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LOUIS HENRIK POTGIETER
ルイス・ヘンリック・ポンジェッター
 南アフリカ出身。ヨハネスブルグでバレーとアートグラフィックを学んだ後、1975年にヨーロッパに渡りソロ・ダンサーとして活動していました。なお、ジンギスカンとういグループに、ダンサーとして加入することになります。なお、グループではオーディション以外で決まった唯一のメンバーでもあります。
 ルイスは、ジャケットやステージでも常に中央に位置していました。ジンギスカンとしては初期はダンサーとして活躍していましたが、次第にボーカルもとるようになってきました。ちなみに、ユーロビジョンの本選で「ジンギスカン」を歌う時も、メンバー間をクルクル回っているだけで、マイクがない(=歌っていない)のは彼だけです。

 ジンギスカン解散後は、ヘンリエッテ、レスリーらと共にジンギスカン・ファミリーのメンバーとなりユーロビジョン・ソング・コンテストにも再び参加しました。(ジンギスカン・ファミリーについては、「ジンギスカンのその後」に詳細に記載しています。)
 その後は、第一線から身を引き、故郷のヨハネスブルグで、ホテルのマネージャーなどをしていたという情報を得ています。
 なお、彼は1993年にエイズで死亡したとのことです。


EDINA POP
エディナ・ポップ
 ハンガリーのブダペスト生まれ。ジンギスカン加入以前は、西ドイツでソロとしてシングルをリリースするなどの音楽活動をしていました。

「Petruschka」(1970年頃)
*デビュー・シングル?
この「Petruschka」は、ロシアの代表的民謡「カチューシャ」に手を加えたもの
「Zwischen Wolga und Don」
(70年代前半?)
*この頃は、このメガネがトレードマークだったみたいです。

 エディナ・ポップは、現在もソロ・アーチストとして音楽活動をしてCDもリリースしています。また、2005年のリユニオン・コンサートにもメンバーとりました。


HENRIETTE HEICHEL
ヘンリエッテ・ハイヒェル
 オランダのアムステルダム生まれ。
 ジンギスカン加入以前に下のウォルフガング・ハイヒェルと結婚しましたが、1986年のジンギスカンの解散と同じ頃、離婚してしまいました。
 ジンギスカン解散後は、ルイス、レスリーらと共にジンギスカン・ファミリーのメンバーとなりユーロビジョン・ソング・コンテストにも再び参加しました。(ジンギスカン・ファミリーについては、「ジンギスカンのその後」に詳細に記載しています。)
 しかし、それ以降は音楽界から身を引いたのか、ネット上でもまったく情報を見つけることができませんでしたが、2005年、(ヘンリエッテ・ストロベルとして)リユニオン・コンサートにおいて音楽活動を再開しました。


WOLFGANG HEICHEL
ウォルフガング・ハイヒェル
 ドイツのマイセン生まれのベルリン育ち。そこでシンガー、ソング・ライター及びプロデューサーとして活動してきました。ジンギスカンには、上記のヘンリエッテ(元妻)と共にメンバーに選ばれました。
 ウォルフガングは、ジンギスカンの「カスパル・ハウザー」「グッバイ・ハワイ」「James Bond」などアルバム中のいくつかの楽曲を作曲しています。
 ジンギスカン解散後、1986年に新たなグループ「THAT'S LIFE」のメンバーとなり、ユーロビジョン・ソング・コンテストにも参加しましたが良い成績を収めることは出来ませんでした。(THAT'S LIFEについては、「ジンギスカンのその後」に詳細に記載しています。)
 その後は、ヘンリエッテ同様、音楽界から身を引いたのか、まったく情報を得ることはできませんでしたが、2005年、リユニオン・コンサートにおいて音楽活動を再開しました。


LESLIE MANDOKI
レスリー・マンドキ
 ハンガリーのブダペスト出身。ジンギスカン加入以前のキャリアは長く、ヴォーカリスト兼、パーカショニストとしてヨーロッパ諸国で経験を積んでいました。
 ふとしたきっかけで加入し、スターとなったジンギスカンですが、ジャズ・ロッカーとしての夢がありながら、聴衆のためにポップ・シンガーを演じなければならない、というジレンマがレスリーには常にあったようです。
 しかし一方、レスリーはジンギスカンの「プスタ」「英雄アラジン」などアルバム中のいくつかの楽曲を作曲するなど、類稀な才能も発揮しています。
 ジンギスカン解散後は、ルイス、ヘンリエッテらと共に、ジンギスカン・ファミリーとして一時期活動も行いました。(ジンギスカン・ファミリーについては、「ジンギスカンのその後」に詳細に記載しています。)
 また、その後は何枚かのソロ・シングル(下記参照)をドイツにてリリースしています。

「Schoolgirl's Fantasy」
(1985年)【マンドキ名義】
*ドイツというお国柄と年代から想像されるように、エレクトロニクス・ポップといった感じの楽曲。ラップにも挑戦しています。
「愛に生きて(On Principle)」
(発表年不明)【マンドキ名義】
*こちらもエレクトロニクス・ポップ。サウンド的には、80年代後半あたりか?
「KOREA」(1988年)
*ニュートン・ファミリーの女性ボーカリストのエバとデュエットでシングル「KOREA」を韓国や日本でリリースし、特に韓国では大ヒットとなりました。同時にアルバム『KOREA』を日本でもリリースしました。

 1997年には海外のミュージシャン(ニック・カーショウ、チャカ・カーン、ボビー・キンボール(TOTOのボーカリスト!)、スティーブ・ルカサーなどの豪華メンバー)とコラボレートしたアルバム『People in room no. 8』を、2002年にも同様のコンセプトのアルバム『Soulmates』をドイツにてリリースしています。下記サイトにも詳細な情報が記載されています。
http://www.mig-sites.de/maffay/


STEVE BENDER
スティーブ・ベンダー
「Final Thing」(1977年)
 ドイツのマインツ生まれ。1960年の後半から、数多くのグループでギターとヴォーカルを担当しました。アメリカでも2年間、活動の経験を持っています。アメリカからドイツに戻ってきてからも、ドナ・サマーの楽曲などのライターとしても知られる、Pete BelloteやKeith Forseyらのプロデュースで、ミュンヘン・サウンドによるヒット「The Final Thing」(右記)を出しています。
 ジンギスカンのメンバーとしては、、アルバム中の「ディスコ・ドラゴン」の作曲、「キャプテン・ネモ」をレスリーらと共作しています。
 ちなみに、彼のトレードマークでもある坊主頭は、当時一日に二回髪を剃っていたそうです。(解散後、日本のテレビ番組『なるほど!世界なつかし 青春のアイドル大追跡』に出演した時にそう語っていました。)

 ジンギスカンとしては、アルバムを二枚リリースしたのを最後に、腰痛が原因で、ドクターの勧めもありグループを脱退したそうです。脱退後は、ソロとして何枚かのシングル(下記参照)をリリースしました。
「One and One is Two」
(1981年)
*ゴスペル・タッチのバラード曲ですが、アレンジャーはジンギスカンと同じNorbert Daumが担当しています。
「Daytime, Nighttime」
(1982年頃)
*ジャケットのセンスは「?」ですが、楽曲もそれなりと言った感じ。
 彼は現在は、ドイツでSTEVE BENDER MUSIC PRODUCTIONという会社をおこし、音楽プロデューサーとして活動しています。プロデュースをしているアーチストにはメラニー・ベンダーという自分の娘もいるようです。上記ウエブ・サイトからは、スティーブ・ベンダーがソロとして活動していた頃のシングル・ジャケットを参照したり、楽曲の視聴もできるようになっています。
 メラニー・ベンダーは日本でもリリースしています。曲はハイパーな感じのユーロビートです。こちらの解説も参照してください。父親に関しては元ジンギスカンのメンバーと記載してほしかったですね。
『YOU JUST WANT SEX』
/MELANIE BENDER
avex AVCD-11548

 その後は、エディナ、ヘンリエッテ、ウォルフガング同様、2005年のリユニオン・コンサートに参加。ジンギスカンのメンバーの一人としての音楽活動を再開しました。




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last updated : 2005/8/15