目次に戻る  トップページに戻る  ←前の作品へ  次の作品へ→
      青い


 空の拳で突き破った空の穴から宇宙の風が吹き込んでくる。透明な、青い白い風。流れのような一反の布のような風。そんな日曜日もある。
 窓の外はよく晴れた青空で、その空の下は住宅地の屋根々々の照りかえすまっしろい世界、明るくて白くて光の微粒子が四角いキューブ状の空間に充満していてきっとものすごくまぶしいのだろうと思われる、昼間だ、空が明るい、どこまでも青い、うざったいほどの青空で、要らない。だから窓の内側はかえってクロっぽい、外が光の白い粉で詰まっているせいで、窓の内側は、何かクロい。窓のへりとか、そのあたりの壁とか空気とか天井とか、蛍光灯とか。空気とか。部屋とか。マックロクロスケの煤の粉が、まばらにそこらをただよっていて、それだけでぎゅっと締まった空間。無温で、透明で、肌触りがやわらかくって、居心地のいい、何かクロい部屋。机。僕。そのほうがいい。人の目にやさしいし、暗い。何か黒いのが皮膚から染み込んでくる。そんなクロい部屋で小さな窓の四角いぶんだけが昼間の空気をあおく切りとっていて、隔絶。光の粒の微細で鋭く尖ったのがいちいち目や皮膚を刺して痛い昼間の充満した空気は、切りとられて外だ。キリエの外、そして内なるクロい部屋、と僕がいる、そんな此処にも、風は届く。風は吹いて息を吹き、空を吹き世界を吹いてやがて内に、こちら側に向いた窓を外からつきぬけて這ってくる。クロい部屋に風が届いて、くるりと弧を描き輪に描き、そう、このクロい部屋に風が吹く。透明な、青い白い風。流れのような一反の布のような風。マックロクロスケの粉が舞い踊る。さやさやと喜んで、空気中のクラムボンのように。
 僕は穴を掘っている。クロい部屋でクロくなって、黒い穴を掘っている。無機になって、黒い影になって、穴を掘り続けている。青くて白い昼間の窓は頭上。時たま風に吹かれて我に返るが、そのとき以外は、たいてい、真黒くなって穴掘りに専念している。
 ほくろが気になったのは、忘れた。かなり前。左腕の内側の肘に近いほう、腕橈骨筋の表面。黒くって、茶色くて、ちいさなほくろだ。さいしょはつめでむしった。
 つめでむしってかさぶたになって、ほくろとかさぶたが混じってなんだかわからなくなって、かさぶたと一緒にほくろも剥がれて無くなるように思えて安心していたのだが、かさぶたを剥いでもその下の薄いピンク色の皮膚にほくろはまだちゃんといて、黒くって、茶色くて、ちいさなほくろだった。それでますます僕はむきになって、ほくろをつまんではむしり、つまんではむしり、やがて爪のかたちにくぼみが出来たので、くぼみに爪の丸みを押しあてて穴の底のほくろをつまんで、むしりとった。するとほくろはむしってもむしってもまだちゃんとそこにいて、それでもひとまわりちいさくなったような気がするので、さらに僕はむしって、掘った。掘り下げた。穴が深くなってほくろに爪が届かなくなると、今度はステッドラーの製図用シャープペンシルの先端でえぐった。できるだけコンマ何ミリのほくろの細胞だけを削りとるように気をつけながら、0.3口径のシャープペンシルの先で少しずつ慎重にほくろの欠片を掘り出した。あんまり痛くなかった。掘るたびにじんわりと熱くて、その感覚に痺れて没頭した。毎日、毎日、左腕に穴を掘り続けた。
 その穴は、もう随分深くなった。ほくろはまだ穴の底に貼りついている。ちいさく、ちいさく、真黒くなって、でもまだちゃんとそこにいる。僕の一部となって、黒いのが、皮膚の中にいる。腕の中にいる。腕にあいた穴の奥に居座っている。僕の身体の奥底に、そうやって深く根を下ろし、根付いている、黒い細胞。
 そして今日、よく晴れたクロい休日、僕はクロい部屋で穴はますます深くなりほくろはますます黒くちいさな点になる。ほくろはそこにあり、僕は穴を掘る。ほくろを追って、僕は僕に穴を掘る。ほくろと、穴と、掘る僕。の関係。採掘は続く。左腕の採掘現場に、体液のごとく地下水が滲み、岩石の細胞の隙間からじわりじわりと滲み出て、掘れば掘るほど湧き出るそれをじゅっとティシュで吸い取ると、薄い生黄色い汁で、部屋はクロくて薄暗い。そんな午後である。
 血は出ない。
 ふと青い風に吹かれて僕は、矩形波が食べたくなった。長く、細く、すぱすぱと切ってある矩形波。小刻みな色とりどりの矩形波を、ぱりぱりとそんなものを食べたいと欲望した。空は相変わらず青く、深く、空気は白くって、夕方の気配が一滴だけ混じったような様子だった。
 ところが、空間を揺らして現れたのは正弦波だった。矩形波には満たない。味わいの無い、乾いた、まっすぐな、かたい正弦波だった。ゆるやかな当り障りのない実に微妙な絶妙な一番いやな軌道を流れる波形で、角張った「あたり」が無く、わりと不味い。仕方なく、僕は、その正弦波をばりばりと食べた。無味無臭の味と香りが少々きつくてむせる。歯ごたえだけは立派なそれを食べて、口の中が傷だらけになった。ぽーーーーーーー。みみがいたい。
 味が無いという味のそれを食べてますます腹が空腹になって空っぽで切ない僕は、NHKの時報のせいで穴がじんわりと響く。ティシュをあてるが、体液はもう乾いて染みない。
「あんたヒマでしょー? 買い物行ってきて頂戴。」
 唐突に声がやってきて空っぽの胃を荒らし、荒ぶる僕は荒ぶる心をもって階段をおりて家を出た。外はわりと夕方で、やわらかな光で案外よかった。玄関の前の側溝の蓋をひょいとまたいで、僕は明るい空のもとで風に吹かれて道をゆく。るらららん。ぽーーーーーーー。ああ。まだあの不味い正弦波が憑りついている。離れようとしない耳からしつこい。先刻の時報のオクターヴ高いほうのA音と同じ周波数の継続、NHKに呼び起こされたらしい別の正弦波に苛まれている僕は頭と穴が痛い。
 耳の奥の頭の中で倍音の無い長音が鳴り続けて、それが左腕の穴からも漏れ出て、穴に響く。響いて穴の真中のほくろがくろぐろと息づいてこの世界に黒いのを少しずつ吐き出している。黒い要素は空気に乗ってふわりと浮き、風に舞って空高く昇り、遥かな空の青いのに溶けて、しわりと消えてゆく。ああ。
 僕は身体のまんなかを貫く芯が振るえるのを聞いた。金属棒の振動は倍音を生み、多量の倍音を含んだその音色は美しく、豊かで、青い風と光と雲が互いに入り交じった澄んだ空に調和した。僕は空に調和した。穴が痛い。
 そういえば何を買ってくるのかを聞かないまま家を出てきてしまった。僕はスーパーへ行き、頭にとても悪そうなテーマ曲を聴きながら商品を眺めてまわり、記念にタワシとタケノコを買って精算した。レジでは頭の中いっぱいに、おさかなくわえたドラ猫、とサザエさんのテーマ曲が流れてどうしようもなく、追〜おっかけぇて、とスーパーのテーマ曲はすっかりかき消されてしまい、店員に申し訳なくって裸足で駆けてく「すみません」と言ったら、レジ係の店員は陽気ーなサザーエさんと同時に変な顔をした。その店員は身も心もスーパーのテーマ曲に染まってしまっているらしく、すみませんと謝ったことまでがなんだか申し訳ないような気がして、みんなが笑ってるー、レジを離れ、小銭とレシートをサイフに押し込んで速やかに店を出た。おさかなも笑ってるー。あれ、違ったっけか。家路についた。気がつくと、さっきまで僕を苛んでいた正弦波はきれいに消え去って、空は青に茜が差して雲も染まり、高く美しい夕空だった。風はますます青みを増して、青々と僕を吹いた。
 家に帰ると、部屋はますます黒かった。どうしようもなく黒い暗い部屋。黒の粉が微細で丸く柔らかく、それが濃密に息が詰まるほど充満した、ちいさな黒い部屋。机。僕。緊密に壁に囲まれて、シャープペンシルの先で穴をつつきながら、今日の味噌汁はタワシとタケノコだからねという声が階段を響いて昇ってくるのを聞いた。まあ当然だな、と思った。暮れてゆく窓。僕はあまりクロくなれなかった。外を歩いてサザエさんだったので、僕の中は部屋ほど黒くなかったのだ。部屋はどうしようもなく真黒かった。穴掘りも集中を欠いて、能率が上がらず、半ばあきらめて、窓を開けた。青い青い風が吹き込んできて、部屋の黒いのをさんざんに巻き上げた。ぎっしりと詰まってひしめいていたマックロクロスケたちは、その細かな粉ひとつぶひとつぶまで風に吹かれてめちゃくちゃにかき回され、一部は窓から空へと連れ去られ、部屋はさらに混沌とクロくなってしまった。吹き込む風をぶつりと遮断して窓を閉じ、屹然と施錠。僕はクロい部屋を後にして、階下の明るすぎる蛍光灯の真下で、仕方なく夕食を食べることにした。
 食卓に就いて、メシ食うのめんどくせーと内心で呟いた途端、つけっぱなしのTVにサザエさんがあらわれた。めぐり合わせの悪さにうんざりする。頭上の蛍光灯が煩い。サザエでございまぁ〜す。いただきます。味噌汁を啜る。遠い昭和の世田谷の空へと思考が翔ぶ。
 磯野家の夕食のおさかなを猫から奪い返そうと猛然と勝手口から飛び出し、埃っぽい夕方の路地の感触を足裏に感じて自分が裸足のまま駆け出してきてしまったのだと悟った時のサザエさんの心境は如何なるものなのか、またその足裏の感触はどのように知覚されるのか、やはり夕方の路地は午後の陽を蓄えていてあたたかいのだろうか、そんなあれこれを夢想しながら、タワシとタケノコの味噌汁を食べた。僕は噎せるように微温っこいセピア色の郷愁に浸って心地よく、タワシはよく煮えてあんがい柔らかかった。正弦波しか食べていない僕の腹には、むしろやさしいくらいだった。
 夕食を終えて階段を昇るうちに、僕はクロくクロくなった。二階に着くころにはすっかり真黒くなって、ほくろを掘りたくて掘りたくて仕方のない気分になっていた。はたして部屋は黒く、黒く、どこまでも黒く僕を迎えてくれた。
 そのいちばん居心地のいい部屋で、電気スタンドだけを点けて僕は穴掘りを再開した。いつまで経っても作業は大詰めにならず、掘っても掘ってもほくろはいつもそこにいた。黒い点は常に穴の底にいて、電気スタンドの白い光に昼間より余程鮮明で黒々しく、安心して掘らせてくれた。僕はいつしか、そこにほくろがあることに安心していた。僕は道具を0.3のシャープペンシルから刃角30度のデザインナイフに取り替えた。
 手術に備えて、刃を新しいものに交換する。キャップをとり、軸をゆるめて古い刃を抜き去り、新しい刃をスペアの塊の鋭角30度鈍角150度の平行四辺柱から剥がして、その一片の平行四辺形を軸の先にくろぐろと開いた四つに割れた口の中に挿し、奥に当たるまでぐいと押し込んで、ふたたび軸を締める。換装完了、作業開始。
 ふるえる手を押さえこんで、デザインナイフの刃先を穴の奥へと慎重に導く。腕の穴の深い奥底に刃が至り、小さな黒い点を突く。作業はきわめて微細な領域に入っていた。尖った刃先でごく僅かずつ黒の細胞を切り崩し削り出す。刃先に載った黒く湿ったつぶつぶをティシュでぬぐい、また慎重に刃先を穴の底へ潜らせる。窓の外には夜空の気配。この地上は深い夜空の底にある。
 マックロクロスケたちは眠った。僕はほくろを突き詰める。夢中になって、ほくろの中に入り込む。ほくろの底を深く深く追い求め、黒の世界に埋没し、僕はほくろと同化して、完全な、ただの黒となる、僕は一人の黒となる。僕はほくろの根底にいる。まだ続くのだろうか、限りなく、はてしない、黒の中心。僕は黒い渦の収斂の窮みを目指して、静かに深く潜り進む。部屋は徐々に黒みと重力を増してゆく。黒い夜が更けてゆく。……
 黒い。ああ黒い黒い。深い肉の底で針穴のように夜空の星のように小さな黒点となったほくろは硬く尖った真新しい刃先にきわめて鋭く指し示されて眼前にある。黒の結果はますます黒く、ありありと黒くて、窮々と一点に黒が凝集して黒く黒く息づいていた。穴の底に小さな黒い穴。穴の向こうは、無限。まっくろ。
 覗き込むと、この世の果てがみえるんだよ。……
 ……落つこちてしまひさうだ。
 穴。夢のような黒い穴からひゅうと風が吹く。温度の無い、白い虚無の風。左腕に、無限の空洞へ続く穴があいた。荒涼とした「なんにもない」へと続く穴――眼前の茫漠、虚無にひらいた、この世界にひらいてしまった――暗く、真黒い、それは深淵だった、ついに至った深淵だった。黒い部屋で真黒くなって、虚ろな深淵を覗き込んでいる、僕。開かずの間の扉が開いた。こわい部屋を垣間見てしまった。目に見えぬ白いつめたい手が黒い穴からやってきて、おいでおいでをするように背中や太腿を撫でてゆく。部屋の黒いのも僕の黒いのも、こいつが、ふぅっと白い息を吹きかけて黒く黒く染めていたのに違いない。ああ、黒黒黒。口をあいた闇。闇の底に奈落。惹き込まれてしまいそうだ。目に見えない白い手が幾つも幾つも次々と現れては体を撫でて、誘おうとする、黒いところへ連れていこうとする。虚無の手に体中を愛撫され、悪寒と恍惚の波に止めどなく洗われながら、すがるように見上げた窓。昼間は煩かった窓。その窓の向こうに広大な夜空の気配がある。世界は夜の底にある。窓の外には夜空の気配。たまらなくなって窓を開けると、目の前に宇宙が広がっていた。透明な、青く澄んだ宇宙。どこまでも青い、どこまでも深い、彼方までの空の深淵。青い深遠。その水中に星がきらめく。

  此の世の底は我が裡に在る。
  此の世の頂は何処に在る?

 夜空が迫ってくる。ぞわり、ぞわり、と波のように気配が押し寄せてきて、自分が宇宙に呑み込まれたかのような、否、完全に呑み込まれた。圧倒的な、超越的な青。清冽な、透きとおった青。その中に、僕は立っていた。立ちすくしていた。深い宇宙の水底で息をしていた。左腕の内側の肘に近いほう、ぽっかりとあいたちいさな穴の底で忘れられた穴がくろぐろと疼き、疼いて黒いのをまだ吐き続けている。僕は尻から落ちるように椅子に着いた。電気スタンドに患部を晒す。ぎらぎらと黒い。青く澄んだ夜空のもとで僕は再びナイフを手に取り、震える刃を腕の穴の奥へ、揺れる刃先を黒い虚ろな穴へと運ぶ。無心だった。黒を吹く穴、そこだけ、黒かった。
 透きとおった夜空の水の中で、月が静かに輝いていた。月の光は皓々と夜空に響き渡り、夜空は限りなく澄んで、青く、深く、宇宙を、その極遠の彼方までをはるかに見通すことができた。宇宙のひろがりはこの地上にも届き、包み込んでいて、否、地上は今、隔てなくこの広大な宇宙と繋がっていた、今は地上も空も地球上も大気圏も無かった。地上と空との境が無い、空と宇宙との境が無い、我々の生きる世界と宇宙との境が無い、ただ一つ、人の認識する世界、地上があって海と空があって宇宙があって我々は地球上で生きているのだという世界観と、この頭上に広がる遍く宇宙が即ち世界であり我々の生き存在する場所であるという事実とが決定的に食い違っていた。夜とは、昼が人に認識させて呪縛する、地球という閉じた世界のまやかしを解き、真の世界を目の当たりに見せ、人の子に識らしめる時間なのだった。今僕のいるここは宇宙そのものだった。僕は宇宙の真中にいた。小さな黒点に刃先が触れた。

  此の世の底は我が裡に在る。
  此の世の頂は何処に在る?

  日の光も届かない、
  星の光も月の光も届かない、
  遠く暗い此の世の深淵。
  すぐ近くにある、すぐに行ける、
  あまくて、こわいところ。
  ……

 窓から青い宇宙が這ってくる。青く透きとおって、黒かった部屋を水のように明るく満たしてゆく。

  ……なら、

  此の世の果ては何処に在る?
  此の世のきわまりは何処に在る?

  此の世の底は我が裡に在り、
  此の世の頂は天空に在り、
  此の世の果ては我が底に在り、
  此の世のきわまりは天頂の星。

  両極の軸。中心に心。
  胸奥の心は水鏡。
  水鏡のはるかな底に、天頂の星が熱く煌く。

  夜空に星。
  我が心に星。
  星を繋げ。
  星に繋げ。
  ……

 ――あっ。
 ほくろがとれた。
 黒い細胞のさいごの一粒がナイフの上で死んだ。
 窓から青い宇宙が吹き込んできた。電話が鳴った。はるかな天空の高みから青々とした風がそのまま部屋に届き、部屋の隅からは煩いほどに矩形波が続々と押し寄せてくる。夜空は青く輝き、部屋は澄んで透明だった。風とともに窓から這ってきた夜空に部屋はすぐに満たされて青く、青いしずかな光を湛えた、そこは宇宙になっていた、僕は宇宙に満たされていた。僕の心には喪失感がぽっかりと口を開いていた。そこへ、さらさらと、さらさらと、澄んだ宇宙が流れ込む。心の空洞に透いた青が流れ込み、やがて宇宙の水が青く満ち、そこにちいさな星が生まれた。僕の胸に、ちいさな星が瞬いた。
 電話は旧い友達からだった。久しぶり、元気……今なにしてる……そっか、うん、また連絡す……今度また皆で会……じゃ、またね、おやすみ。
 部屋はもうクロくなかった。僕はクロいのに飽きた。部屋を出て階段を下り、玄関を開けて外に出た。夜風がひんやりと喉を冷やす。側溝の蓋をひょいとまたいで、夜空の下、路のまんなかに立った。
 この路は、どこまでも続いている。この世界は、どこまでも続いている。この青い大気は、青い夜空へ続いている。青く輝く宇宙へと広がり、彼方の星に手が届く。
 ここにちいさな星がある。暗い小部屋でひっそりと息を潜めていた。それが夜空の下に出て、今まさに青い宇宙に向けて光の矢を射かけたのだ。矢は蒼穹を疾り、このちいさな星を、遥かな天空に繋ぎとめる。僕の心に生まれた星は夜空に届き、輝いた。あの夜空でさらさらと煌いて世界に光を放ち始め、その光は澄んだ夜空に静かに響き冴え渡り、青く、青く、広大な宇宙を奏でるのだ。
 オリオンが天高くまで昇っている。ベテルギウスはあかあかと燃え、リゲルは青く静かにこちらを見つめる。シリウスが眩しく力強く輝き、プレアデスの娘たちの笑いさざめく声が聞こえた。
 宇宙の底で青い夜空を浴びながら、僕は、ほくろを抉り取った穴に血が湧き出るのを感じていた。熱い。僕はその感覚を確かめながら、夜空の彼方に目を遣った。青い宇宙のどこか暗い奥底で、巨大な奈落が口をあいているのだ。カムパネルラを呑み込んだ、あの。……
 ふふ。僕は失笑して、部屋に戻った。あーあ、くだらない。僕は本を閉じるように夜の幻想に背を向けた。今になって涙が出てきた。ちくしょー、やっぱ痛ぇ。
 部屋は窓からの青い透明な光に明るかった。マックロクロスケの煤の粉がまばらに漂い、僕を迎えてくれた。僕の心の密かな星は夜空の星と響き合い、心地好い和音を奏でながら、このあたたかな部屋で、この居心地のいい小さな宇宙で、安心して伸び伸びと輝いた。夜空は青く澄んで、どこまでも青く透きとおって、僕の部屋に青く美しく響いていた。
(了)

目次に戻る  トップページに戻る  ←前の作品へ  次の作品へ→