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last updated : 2011/9/20 |
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ボニーMのオリジナル・アルバムがすべて再リリースされました! 今回のリリースではデジタル・リマスターされ、またボーナス・トラックも収録しています。 詳細はCDセクションのこちらをご覧ください。 また、2008年3月には、12インチ・バージョンを含む3枚組みのボックス・セットもリリースされました! そして、2008年10月には、ヨーロッパにおいて8枚のオリジナル・アルバムに 初商品化の映像のDVDを追加した、コンプリート・ボックスもリリースされました! |
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BIOGRAPHY |
ボニーMは、70年代後半から80年代前半にかけて活躍した、単なるディスコ・バンドではなく、現在では伝説と化しているアーチストでもあります。元々は1975年に、ソング・ライターであり、プロデューサーでもあるフランク・ファリアンにより作られたのですが、 ![]() (フランク・ファリアンによる)ボニーMは、75年に「ベイビー・ドゥ・ユー・ワナ・バンプ」というシングルをヨーロッパでリリースしました。これが(ドイツではなく)オランダやベルギーを中心にヒットしたことから、急いで4人のメンバーを集めて実体化したのが、結成の経緯です。(ちなみに、この「ベイビー・ドゥ・ユー・ワナ・バンプ」は、日本では2006年にベスト盤CD『ザ・マジック・オブ・ボニーM』がリリースされるまで未発表でした。) このような実体のないアーチストという試みはダンス・ミュージック界にはよくあることで、実際にフランク・ファリアンは、80年代の中頃にも、ミニ・バニリ(右記)というデュオを立ち上げて、世界的な成功を収めました。ミニ・バニリは、グラミー賞を受賞するほどの人気でした。しかし、メンバーの2人が実際には歌っていなかったということが後に判明し、グラミー賞の剥奪など、大スキャンダルとなったのは有名な話です。いずれにしても、ボニーMにしろ、ミニ・バニリにしろ世界的な成功を収めてしまったのですから、フランク・ファリアンが有能であることは言うまでもありません。 ボニーMは、ヨーロッパにおいて、「ダディ・クール」「サニー」「マ・ベーカー」「ベルファスト」「バビロンの河」「栗色の髪の少女」「怪僧ラスプーチン」「メリーズ・ボーイ・チャイルド」といった8曲のNo.1ヒットを持っています。また、同様に3枚のNo.1アルバム(ファーストからサードまで)のヒット記録もあわせもっています。また、世界中で、4千万枚以上のアルバム、6千5百万枚以上のシングルを売り上げるほどの人気がありました。日本では、彼らが正当な評価をされていたかと言うと、そうではなく、彼らの半裸に近いジャケットなど、視覚的情報が断片的に伝わり、キワモノ扱いされていたように思います。しかし、30代後半〜40代前半の人々には、懐かしい青春の1アーチストとして、それぞれの胸に残っているのではないでしょうか。 なお、黄金期のボニーMのサウンドを支えていたミュージシャンには、(後に、アラベスクのサンドラの夫となり、エニグマとしても活躍することになる)マイケル・クレトゥがいました。マイケルはキーボーダーとしてボニーMのクルーの一人で、当時のアルバムのクレジットや、インナー・スリーブにも写真が掲載されています。マイケル・クレトゥがほとんど同時期に、ボニーMやアラベスクを支えるミュージシャンとして活動していたなんて、驚きの話です! |
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![]() 向かって一番右がマイケル・クレトゥ、右から三番目(赤字)がフランク・ファリアン |
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なお、ボニーMは1986年にいったん解散してしまうのですが、その後、再結成をしています。また、メンバーの一人ひとりがそれぞれのボニーMを結成したりするなど、バイオグラフィーはかなり複雑です。1986年の解散後の活動については、『ボニーMのその後』というセクションとして紹介しています。 |
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MEMBERS |
![]() マーシャ・バレット (MARCIA BARRETT) |
![]() リズ・ミッチェル (LIZ MITCHELL) |
![]() メイジー・ウィリアムス (MAIZIE WILLIAMS) |
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マーシャは1948年にジャマイカのSt. Catherinesで生まれ、ロンドンで育ちました。 ロンドンでは、歌手になることを夢見ながら数年間、秘書として働いていました。後に、ハンブルグのフランク・ファリアンのスタジオでセッション・シンガーとして活動していた時、ボニーMの加入を勧められメンバーの一員となりました。 なお、1981年には 「YOU」というソロ・シングルもリリースしています。 |
ボニーMのリード・シンガーである、リズ・ミッチェルは1952年にジャマイカのClarendon生まれ、11歳の時にロンドンに移り住みました。 リズは母親のサポートの元、ずっとシンガーになることを夢見ていました。秘書として働いていた頃、あるエージェントに、ミュージカル「ヘアー」のベルリン版の主役をやらないかと言われました。リズはこれを承諾し、ベルリンに移り住み、そこで3年を過ごしました。この後、ロンドンに戻り、音楽業界での成功を夢見て、セッション・シンガーとして活動している時、新しいバンド、ボニーMに加入しないかと勧められたのがメンバーとなったきっかけです。 |
メイジーは1951年に、カリブ海の最も小さな島である、モントセラット島(イギリス領)で生まれました。 後に両親と共に、より良い暮らしを求め、ロンドンに移り住みました。ロンドンでは、まもなくモデルの仕事を始め、いつしか「ミス・ブラック・ビューティフル」という名を得るようになりました。 ドイツを旅していた時に、出来たばかりのグループ、ボニーMに加入しないかと言われたのが加入のきっかけです。 なお、彼女はボニーMでは、ほとんど口パクで、実際には歌っていなかったようです。 |
![]() ボビー・ファレル (BOBBY FARRELL) |
![]() レギー・ツィボー (REGGIE TSIBOE) |
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ボビーは、1949年、カリブ海のアンティル諸島(オランダ領)のアルバ島で生まれました。 学校卒業後は、世界各国を渡り歩き、最終的にオランダでDJをしていました。フランク・ファリアンは彼のDJやダンサーとしての才能を耳にして、ボビーはオランダからドイツに移り住み、ボニーMへの加入となりました。 81年に『クリスマス・アルバム』のレコーディングをした後、ソロ活動のために脱退しました。しかし、後の85年のアルバム『アイ・ダンス』でカム・バックしました。 また、彼もボニーMでは、ほとんど口パクで、男性ボーカルは実はフランク・ファリアンが担当していました。 なお、1981年には 「POLIZEI」、1985年にも「KING OF DANCING」というソロ・シングルをリリースしています。 |
1950年、ガーナのKUMASI生まれ。イギリスで教育を受けたあと、そこで、音楽とドイツ文学を学びました。 ピアノ、ギターなどの楽器や、作詞、作曲の才能もあり、舞台で活躍していました。後にヒット曲を書き下ろしたり、アーチストのプロデュースをするようになりましが、再び舞台の世界に戻り、1979年には、ロンドン版「ジーザス・クライスト・スーパースター」に参加するなど活躍していました。これらの舞台の一つがフランク・ファリアンの目にとまり、レギーをドイツに呼び寄せることとなりました。 元々はソロ・シンガーとしてプロデュースするつもりだったのですが、ボニーMの一員となりました。 |
FRANK FARIAN ( producer ) もう一人のボニーM |
そして、忘れてはいけないのが、プロデューサーのフランク・ファリアン。彼の存在なしにはボニーMは語ることは出来ません。 |
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フランク・ファリアンは、当時人気のあったビートルズなどのロックやポップスよりも、サム・クックや、リトル・リチャードなどのソウル・ミュージックや、ブラック・アメリカ音楽が好きでした。やがて彼は、故郷を懐かしむアメリカ兵向けに、地元のクラブでソウル・ミュージックを唄っていました。彼はソウル・ミュージックのカバーがとても上手く、あちこちのクラブからひっぱりだこでした。 その後、彼はシンガーとしてミュージック界で活動を始め、「Frankie Farian and the Shadows」をいうグループを立ち上げ、ドリフターズなどのブラック・ミュージックのカバーをリリースしていました。しかし、残念ながら大きなヒットには結びつきませんでした。 「当時、誰も僕の音楽を必要としていなかった。」-フランク・ファリアンはこう回想します。白人が黒人音楽を歌うことは市場では受け入れられず、レコード会社は彼にジャーマン・ミュージックを唄うように言ってきました。当時のジャーマン・ポップスは、聴衆がウキウキするような明るいサウンドが主流でしたので、 フランクはとても惨めに感じていました。 70年代の初めには、自らが歌ったり演奏したりするよりも、他のアーチストのプロデュースにシフトをおくようになりました。そして、まもなく、ボニーMというディスコ〜ユーロポップ・グループを立ち上げ、ヨーロッパで人気アーチストに仕立てますが、随所にブラック・ミュージックのエッセンスを盛り込んでいました。 ボニーMは、表立っては4人のブラック・アーチストによってパフォーマンスされていましたが、実はボニーMはフランク・ファリアン自身でもありました。このように、ボニーMを通して、好きなブラック・ミュージックを自身が演じることが出来ました。しかし、レコードのインフォメーションにフランク・ファリアンは、バック・アップ・シンガー(=コーラス)と記載されることもありましたが、時には何も触れられないこともありました。 フランク・ファリアンはインタビューでこう言いました。「ボニーMは、黒人音楽と白人音楽が完璧に融合したものだった。しかし、アメリカのマーケットにおいては、音楽はまだ、黒と白の融合は受け入れられず、黒か白かでなければならなかった」「本当のクロスオーバー・ミュージックは、70年代後半や80年代の前半にはまだ来ていなかったのだ」と。 フランク・ファリアンは、たくさんのレコードを売り上げ、ヨーロッパでは名の知れたプロデューサーの一人になりました。また、後に、スティービー・ワンダーの「心の愛(I Just Called to Say I Love You)」のレコーディングへの参加、ロック・バンドのミートローフやトトらとの仕事、ミリ・ヴァニリ、ラ・ブーシュらのプロデュースなどを通し、世界的にも有名なプロデューサーになりました。 |
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