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last updated : 2004/3/25








ボニーMの軌跡を時系列に従って追ってみることにしましょう。



1974  (後のボニーMのプロデューサーの)フランク・ファリアンは、Zambiという変名で、「ベイビー・ドゥ・ユー・ワナ・バンプ」という曲を書き、ドイツのオッフェンバッハのスタジオで、声色をかなり変えて自らがレコーディングしました。
1975  フランク・ファリアンによる「ベイビー・ドゥ・ユー・ワナ・バンプ」は、ボニーMというアーチスト名でリリースされました。それが、オランダやベルギーでヒットし、その影響により、テレビやプレス用にグループを立ち上げる必要が出てきました。そのため、フランク・ファリアンは、アーチスト・エージェントを通し、3人の女性と1人の男性と契約、ボニーMを立ち上げることとなりました。
 初期のボニーMのメンバーは、メイジー・ウィリアムス、Sheila Bonnick、Natahlie、そして、Mikeというメンバーでした。しかし、彼らはあくまでも形だけのアーチストで、曲に併せ口バクで歌い、ダンスをするだけでした。
 「ベイビー・ドゥ・ユー・ワナ・バンプ」のヒットの後、フランク・ファリアンは、恒久的に活動するグループを立ち上げようと、メイジー・ウィリアムスだけを残し、新たなメンバーのマーシャ・バレット、クラウディア・バリー、ボビー・ファレルの4人と契約を交わしました。クラウディア・バリーは、(その後に控えていたボニーMの世界的な成功を経験することなく、)まもなく脱退。リズ・ミッチェルが代わりに加入しました。そして、フランク・ファリアンは、新しいボニーMのメンバーでレコーディングを行いました。

*クラウディア・バリーは後にソロ・ボーカリストとしてドイツを中心にヨーロッパで活躍することになります。「ブギ・ウギ・ダンシング・シューズ」は全米でもヒットしました。
1976  春には、シングル「ダディ・クール」、その後、ファースト・アルバム『ダディ・クール(TAKE THE HEAT OFF ME)』をリリースしました。シングル「ダディ・クール」は、リリース当時はヒットはしませんでしたが、ドイツのテレビ唄番組「MUZIK LADEN」の出演や、夏の間、ドイツでのディスコ・ツアーをきっかけに、9月には大ヒットになりました。そして、次のシングル「サニー」も1位を記録しました。
 ファースト・アルバム『ダディ・クール』でのボーカルは、ほとんどをリズ・ミッチェルと、フランク・ファリアン自身が担当していました。また、イギリスでもレコードをリリースするようになり、シングル「ダディ・クール」は6位のヒットとなりました。 
1977  シングル「サニー」はイギリスでも3位という大ヒットを記録しました。
 しかし、より大きな成功は、セカンド・アルバム『LOVE FOR SALE』によってもたらされました。セカンド・アルバムからのシングル、「マ・ベーカー」はドイツで1位、イギリスで2位、「ベルファスト」はドイツで1位、イギリスで8位のビッグ・ヒットとなりました。実は「ベルファスト」は、北アイルランド紛争をテーマにしたものだったため、同国では、ラジオで放送禁止となってしまいました。
 アルバム『LOVE FOR SALE』は、ドイツで1位のヒットとなりましたが、イギリスではシングル・ヒットの割には、60位と奮いませんでした。これは、アルバムのジャケットが、ファースト・アルバム同様、メンバーが全裸や半裸などという衝撃的なものだったからということです。
1978  1978年は、ボニーMがイギリスで最も成功した年でした。「バビロンの河」は5週連続の1位になり、ラジオ・ステーションでB面の「栗色の髪の少女」をかけるようになると、「バビロンの河」がチャートを下降してゆくのと逆に、チャートを駆け上り、なんとB面でありながら2位というビッグ・ヒットになりました。
 また、この年にリリースしたアルバム『ヴィーナスの冒険』は、イギリスでも遂に1位に輝く大ヒットとなりました。このアルバムからのシングルは、イギリスでは「怪僧ラスプーチン」が2位、「メリーズ・ボーイ・チャイルド」が1位となりました。ドイツではこの年にリリースした3枚のシングルのすべてが1位でした!
 また、イギリスでは、「TOP OF THE POPS」というテレビ番組に出演しました。そして、「ロイヤル・ヴァラエティ・コンサート」の後、クイーン・エリザベスに面会(右記参照)するという機会にも恵まれました。なお、イギリスではこの年、「バビロンの河」が、史上2番目によく売れたシングルという記録的なヒットとなりました。
 アメリカでは、「バビロンの河」が初のトップ40ヒットとなりました。しかし、アメリカでのトップ40ヒットは残念ながら、(後にも先にも)この1曲だけにとどまりました。
 また、(当時ソビエトと呼ばれた)ロシアにおいて、ボニーMは、西側のポップ・アーチストとして初めてコンサートを行いました。なんと、モスクワの赤の広場でコンサートを行ったということです。しかし、歴史的な理由から、「怪僧ラスプーチン」を歌うことは許可されなかったそうです。

1979  イギリスでは、シングル「ペインター・マン」は10位、「フレー・フレー」3位(ドイツでは4位)というビッグ・ヒットとなりました。また、「エル・ルーテの物語」はドイツで1位、AB面が逆になった「ガッタ・ゴー・ホーム」は、イギリスで12位というヒットになりました。こうしてリリースされたアルバム『オーシャンズ・オブ・ファンタジー』は、イギリスでもNo.1となりました。また、このアルバムにはゲスト・ボーカリストとして、元エラプションのプレシャス・ウィルソンを向かえていました。

*エラプションとは、イギリス出身のアーチストで、後にフランク・ファリアンによるプロデュースにより、人気が出たディスコ・グループ。「恋の片道切符」などのヒット曲があります。

 また、この年の5月にはプロモーションのため来日もしています。ツアーはありませんでしたが、いくつかのテレビ番組に出演したそうです。日本各地のディスコで行われたダンス・コンテストの模様を放送した番組に、ゲストとして出演したそうです。

1980  (海外では初めての)ベスト・アルバム『マジック・オブ・ボニーM』がリリースされ、ミリオン・セラーとなりました。このアルバムはイギリスでも1位を獲得しました。
 前年の暮れにリリースされたシングル「生まれ変わった私」はイギリスで35位、翌年の「マイ・フレンド・ジャック」は57位と、このあたりからイギリスでの人気に陰りが見え始めました。しかし、ドイツでは相変わらず高い人気を誇り、「生まれ変わった私」は7位、「魅惑のボート」は5位、「あぁフェリシダード」は6位という好成績でした。 
 また、(前年に結婚した)リード・シンガーのリズが妊娠、そして出産と、ボニーMにとってしばらくの間、活動休止となったということです。
1981  新しいアルバムの『ボノノノス』をリリース。このアルバムはこれまでのものと異なり、レゲエのリズムやメロディを大胆に導入していました。また、この年、ボニーMはジャマイカ・ツアーを行い、たくさんのライブを行いました。
 そして、この年の暮れには、彼らにとって初めてとなるクリスマス・アルバムもリリースしました。(日本ではピンと来ないかもしれませんが、欧米では、クリスマス・アルバムをリリースするということは、人気アーチストの証でもあるのです。)
1982  この年、ボビー・ファレルが脱退し、代わりにシンガーで、ライターでもあるレギー・ツィボーが加入しました。そして、彼のボーカルをフィーチャーしたシングル「涙のカーニヴァル」をリリースしました。
 この年あたりから、ボニーMは、だんだんとヒットに恵まれなくなってしまいました。しかし、ヨーロッパでは、ライブ会場をいつも満員にするくらい、依然としてライブ・パフォーマンスには人気がありました。
1983  エスニックな「ジャンボ」がリリースされました。ドイツではまったくヒットしませんでしたが、エスニックな音楽ということから、アフリカの国々ではヒットしたということです。
1984

 新しいコンセプト・アルバム『ファンタジー・ワールド(TEN THOUSAND LIGHTYEARS)』をリリース。このアルバムは流行のシンセ・ポップ・サウンドを取り入れたという点において、音楽性がまた変わりました。このアルバムからは、「エクソダス」「どこへ行くの」がシングルとしてリリースされましたが、残念ながらまったくヒットしませんでした。
 「カリンバ・デ・ルナ」はボニーMとして、初めての男性のリード・ボーカル(レギー)によるシングルでした。ボニーMはしばらくシングル・ヒットから遠ざかっていましたが、ドイツでは、81年の「世界はルンルン」以来、この曲が久々のヒットになりました。また、続く「ハッピー・ソング」では、脱退していたボビー・ファレルがカンバックし、ボニーM初の5人でのリリースとなりました。ドイツ盤の名義は、BONEY M. and BOBBY FARELL with school-rebels (ボニーMとボビー・ファレル そして学校嫌いの子どもたち)名義となっています。そしてこの曲はドイツで7位という大ヒットになりました。(実はこの「ハッピー・ソング」もイタリアのアーチストのカバー曲)
 年末には、この「ハッピー・ソング」や「カリンバ・デ・ルナ」のエクスティンデッド・バージョンを収録したコンピュレーション・アルバム『16ハッピー・ソングス』をリリースしました。

1985  ボビー・ファレルが、再びボニーMのメンバーになってから、初めてのアルバム『アイ・ダンス』をリリースしました。このアルバムでは、シングルにもなった「ヤング・フリー・アンド・シングル」同様、レギー・ツィボーのボーカルがかなりフィーチャーされています。しかし、残念ながら、このアルバムの評価はあまり良くありませんでした。
1986  結成から10年、遂にボニーMは解散となりました。
 しかし、前年にリリースされた『THE BEST OF 10 YEARS』(日本未発売)というコンピレーション・アルバムが、イギリスで86年には、35位のスマッシュ・ヒットとなりました。







 これ以降の活動については、「ボニーMのその後」にてご覧ください。
 


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