西ドイツの大物プロデューサー」と書かれています。彼は、1977年の秋、当時、ヨーロッパにおいて絶大な人気を誇っていたアバやボニーMのようなグループを作ろうと思い、女の子3人を選び出し、アラベスクを作ったと言われています。
現在のフォト

 実は今回、このサイトを作っていて、ヴォルフガング・メーヴェスのHPを発見しました。しかし、すべてドイツ語で書かれていますので、まったくと言っていいほど意味がわかりません。簡易翻訳のできるHPを利用して記載内容を調べたところによると、音楽プロデューサーというのは、当時の一つの「顔」のようで、彼の経歴には、「出版社を設立」「オーストリア・コミュニティの名誉会長」「成功の秘訣を記した書籍を出版」「○○賞受賞」などの文字が見られます。アラベスクについてはまったく触れられていないので、彼がアラベスクをプロデュースしたということは、彼の経歴の中のほんの一部に過ぎないのだと思います。彼の名前をアマゾン・ドイツで検索すると、彼の著書(ビジネス書)などがいくつかヒットします。
 どなたか、ドイツ語がわかる方がいましたら、ぜひ彼の経歴を訳して教えてください!
 アルバム『愛のリプライ』のライナーのフォトでは、既にじいさんでしたが、現在もさらにじいさん化していますね(笑)。鼻の頭にばんそうこうもしているしね!?



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Benny Lux
(ベニー・ラックス)

ライター
 アラベスクの曲としては、デビュー・シングルのAB面、「ハロー・ミスター・モンキー」「バギー・ボーイ」のみ作曲をしています。ネットで検索してもほとんど情報が得られないので、活動期間、活動量共に多くはなかったのではないかと思われます。
 しかし、日本においてアラベスクは、この「ハロー・ミスター・モンキー」の大ヒットがなかったら、これほどまでのビッグ・アーチストになっていなかったと思われること、アラベスクとしての活動がなかったら、マイケル・クレトゥとの出会いもなく、後のサンドラとしてヨーロッパでの成功もなかったと思われるので、下記のベン・ジュリスと共に、功績はとても大きいと思います。




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Ben Juris
(ベン・ジュリス)

ライター
 ベニー・ラックス同様、アラベスクの曲としては、「ハロー・ミスター・モンキー」「バギー・ボーイ」のみ作詞を担当しています。ベン・ジュリスは、1970年代、ドイツにおいて作詞家として活動していたようです。

*ちなみに、アラベスクとほぼ同時期に活動し、世界的な大成功を収めたアバは、結成される前(1970年前半)、それぞれがソロ活動をしていました。女性メンバーの一人、アグネタは本国スウェーデンの他に、ドイツでもいくつかのシングルをリリースしていました。その時、アグネタの作詞・作曲した曲に、ベン・ジュリスがドイツ語の歌詞をつけたものがあります。それらのシングルは、アグネタのオフィシアル・サイトでも確認できます。下記がベン・ジュリスによりドイツ語の歌詞がつけれ、西ドイツでリリースした曲です。
@「Tausend Wunder」(「Geh' mit Gott」(1972年)のB面)
A「Ich denk' an dich」(「Komm doch zu mir」(1972年)のB面)





Jean Frankfurter
(ジーン・フランクファーター)
1982年の来日時

ライター/プロデューサー
 アラベスクのオリジナル楽曲全90曲のうち、なんと87曲までが彼の作曲したものです!アラベスクにおいては、一貫してダンス系の楽曲を書いてきましたが、彼は必ずしもダンス系の作曲家ではありません。たまたま、アラベスクを担当し、大当たりをしたことで、ディスコものを書き続けただけで、彼の書き下ろした他の楽曲は、カントリー(!)、ポップス、ラテン、アダルト・コンテンポラリーであったりと、多種多様です。むしろディスコものは少ないくらいです。70年代後半のディスコ・ブームの真っ只中、「ハロー・ミスター・モンキー」の大ヒットの後、ソング・ライターを引き継いだという、そんな時のいたずらから、ディスコを日本向けに書き続けることになったと言っても過言ではないかもしれません。(実際にドイツでは、アラベスクの未リリース楽曲は40曲くらいあるのです。)
 彼は現在でもドイツで作曲活動やアーチストのプロデュースをしています。「フライデイ・ナイト」のヒットから20年以上、音楽業界で活動するようになってから、約30年。息の長い作曲家だと思います。
 また彼は、アラベスクの「ビリーズ・バーベキュー」「ミッドナイト・ダンサー」「ローラー・スター」「愛はゆれて」などで聞かれる、あの掛け合いの低い声の男性ボーカルの方でもあります。1981〜82年のアラベスクのジャパン・ツアーに同行し、キーボードを担当していました。

 他のアーチストへの書き下ろしで有名なものとしては、下記のJohn Möeringが作詞を担当、ジーンが作曲した、IREEN SHEERの「Feuer」です。この曲は、1978年のユーロビジョン・ソング・コンテストのドイツ国内予選で見事優勝し、パリで行われた本選出場を果たしたものです。残念ながら本選でのグランプリは逃しましましたが、20組中、6位と好成績を収めました。この「Feuer」はアラベスク・タイプのディスコ・サウンドです。そして、パワフルなIreenのボーカルによって歌い上げられる素晴らしい楽曲です。アラベスク・ファンなら一聴の価値ありです。現在でも彼女のベストCDに収録されています。こちらで30秒間の視聴をしてみてください。

 なお、ジーン・フランクファーターがアラベスク以外にプロデュースしたアーチストには、KRISTINA BACH、ANDRÉ STADE、FERNANDO EXPRESS、MICHELLEなどがいます。いづれも日本では紹介されていないアーチストです。また、単発的に楽曲単位でも数々のアーチストをプロデュースしています。中でも特にANDRÉ STADEは、BeNの琴線に触れるメロディアスな楽曲をリリース。現在はジーン・フランクファーたーの手から離れていますが、1995年から2000年にかけてジーン・フタンクファーターがプロデュースを担当し、3枚のアルバムを残しています。

【LINK】オフィシアル・サイトなど(すべてドイツ語)
IREEN SHEER
KRISTINA BACH
ANDRÉ STADE
FERNANDO EXPRESS
MICHELLE
GABY BAGINSKY (ドイツにて「哀愁のマリゴット」をカバーした女性」)



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John Möering
(ジョン・モエリング)

ライター
 1970〜80年代にかけて、主にジーン・フランクファーターと組んで、作詞活動(英語詩)を書いていました。また、彼はユーロビジョン・ソング・コンテストのドイツ国内予選に毎年のように、ジーン・フランクファーターと楽曲を作り、アーチストを送り込んでいました。

 ちなみに、1970年から20年間にわたり日本で行われていた世界歌謡祭(World Popular Song Festival)の1973年大会にオランダよりエントリーした男性ボーカリスト、ロバート・ロングが歌う「すべては愛の中に(I Believe In Love)」はジョン・モエリングの作詞したものです。また、作曲者にもMikies(ミッキーズ)と共に名前を連ねています。同曲は同大会において予選を勝ち抜き、本選に出場(入賞もしている)しました。テレビ放映もされたので、聴いたことのある方もいるかもしれませんね。


Mats Björklund
(マッツ・ビョークランド)
ボニーMのクルーの頃

ミュージシャン/ライター

 元々は、スタジオ・ミュージシャン。アラベスクの楽曲としては、1982年のアルバム『愛のリプライ』中の「ザンジバル」にのみ共作者として名を連ねています。また、アラベスクの1981〜82年のジャパン・ツアー、82年の韓国でのライブにもギタリストとして参加しています。1985年のマイケル・クレトゥのアルバム『The Invisible Man』(日本未発売)にギタリストとして参加したり、1988年にはサンドラのヒット・シングル「シークレット・ランド」においてもマイケル・クレトゥと共作しています。
 また、彼は1970年代から80年代にかけて、マイケル・クレトゥと共にボニーMのクルー(ギタリスト)として活躍していました。つまり、10年以上もマイケル・クレトゥと付き合いがあったということになります。ボニーMのアルバム中の曲でも、「Silent Lover(1977年)」「Never Change Lovers in the Middle of the Night(1978年)」「Silly Confusion(1981年)」「10.000 Lightyears(1984年)」などをフランク・ファリアンらと共作しています。また、ドナ・サマーのセッションにも参加したことがあったということで、西ドイツを拠点に、ボニーM、ドナ・サマー、アラベスクと、ディスコ・アーチストのセッションにひっばりだこだったみたいですね。その他、80年代、ヨーロッパ諸国で人気のあったオーストリアのファルコ(「ロック・ミー・アマデウス」のヒットが有名)や、クラウディア・バリーの「ブギ・ウギ・ダンシング・シューズ」や、D.D.ジャクソンなどの楽曲でも、ライターとしてクレジットされています。




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Ken Taylor
(Kenneth King Taylor)
(ケネス・キング・テイラー)

ライター/アーチスト
 アラベスクの楽曲では、最後のアルバム『恋はナイト・アンド・デイ』(1984年)で、「エクスタシー」「恋人たちのシンフォニー」の2曲の作詞を担当しています。
 彼は元々、ドイツ出身の「TOKYO」という5人組バンドのメンバーで、日本でも彼らのアルバム、『トーキョー(TOKYO)』(1981年/1st)、『トーキョー2(FASTEN SEAT BELTS)』(1982年/2nd)の2枚が発表されてました。アルバム中の曲にも「K子(KEIKO)」というものがあり、彼らが日本びいきのバンドだったということがわかります。1985年までは活動をしているのを確認していますが、それ以降はわかりません。

サイト情報/TOKYOについて(ドイツ語)
(「GERMAN ROCK ENCYCLOPEDIA(ジャーマン・ロック百貨辞典)」より)
 *TOKYOのメンバー
 ケン・テイラー Ken Taylor (b,vo)
 フリッツ・マッカ Fritz Matzka (dr)
 ルーサー・ケレル Lothar Krell (key,vo)
 ロビー・ムセンビチラー Robby Musenbichler (g,vo)
 クラウス・ルーリー Klaus Luley (g,vo)




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N. Hopkins
(Nigel Richard Hopkins)
(ニゲル・リチャード・ホプキンス)

ライター
 アラベスクの最後のアルバム『恋はナイト・アンド・デイ』中の南米風の曲「スクォー」の作者です。
 現在のところ、Nigel Richard Hoplinsという本名と、Peter Sydney Marshallという人と組んで、「Call Of Africa」「Garden Of Eden」など数曲の作品を残していることのみ判っています。


Michael Cretu
(マイケル・クレトゥ)
現在

キーボーダー/ライター
プロデューサー/アーチスト
 言わずと知れた後にサンドラの夫となる人です。
 元々は上記のマッツ・ビョークランドらと共に、ボニーMのクルーとしてキーボードを担当していましたが、それと同時進行で、自らもアーチストとしてシングルやアルバムを発表していました。また、1982年のアラベスクのジャパン・ツアーにキーボーダーとして参加したことなどがきっかけとなり、アラベスク解散後、サンドラのソロ活動を全面的にバックアップすることになります。サンドラのソロ活動、最初のプロデュース作品「JAPAN IST WEIT(「ヤーパン・イスト・ヴァイト」と読む。この曲は、80年代のドイツのロック・グループ、アルファビルの1984年の大ヒット曲「BIG IN JAPAN(ビッグ・イン・ジャパン)」のカバー)はまったくヒットしませんでしたが、第二段「マリア・マグダレーナ」はヨーロッパ各国で大ヒットし、サンドラのスターへの階段を上るきっかけとなりました。
 後にマイケル・クレトクはエニグマとして世界的な大成功を収めたのは言うまでもありません。また、大ヒット「リターン・トゥ・イノセンス」で聴かれる間奏の語りの部分などはサンドラが担当しています。他にも何曲かサンドラがバック・ボーカルを担当しているものもあります。
サンドラ・ネット内のマイケル・クレトゥのサイト

 

*文章中、日本でもリリースされたものについては、出来るだけカタカナ表記で、そうでないものについては、原題のまま(ドイツ語)記載しました。また、一部、ドイツ人名のカタカナ表記が正しいか未確認のものもありますので、ご了承ください。

 

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last updated : 2004/6/12