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                     グレーフェンベルグの朝


 グレーフェンベルグスポットとよばれるスポットをそろえた指先ですぽすぽと捏ねてやる。すると彼女は、そこ、なんかある。と言った。
「これがG-spotだ」きいたことあるだろ、と囁くと、すぐに膣壁の内側に五百円玉大の隆起が生じて素直だったので、さらに指先の力を按配して人差し指と中指でぐにぐにと圧し捏ねまわし、グレーフェンベルグスポットとは、1950年、ドイツの産婦人科医エルンスト=グレーフェンベルグによって存在が明らかにされた性感帯で、膣壁の腹側、挿入した中指の第二関節を曲げたときにちょうど指先が触れるくらいの深さの、へそを十二時とすると十時と二時の間にあって、刺激すると亀頭部のように固く肥大し、尿意に似た性感を覚え、尿様で無味無臭の液体の放出をともなってオーガズムに達する、といったことを説明してやった。
 つまり潮を吹いていっちゃうってことだ。
 へぇ。
 と素っ気ない返事をしてから、彼女は、あー、と声をあげ、おしっこでちゃうー、と言って首を振ってから鉄砲魚のようにぴゅうと潮を吹いていってしまった。獲物は僕で、撃った鉄砲魚はベッドに無残に横倒しで、くじらにでもなった気分か。
 僕はしかたなく、やる気のないおちんちんをしごいて彼女の左尻のあたりに煩悩の成れの果てのかすみたいのを少しかけてやって、心身の気怠さにまかせていっしょに横倒しになって少し寝た。なんて気怠い昼だ、太陽が黄色くて窓が黄色くて部屋はすこし黴っぽい。彼女にぶっかけられた潮で体表がぬるまっこい液体の成分は精液と同じで、僕は女性の射精をこの身に受けてしまった液体の成分は黄色い太陽と同じだ。窓の外は黄色くて、部屋の中はしばらく前にどこかで往生したネズミの亡骸の蒸散する匂いでまろやかだ。この部屋で僕らはネズミの命を吸って吐いて生きている。

 夕方になっても蝉の声はあいかわらずで、

 彼女は、エルンスト=グレーフェンベルグの話が気に入らなかったらしい。
「グレーフェンベルグっていったら、おいしいドイツの白ワインじゃない。ドイツワインの白は最高なのに」それとG-spotが一緒にされたのがご不満か。
 ドイツの白ワインといえば、シュヴァルツェカッツ黒猫とかリープフラウミルヒ聖母の乳だ。どちらもエロい香りと口当たりで、エロ妄想とともに喉に流し込んで、とても良い。どちらもそれなりに萌えるし美味いので、それしか知らないけれど、それでじゅうぶんだと思っている。
 エルンストという名前も彼女の好みの名前のひとつらしく、そんな彼女にとっての萌え名がG-Spotなどというまんこ用語に使われているのも我慢ならないのだという。
「だってほら、アーネストエバンスだよ。なつかしー」
 アーネストエバンスはEARNEST EVANS、エルンストはErnst Grafenbergだろう。
「でもどうせなら、アーネストエヴァンスであってほしかったな。いま思えば」
「そうそう」それは同意。「あれヴァじゃなくてバなんだよな」
 ウルフチーム/日本テレネットである。
 Riot/日本テレネット、レーザーソフト/日本テレネットなど、往年の名作たちが目白押しだ。
 夢幻戦士ヴァリスが哀しい運命にひたむきに立ち向かっているころ、僕らは近所のファミレスで暢気に涼んでいた。ファミレス納涼大会inガストは盛大にドリンクバーで盛り上がるでもなく、食事はとっくに済んでいて、目玉焼きの載ったハンバーグが口から味とともに腹に下っていってもう久しい。やがてその味が腹の中で醸され忘れたころにげっぷに乗って反芻される味とニオイに厭になる。あゝ厭ダ厭ダ。
 定番の山盛りポテトに殺人的に塩をぶっかけ、方形をした綺麗な結晶を従えた塩塩しいイモたちに血色のケチャップを絡めて食すと口の中が殺人的な殺伐荒涼とした戦場がひろがって際限がなく、そんなイモの食い方でフォーク片手にひょいぱくひょいぱくとイモ食い競争を淡々と繰り返す黄色い午後の窓に背を向けて。僕らは。世界に背を向けて。命の糧はイモだ。殺人的なイモだ。

 山盛りポテトフライに緩慢に殺害されながら話をしたりしなかったりぼーっと壁掛液晶モニタを眺めたりしながらの無意識の呼吸で細胞が酸素に少しずつ侵されたり気持ちが壊死してきたりそういうふたりでやる殺しあいにも飽きて店にも呼吸せざるをえない其処の空気にもいい加減飽きてしまったので、僕らはとっとと店を出た。液晶モニタに意味がまったくないというのが何よりも最悪だった。それを見る僕らにも意味がない。まあそれでいゝ。
 ハンバーグとイモとスープとドリンクバーと壁掛液晶モニタ(食えない)で積極的にだかそうでもないんだかの姿勢で僕らを確実に殺しにかかるファミレスを後にして。黄色い街を闊歩する。性の乱れが叫ばれてもうどれだけ経ったろう、確かに世の中乱れてる。なんて歩きながら茫と思う。
 そこの電柱にセミのように男がいる。もしくはイヌのように。
 男は電柱と性交をしていた。あーあ。
 年がら年じゅうホールトマト缶九十八円の角の商店では、大小さまざま丸い腹をした妊婦たちが幼子を伴って店の外側に段ボールごと置かれた売り出し商品に買い物籠片手に群がっていて、あるいは若い母親が片手でベビーカーを押し片手で幼児の手を引き店の入り口付近に横たわって噴水の如く射精している若い男をするりとスマートに避けて店内に入る。今日は何が安いのかな。という興味すら抱かせない。年がら年じゅう何でもかんでもそれなりに安い。膨大な種類のカップラーメン群も九十八円。乾いたカップ麺の匂いのなかでやがて干からびてしまうのだろう、彼の精子は。三日は生きて泳ぐという精子たちは。この乾いた黄色い太陽の下で。生きるために死んでゆき、生き残るを得た者も死に、死に絶えるのだろう。と思ったら、おばちゃんが一人、彼の精液をさっと指先に絡めとって薄汚れたピンクのふりふりのエプロンの裾から股間に手を遣ると、どうやら若い精虫をグレーフェンベルグさんの隠居する書斎へと素早く運び込んだ模様。これで救われる精もあるかもしれない。おばちゃんありがとう。股間に遣った手は僅かにもごもごと蠢いたかと思うとひらりと翻り、何事もなかったかのように買い物籠を?んでいた。おばちゃんの朝晩のスキンケアさながらに手早くさっぱりしたもので、ちょっと感心してしまった。
 そうやって遠目に眺めているのを隣の女に見咎められてしまった。盛大に射精する若い男につられて無意味に勃起してしまった僕の下半身と、よそよそしく無関心を装う僕の間抜け面と、ついでに自分の孕み腹とを、その盛大にせり出した球弧を撫でながら、呆れた表情で見比べていらっしゃる。あゝ面倒くさい。
「あんたも、あのおばちゃんに精子くれてくる?」
否々僕はまう枯れ果てゝしまつた疲れ果てゝしまつた、あんな若者の精に混ぢつてヨーイドンに参加しても息を切らしてへたり込んで仕舞ふだけだ。箱根も二区でリタイアだ、権太坂にも辿り着かない。
「種違いの双子ちゃんに恵まれるかもよ?」
 たのむから勘弁してください。それだけ言って、気怠い太陽の下を黙々と歩き続けた。

 とりあえず、少子化には歯止めが掛かった格好だ。環境保護団体による全世界的洗脳テロ大量集団自殺をまぬがれ、この地球をさらに虐め抜いてやろうという精鋭どもの子種が次々と湧き出て再び地上に溢れかえるというわけだ。サステイナブルな地球環境保全のためには次の手を打たねばなるまい。
 今年の春の人類繁殖期も、期間が前後にびろびろと広がりがちだった。性欲なんてそんなものだ。出番が無ければそれなりにおとなしくしているが、活躍の場を与えられてしまえば、次から次へと仕事を欲しがる。結果、男どもはいつでもどこでも勃起しては精を垂れ流し、女たちはオギノ式による今月の繁殖期と種々の避妊法を武器に闘う。ときには同性同士で何とか解決しようという試みもあるし、男性が妊娠出産を試みるカップルもいる。産科医も助産師も決定的に不足して、隣近所の自宅出産お手伝いだの周産期介助技能士検定だの民間赤ひげ的な試みが地域社会を活性化し、産休中の女子高生は陣痛が始まるとわざわざ学校にやってきて保健室を頼る始末。周産期医療体制の早急な整備が望まれるとか報道番組で言われて幾星霜、一向に進捗しないまま、来冬にはまたベビーラッシュを迎え、すぐにまた次の繁殖期を迎えるのだろう。この短い周期に疲れてもううんざりだと厭々生きている僕は、ただただ射精をする男どもの外輪を囲んで度重なる妊娠出産育児に疲れてみたり活き活きと生殖の春を謳歌してみたりする女性たちのさらに外側にぽつねんと立ってひとり達観し、世間に完全に捨て去られていて、どこかすみっこで小さく蠢き時々鳴いたりもする我が家のネズミみたいなものなのだろうけれど、性の開放を成し歓喜の歌を大合唱する人類を傍観して風情に浸るのも実はやぶさかではない。
 そんな僕の隣にいる彼女は予定日の迫った今でもいつでもどこでも元気はつらつお肌つやつやで、僕との温度差を気にかけたりなどするものか。
三六五・二五二二日の公転周期とおよそ二百八十日の妊娠期間。そしてまたすぐにやってくる次の春。繁殖の季節を迎え、皆いきいきと……などと毎年毎年。月の巡りや公転周期を何倍かに間延びさせないと、そして不妊期間としての育児休暇を設けないと、人類という種は再度瞬く間に地上を埋め尽くしてしまうだろう。集団が過密になるほど社会は病的な症状を呈するものだ。やれ戦争だやれ自殺だ殺人だサイコだ超能力だと、面白おかしい社会を描いては自ら滅んでゆく。
 この世界は、あらゆる細胞の生死を繰り返して生命活動を維持しおはようからおやすみまで人生を営むひとつの生命体のようなもの、森羅万象あらゆるものの生と死、ところてん式世代交代を繰り返し、そこに美しい奇跡を描きながら成り立っているというのに増え続ける私たちって素敵! 異常発生異常増殖とは癌細胞でも気取ってんのか。そんなことを考える僕は先の時代のエコテロリストと同じなのか。
 あらゆる種の有機物無機物の出生と死亡と母なる地球の健康と長寿、ちょうどいいバランスがとれる妥協点に継続的にとどまるのが難しいとなれば、せめて人類の多くが、親元を離れるように宇宙へと旅立たなければなるまい。火星なら一年という周期がもうちょっと長いだろうし、環境が違えば妊娠期間も違うかもしれない。増えすぎる人口を適当に間引くには手っ取り早いだろう。宇宙進出。火星移住。萩尾望都だ。竹宮惠子だ。ガンダムだSFだ。うむかっこいい。悪くない。悪くないけど、めんどくさい。出不精の僕は思う。ひきこもりの立場から言えば、生き残ろうとするなら周りの環境を変えてしまうほうがいい。地球温暖化がそんなに深刻なら、太陽なんてぶっ壊しちまえ。いまの技術ならそれくらいのことはできんじゃね? 人間魚雷『マーキュリー』とかで。太陽の中心めざして突き進んでさ」
「『世界を革命する力をー』ってか?」声色を使って棒読みで。挙句、
「ばかだこいつ」
 笑われた。
「宇宙規模の環境破壊じゃん、それ。太陽系なくなるし。重力バランスもつりあいとれなくなって、惑星みんな慣性とか他の惑星の引力とか太陽ぶっ壊した爆風だか太陽なくなったあとの空き地がブラックホールになるんだか知らないけどそんなんで、どっか飛んでいっちゃったり惑星同士ぶつかったりで、めちゃくちゃになるんじゃない?」
「それはそれで楽しそうじゃね?」
「うん、そりゃ、まぁ。でも、あたしは宇宙進出のほうがいいなぁ」
 宇宙への亡命、火星への移住、甘やかなる逃避行。シド=ミードがデザインを手がけたというお洒落シューティングゲーム、テラフォーミングを思い出す。
「あれ、びみょーに欲しかったんだよなー。でも、じきに店からなくなっちゃって、買いそびれた」
「テラフォーミング持ってたよ。背景スゴいんだけど弾が見づらくてすぐ売っちゃった。フォーセットアムールとかもなつかしいよね」
「あーフォーセットアムールは売ったの超後悔した。ゲームの出来栄え云々じゃなく、エンディングの最後の1カット、あの小首傾げた笑顔のためだけにあのゲームはやる価値があった。最初はフツーに楽しんでたんだよ。でも、これ、なんかヴァリスに似てるよね。んでさ、ヴァリスのほうがずっと良くできてて面白いよね。って言われてみたらその通りで、その残酷な現実に当時の俺は抗うことができなくて、ついつい売っちゃったんだよなーあーいまでも後悔してる。どっかに売ってないかな」
 僕は当時の不甲斐ない己を恥じ、男哭きに哭いた。そう、可憐な少女のしぐさ、表情。世界の宝であるおんなのこの価値の真髄はここにあるのだ。隣から注がれるしらじらとした視線が痛痒い。風がつめたくなってきた。

 黄色い夕焼けと藍空のグラデーションが広大な天頂部に広がっている。宵の明星がやたらと輝いている。もうじき、あの六畳間にたどり着く。愛と悪臭の六畳間。古い窓枠の下の白い繭のような蜘蛛の巣が、あのおぞましく生々しい巣が実はダンゴムシをはじめとする外界からの有象無象の侵入者を絡めとって防いでいた、主たる蜘蛛は侵入者を捕食して生き永らえ、僕はそうと知らずに蜘蛛の巣を忌み疎みながら侵入者に脅かされることなく安穏と暮らしていた、そういう大自然のシステムがそこに機能していた、窓の下の汚い地表を蟻の目で見たのと同じ野生の営みに実はこの部屋も僕の生活も容赦なく組み込まれていた、この世界のある真実の一端がそこにまざまざと顕れていた、そのことが譬えようもないほど懼ろしく、この部屋に人知れずひっそりと息づき育まれていた僕の心の奈落。底なしの。が目を背けようもない厳然たる事実としてそこに在ることを知らしめられてしまい、クモの巣を取り去ることができなくなってしまったあの夜の絶望を誰が知ろう。以来続く心密かな蜘蛛神さま信仰を誰が知ろう。
「あーごめん、いま知ったわー。なんであのクモの巣取らないんだろ、ってずっと思ってた」
 それにしてもあんたナルシストだよねと彼女は相変わらずの冷ややかな視線で僕を見つめる。僕はそんな冷視線にちょっぴり新鮮な気持ちになってしまって、さっきからどぎまぎしている。困った。
「蜘蛛が殺せなくなった。蜘蛛は殺しちゃ駄目なんだよ」
「はいはい」アトラク=ナクアね。姉様登場シーンの曲いいよね。と彼女はあくまで軽くあしらってくれるので有難い。そうそう、Red Tintの、あの全編SUS4の調べにのって立ち現れる幽玄の世界。あの曲が始まると、蜘蛛神の彼女に、現世から一枚浮いたあやしい世界へと一瞬にして曳き込まれ、もう二度と戻れないのだ。
 軽やかな振舞いを続ける彼女の、この信じがたいほど膨らんだ腹にも、なにかそういうあやしいものが息づいているのか。隔世か。奈落か。アトラク=ナクアか。
彼女と僕との出会い。出会うまでと出会ってからの過程。と結果。から推察されるに。
 断じて、僕の子供ではない。
 ある日、たわむれに。
たわむれに彼女とHRごっこをやっただけである。
「ひぎぃ、らめぇ、あかちゃんできちゃうー」と彼女は定型句を口でなぞった。棒読みで。畳の上にぺたんと座って。しょうもないけどいとおしい漫画たちをそこらにばら撒いて。ふたりで麦茶をすすりながら。
たった、それだけ。そんな他愛ない遊びのことなど、すぐに忘れてしまった。
そう、とっくに忘れてしまっていたというのに。よりによって彼女は僕に訴えてきたのだ。
 ──あのね。あのね、せいりがこないの。
「あれ。ふーん。そう。どしたんだろね」知らん。
 ──にんしんけんさやく、やってみようかな。かうのつきあえ。
 僕は彼女に引きずられて薬局に入り、まっすぐ売り場へ連行されて、コンドームの隣にある華やかな各種妊娠検査薬を手にとって吟味させられた挙句そのうち一つを買わされてしまった。まったく納得いかないが、そんな羽目になった。そして彼女の部屋に連行され彼女に手をぐいと引っ張られて一緒にトイレに入り、なになに連れション? などと言うこともなく下半身すっぽんぽんで便座に腰掛けた彼女の股間と便器の間のひんやりとした空間にむりやり手を突っ込まされ、彼女の薄い陰毛に手首の裏をくすぐられた瞬間、妊娠検査薬とついでに僕の手におしっこをひっかけられるという、まったく酷い目に遭った。おしっこは酷い。
 人生で初めて味わう妙な緊張を共有しながら二人で妊娠検査薬を凝視していると、白いプラスティックの製品本体に開いた丸い窓から見える薬液の染みた濾紙にやがて彼女のおしっこがじわじわ伝わってきて、きったねーなと思っているうちにピンク色の『+』印を描いたんだか描いてないんだか微妙な感じで『−』のようにも見えたので、そのときは結局よく判らなかったので放っておいてごみの日に捨てた。プラスティックは燃えるごみ。濾紙もおしっこも燃えるごみ。
 そしてある日突然彼女に告げられたのだ。あのね、想像妊娠六週目だって。六週目? なんだそりゃ。六週目はね、妊娠二ヶ月の後半。ふーん。で、想像妊娠? うん、そう山川先生が言ってた。山川先生? うん、エンゲルスクリニックの先生。産婦人科の。ナイスミドルのおじさまなんだよー。ロマンスグレーで少しウェーブ掛かってて。メガネで。すごーいいい人っぽかった。あの先生ならいいな、うん。
 よりによってロマンスグレーの天パのおじさまに彼女のまんこをまさぐられた挙句あの先生ならいいな、うん。と彼女の心までまさぐられたことよりも、エンゲルスクリニックの受付嬢がプラスティック製のコインカウンターにトップコートのみを施した薄いピンクの爪の先でかちりと触れる妄想で頭の中がもわもわピンク一色になってしまって、実のところ山川先生は果てしなくどうでもよかった。人畜無害。
「いやさ、話戻るけど、想像妊娠?」
「うん。えっへん! おめでたなのだ」
「そうなの?」
「うん」
「それって、何なの? お腹、何か入ってるの?」
「んー、多分。」
「想像上の何かが?」
 あんまりいじめないでよ。……
 雨が降っていた。

 山川先生は診察時に彼女の膣口に確かに処女膜を認め、経膣エコーを使わなかったそうだ。彼女が処女を喪失したのは、その二か月後のこと。僕みたいな喪男に根強い処女信仰を、彼女は、妊娠しておきながら叶えてくれた。僕は彼女を、女神だと思った。

「……で、さ。予定日いつごろだっけ」
「昨日」
「えぇー」
「早く生まれないかなー。重たくて重たくて……座ってるとお腹がくるしくてケツイがまともにできないし、痒い」
「や、ケツイはいいけど、何。痒いの」
「うん。お腹の表面がなんか痒くて眠れないし、ケツイも一周目で集中力切れるし、裏二周は安定しないしで、やってらんなくて困ってる」
「や、ケツイは生まれたらまたできるようになるから、しばらく我慢しとけよ」
「やだ。きんだんしょうじょうがでる。ドゥーム様に逢いたい。それに、赤ちゃん生まれたらケツイなんてやってるひまないよ、きっと」
禁断症状。わからんでもないが、その前に自分の腹の中で大きく膨らんだ夢と希望を世界に解き放ってやれよ。
「あんたはいーじゃん好き勝手何でもできてさー! ガレッガだって蒼穹だってレイフォースだってダラ外だって斑鳩だってプロギアだって大往生だって……!」

 それから一週間経って、彼女は分娩の日を迎えた。いつもの六畳間で、お腹がなんかへん。とか言いながらゲームしたりマンガ読んだりしていつもみたいにだらだらしていたらもう差し迫ってしまっていて、苦しんで苦しんで想像を絶する痛みに翻弄され絶叫を上げ夜通し苦しんで朝までのたうち叫び、汗にまみれ疲れ果ててかすれた声で根限りの力をふり絞り、ふり絞り、ふり絞って、……生んだ。その身に宿した命を、大きく大きく育った夢と希望を、彼女はそうと自覚していないだろうけれど、渾身の愛で生んだ。山川先生が寄越してくれた助産師のお姉さんがそう言っていて、僕もそう思った。

 生まれたのは、夢でも希望でも理想の世界でもなく、ただの僕だった。

 いつもの六畳間で目を開けて最初に僕が朧に見たのは、窓の桟の蔭にちいさな巣を構えてダンゴムシを絡めとっている彼女だった。ああ、いつもの六畳間だ。と思った。世界の真実の一端がそこに糸を垂らしていた。生命の部屋だった。

 朝の光は硝子のように細かく尖って突き刺さり、だからまだ透きとおっていて、あんまり黄色くない。
「で、長らくお世話になった山川先生は結局どんなだったの?」
「よかったよー。あれこそまさに聖人君子じゃない? 性欲とかそんなの無縁みたいな」
「いや、産婦人科医がムラムラして目ーぎらぎらさせてたら、だめじゃん」
「それはそうだけどさー。でも、山川先生になら、ヘンなことされてもいいな」むしろしてほしいみたいな口ぶりで言う。
「このカレセンめ」
「いいよー枯れた男いいよー」
 枯れた男から精虫の最後の一匹まで搾りとるのか。このアトラク=ナクアめ。阿婆呑の魔性の女め。
 でも、山川先生は枯れてはいないだろう。仕事をしながら常に女の精を集めたり、また精を分け与えたりして呼吸をしているのだろう。彼女の山川先生を熱心に語る口調から、彼のあたたかな生命力が感じられた。

 それから、ひとしきりセックスをした。山川先生の精力を借りるつもりで望んだら、山川先生は遠く離れたクリニックから確かに一握の精気を送って寄越してくれた。彼女は、ほんのちょびっと、ひとしずくの精をうけいれてくれた。それだけでだいぶ満足だった。

「あーあー、グレーフェンベルグ先生になりてーなー」
「かくじつにエロいよね」
「歴史に名を刻んだエロ医師だよ。素晴らしい。じつに憧れる」
「グレーフェンベルグ先生になら、身を委ねてもいいな」
「山川先生より?」
「うーん……前立腺とかそのへんの研究で山川先生が四つん這いでグレーフェンベルグ先生にケツ掘られまくるんだったら、それはそれでイイ。萌える。白衣の嬌宴、あーそれいいなぁ、よだれでちゃう」……
 おもむろに、グレーフェンベルグ先生が人生を賭けた旅路の末辿り着いたスポットに中指の腹で触れて診た。すると、其処からぴゆうと涎が出て、あゝと彼女はいつてしまつて、其処に横たわつて寝てしまつた。子供の寝顔で寝入つてしまつた。あどけない子供だつた。グレーへンベルグスポツトといふのは生命の息吹を身体に呼び戻すスイツチなのか。さういふ便利なものなのか。だとすると、エルンスト=グレーフェンベルグ先生という医師は、大層偉大な功績を遺したことになる。

 僕が生まれてからは、この六畳間だけが、世界だった。
 ほかには、なんにもない。
 やがて僕らは黄色い太陽の下を気怠く歩き、緩慢で愉快な自殺を楽しむのだろう。そうやって生命を楽しむのだろう。
 己が生まれたときのことを思い出せたときに、やっと、はじめて、人は愛を知るのというのか。そうすれば、愛され愛に包まれて生まれた己の命、充足した命を知り、互いに尊重し、全うできるのか。やれ戦争だやれ自殺だ殺人だサイコだ超能力だと、面白おかしい社会を描いては自ら滅んでゆくのをやめることができるのか。
 どこかで死んだネズミの蒸散し往生する匂いがまろやかで、僕は煩悩の成れの果てのかすみたいになってネズミの命を吸って吐いて吸って彼女の腰のあたりにぴったりくっついて少し寝た。微かに乳の甘い匂いがして、ネズミの命の匂いと交じって、僕はこの六畳間で安心して眠りについた。
 起きたらガスト。
(了)

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