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   大地に根差し、咲く花の
    その美しさは
     優しく、烈しく。
 それは最も輝いた姿。
   耐え忍び、
    己を昇華させるため
     力を蓄えて――
 ――そして咲かせた美しい花。
 そこではじめて自己を主張し、
    世界に言葉を投げかける。
     

   逆十字の華


     ――0――

 妙に醒めた頭に、
   昂揚の余韻が心地よく。
 熱い血潮は、麻薬。
   全身を舐めまわす。
 素晴らしく良い気分。
 殺人を遂げた充実感。
 心の湖面の氷は緩み、
 やがて訪れる、
   揺らめき……
     眩暈――
 そして優しく誘(いざな)われ……――
 ――!

     ――1――

 ――また、か……
 そこは暗く、夜の路地裏。
 聞こえてくるのは、歓楽街から漏れる雑音。
 鼻腔に感ずる、湿った空気。血のにおい。
 自分が何をしたのかを、思考がわざわざ認識し。
 湧き立つ自己への嫌悪感はすぐに恐怖に凝り固まって
僕の心を圧さえつけ――
 冷たい波紋が背中を渡る。
 と、足もとに、赤黒く濡れた物体が見――
 ――見なくても解ってる!
    わかってる……
 己への恐怖に凍えながら、それに背を向け、走り出す。
気ばかりが急いて、体は思うように動かない。覚えのな
い黒い服を夜の闇に溶け込ませ。逃げたい。逃げたい。
逃げたい。――逃げようのない事実――頭の隅で囁きや
がる。そんなことは解ってる! 僕は今、必死なんだ!
邪魔しないでくれ!
 ぬらりと濡れていた指の、乾いてゆくのを知覚する。
頬がこわばっているのを感ずる。夜風が乾いた眼にしみ
る――なぜ乾いているんだ……僕は泣きたいんだ……
 ――たすけてくれ……
    つらい……
     つらいよ……
 ――誰か……
    たすけてくれ……
           ……――

     ――2――

 気がついたら、そこは自室の鏡の前で。
 どうやら眠っていたようだ。
 鏡に映る自分の顔に、涙の跡が染みている。
 ――夢、か……
 悪夢――
 それはいつも、異様な生生しさを以て僕の心に突き刺
さる。
 ――本当に、夢なのか――
 頭の中に、あの光景が黄泉還る蘇る甦る……! 鳥肌
が頬を舐め、心の湖面に波がうねり、
 ――夢ならば……
    夢ならば――!
 しかしそれは――……
 恐ろしいのは、それが夢ではなく――
          ――実に起こっ――
             ――であること
 心の湖面は今や荒れ狂う波。両手が顔を覆い包み、指
が髪をかき乱す。
「――しっかりしろ、ブラド・キルステン! しっかり
しろ!」
 思わず、声に出していた。
 心の嵐を静めようと、必死で自分に叫び続ける。
 涙が、止まらない。

     ――3――

 鏡の前に座ったまま、自分の顔を見つめたまま、もう
どのくらいが経ったろう……。
 既に落ちついてはいるが、酷く疲れて……動きたくは
ないが、座ることにも疲れてしまった。
 ――顔を洗ってくるか……。
 思って、椅子から立ち上がり――
 ――コン、コン
 やさしくドアをノックする音。
 ――ブラドさん……いいですか
 ドアごしに届く少年の声は、少し控えめに発せられて
いた。
「エミリオか。いいよ。入りな」
 彼はそっとドアを開けて中へ入ると、振り返ってしず
かに閉めて――向き直った彼の顔には、憂いに交じって
微かな笑みが、淡い光を放っていた。
「おはようございます」
 笑みがこぼれた。その汚れのない光に洗われて、心が
澄んで染み透り、すさんだ内面が癒される。
 その快さで、沈んでいた自分に再び活力が湧いてくる。
「おはよう。――って、もう朝なのか」
 言って大きく伸びをした。
「……」
 微かな笑みは、もう既に――
 複雑な表情を浮かべて突っ立っているエミリオを促し
て。彼はベッドに、僕は椅子に。向かい合って腰掛ける。
「それで――何かあったのか」
「え、いえ……
 ちょっとブラドさんとお話しがしたくて……」
 ――思い当たるものがあった。
「――キース様の御心遣いか……」
「……」
 ――やはり……僕は……
「ありがとう。来てくれてたすかったよ。なんだか元気
が出てきたし」 エミリオに笑いかけてやる。
 ――彼は、憂いを含んだ表情で僕の顔を見上げている。
「どうした、――あ、そっか。まだ顔を洗ってないから
な」
 努めて明るく振る舞う僕の姿に、エミリオはつらい表
情を隠しきれず――彼は意を決したように口を開いた。
「――ずっと……泣いていたんですね……」
 その言の葉には、彼の内側から滲み出た、何か重いも
のが載っていた。
「ああ、ちょっとね――もう落ちついたから大丈夫だよ」
 元気な笑顔を言葉に添えて。僕のつらさを思ってくれ
るエミリオを、なんとか支えてやりたかった。
「――僕、――」 エミリオが視線を落として言う。そ
の声が、その肩が、何かを抑えて震えている。「――ブ
ラドさんと、おんなじだから……だから――」
「――エミリオ……
 そのつらさに負けちゃダメだ!
 駄目なんだ……!」
 思わず言葉を解放し。
 エミリオを支えてやるどころか、いつも自分に打ち込
む言葉を彼に向かって投げつけて――
 それがエミリオを、
  どんなに苦しませることか……
「――ごめん……」
 言えたのは、これだけ――
 あとは、僕もエミリオも、もう何も言えなかった。
 そのまま二人うつむいて。
 それぞれの想いを胸に、思考の砂漠を彷徨って――
 ――その時間は、あるいは短かったのかも知れない
 やがて僕は、溜息と共にその思考から抜け脱して。
「なあエミリオ、元気出そう」
 心を奮い立たせて呼びかけると、彼も頭を上げてこち
らを向き――
 その顔は、濃密な翳りに蔽われていた。
 あるいは、『自分』を背負わされたことへの淡く深い
恨みだろうか――
 ――心が、痛い。
 エミリオは再びうつむいた。
 ――。
 二人の空間は重く。
 僕は彼を促して、共に部屋をあとにした。

     ――4――

 空気に昼間の温みが増して。
 それでも心は闇夜の中で。
 ――僕が……
   また命を奪ったのか……。
 事実が重くのしかかり、
 でも、圧し潰されることができなくて――
 ――苦しい。
 鬱結は解けそうもなく、
 自分が奪った命の重み――その何分の一かを心に感じ
ながら――
 僕は廊下を歩いている。エミリオの部屋に向かって。
 きっと、苦しんでいるだろう。つらい思いをしている
だろう。
 ――姿を見せたら、ますますつらくさせてしまう……
 そう思ったが。彼の顔に出ていた、あの翳りが気にか
かり――それが僕を、彼のもとへと向かわせた。
 角を曲がると、向こうからウォンが歩いてくるのが目
に入り、彼もこちらに気がついて
「――おや」
 硬く冷たい白磁の声を、彼は静かに響かせる。
「あなたも、エミリオのところへ――」
「――ウォンさんも、ですか」
 内面の湖が、厭な色に染まる。
「いつになく暗い顔をしていましたので、少々、心配に
なりましてね……」
 それでエミリオに会ってきた、と――
 ――良い機会だ。
 覚悟を、決めた。
「ウォンさん……
 昨日のことを、教えて下さい」
「……――」 彼は指先で眼鏡を押し上げる。
「取り乱していたみたいで……自分が何をしていたのか、
よく覚えていないんです」
「――」 彼は、ただ僕の顔を眺めるのみ。
「あなたなら、直に言えるんじゃないですか」
 ウォンの顔に貼りついた、しずかな笑いの仮面の上に、
冷たい笑みが浮きあがる。
「そんなに知りたいのですか――」
 黙で応える。
「――あなたは、錯乱状態でノアに帰ってきました――
何があったのかは知りませんが……」 ウォンはその視
線で以て、僕の両目を一瞬捉える。
「――そして、皆に介抱されて落ちついてきたあなたは、
さめざめと涙を流しはじめまして……それからあなたは
部屋に籠もった。
 私が知っているのは、そこまでです」
「――……そうか……
 ……有難う……」
「いえいえ――」
 それだけ言って、すれ違い――
  互いの距離は開いていった。

 歩いていると、思考が深まる。
 ――昨日、僕は、また人を殺めた――
 心に重くこびりつく。
 ――生きている人の命を、僕が奪ってしまったんだ――
 心が重い。
 生きるのがつらい。
 人の命を幾つも奪っていながら、なぜ僕はこうして生
きているんだ……
 生きているから、僕が、人を殺めてしまうんだ――死
んでしまえば、これ以上罪を重ねることはない
 そして、死んでしまえば、このつらさから解放される
……だから――
 ――僕は、自殺ができない。
 このまま生きるのはつらく苦しく、死んでしまうのは
どんなに楽か。
 しかし、自ら望んだ死で自分の罪業の報いから逃げ出
すのは――その無責任さが懼ろしくて……
 死を望む――それは、奪った命の重みを捨てることを
意味する。
 考えただけで、ぞっとする。
 ――だから僕は、自殺ができない。
 でも、生きていては、また……
 どうすればいいんだ……
 なぜ、僕はいま生きているのだろう
 なぜ、僕の体は生きようとしているのだろう……
 罪の贖い――
 ――否。
 生きていて感じるつらさでも、犯した罪の重さには、
奪った命の重さには、きっとつり合わないだろうから――
 悩みの樹海に足を踏み入れ、奥地に迷い込もうとした
このとき、
 そこは、エミリオの部屋だった。

     ――5――

「――なんだか元気なさそうだったから……
 大丈夫か」
 僕と並んでベッドに腰掛け、
 エミリオは小さく頷いた。
「――ウォンさんに……何を言われた」 訊くのはまず
いかな、と思いつつ。
 エミリオはうつむいて、細い声で答えてくれた。
「……そう苦しまなくてもいいはずだ、って……」
 ふむ――。
 相槌を打つ。
「生まれ持った能力を……疎まずに……うまく利用する
ことを考えればいいんだ、って……見方を変えれば楽に
なる、って……」
「――ウォンさんらしいな……」
「……でも、こんな能力を利用するなんて……誰かを傷
つけてしまいそうで――」
 その小さな肩をかるく抱いて、感情の昂りをやわらげ
てやる。――彼の声には、微かに震えが交じっていた。
「――そうだよな……
 僕らの能力は、人を幸せにはしない――」
 理性の制止より先に、自然と思いがかたちになって――
 意識はしなかったが、言葉につらさが滲み出てしまっ
たのか
 エミリオが浅く唇を噛む。
 時の流れはゆったりと……
 やがてエミリオは、小さく口を開いた。
「――この能力があるから……僕……
 生きるのが……怖い……」
「――エミリオ……」
「生きていると、この能力で誰かを傷つけてしまう……
 そんなこと、したくないのに……
 そんなことは、もう、厭なのに……」
 彼の思いが僕の心に、さらさらと溜りなく流れ込む。
彼のつらさは僕のものと、ほとんど同質で。
 生まれ持った『自分』のために、つらい思いを強いら
れて――どうしようもない苦しみが、僕らの生には刻ま
れている。
「……そのつらさに負けちゃ駄目だ、って、さっきブラ
ドさん言ってましたけど――」
「――あ、ごめん……あのとき、つい夢中になって口走
って……あれは、僕が自分に投げかけてる言葉だから、
エミリオは気にしない方がいい。ごめんな」
 エミリオは、微かに頷いて。
「僕……そんなに強くなれないよ……
 こうして生きていてもつらいだけで……
 ――負けてしまいたい……もう生きていたくない……」
 感情の一線を越えたのか――
 その伏せた目から、涙が零れていた。
 つらい、切ない、
 澄み切った硝子の雫――
 何も言わず、ただ、肩にまわした腕に力を込めて――
今できる事は、こうして、そばにいてやることだけ……。
 僕らが持った能力は、失敗した種――異常なまでに繁
栄しすぎた人間が、自決の道を選択し、そのために身に
つけたもの――
 そんな考えが僕の中に生じてから、もう久しい。
 ――だが、個々の人間は生きようとしている。その生
きるべくある命を無理やり潰してしまうのは、生存本能
――情が許さない。
 そして、僕の能力もエミリオの『光』も、人を殺める
には十分で。
 僕らは矛盾の渦に在る。
 だから、苦しい。
 エミリオの涙が心の湖面に起こす波紋を感じながら――
 ――光が創り出すのは、闇。
 ふと、そんなことを考えた。
 ――しかし……
 翳を蔽う白磁の仮面――あの冷淡な顔が脳裡に浮かぶ。
 ――ウォンはおそらく、自分が誰かを傷つけても、誰
かの命を潰しても、平気でいられることだろう。
 過去になにがあったのか……。情を封じた人間――あ
まりにも哀しい姿……
 そこに、矛盾による苦しみはない。
 ――黙示録……終末に現れる滅びの騎士……
 そんな連想が頭を過る。
 それでも――。もしも、あの仮説が正しいとしても。
自分が人間として、人間の中で生きている以上、同じく
生きている人の命を潰すのは、やはり重い罪。
 そして僕は――
 片方の僕が逆さ十字を背負って、罪を重ねて生きてい
る。
 だから僕は、贖罪の十字架を背負わねばならない。
 ――そう、考えたい。が――
  なぜ、僕は生きているんだ……
 生きていても贖いはできない。生きていては罪を重ね
る。
 そして……僕が僕である限り、僕にはどうすることも
できない……
 言葉を紡いで思考を織っているうちに、やがてエミリ
オは落ちついてきた。
 僕はふと立ち上がり、二三歩ゆっくり歩を進め、
「――つらさを溜めこまないように、
 たまには思いきり泣きな」
 鏡の前で立ち停まる。
「……僕みたいに、さ」
「――……」
「――昨日も、鏡に向かって一晩じゅう泣いてたし。だ
からこうしていられる」
「……」
「――あ、へんな癖だよな。泣いてる自分を見ながら泣
く、っての」
 言いながら、鏡に映る自分の顔を、なんとはなしに見
――
 やや翳りの差した顔――
 そして二つの赤い瞳――
   ――赤いひとみ……
 ――!
 そこに視えたのは、奥底に澱む、ナマの自分――それ
が、僕を、睨んでいた。
 内面の湖が氷結する。
 鏡の前に束縛される。
 そこにいるのは、『自分自身』――視えずにいた、見
えないところに潜んでいた、真の自分の姿。『僕』の、
本質。
 ――答が、視えた。
    なぜ、僕は、生きているのか――
 僕は、僕なのだ。
 贖罪の十字架――僕の逃避願望の象徴――などではな
く、逆さ十字を背負って生きている――それが他ならぬ
僕自身なのだ。
 表の自分、裏の自分――そんなものは『面(おもて)』
にすぎない。どんな自分も、それは僕。
 鏡に映る、恐ろしい顔をした男も……。
 それはまさに、鬼への昇華を遂げた姿。
 意識が真っ赤に染まり――
 鏡の中の少年の顔が――鏡に映る僕の顔を見た少年が、
恐怖に襲われ凍りつく。
 ――衝動。
 身体を駆ける血が熱い。
 ――我慢できない……!
 鏡を叩き割っていた。
 自分の姿は砕け散り、
  いるのは怯えた少年ひとり……

     ――6――

 その躰はいつしか動かなくなっていた。
 鏡の破片が刺さっている。筆記用具が埋もれている。
椅子に撃たれてひしゃげている。
 僕は血の美酒に酔い、彼をこの手に掛けることに昂り、
そして涙を流し続けて。
 あたりには、力の余波が吹き荒れている。その中に独
り僕は立ち、熱い血潮は未だ飽き足らず、そして涙は止
めどなく――
 ――気配。
 !――
 衝撃が体を貫く。
 剣のかたちをしたものが腹から突き出してい……――
 体の中がひきつれるような、
 苦しい……
 熱い……
 ――あなたは、もう、
    駄目なのですよ……
 硬い声が響き――
 空間が揺らめく……
 ――剣……!
 まわりをとりまいて……――
「ウォン!」
 ――キース……様……
 ――!
 また、衝撃が……!
 何度も、何度も……――
 ――剣が体にもぐり込む――
 そのたびに熱いものが体の中に撒き散らされ――
 ――目の前は、赤。
 生きて存ろうとする命を他者が強制的に潰すことの罪
の重さを、瞬間、真に悟り――
 ――戒めの 洗礼――
 これで、僕の罪は贖えるのだろうか……逆さ十字のも
とに生き――生命を、奪って、奪って……エミリオをも
この手に掛けた僕は……命を奪われ――それで――
 全身を無数の剣に貫かれながら。その苦痛を噛み締め
ながら。頭のどこか彼方でつぶやく。
 ――僕は
     生きて
        いたんだな……――
 もぐり込んだ力が膨れ上がる
 体がはじけ――!

   咲華 儚く、
                  (了)
     

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