名付けるということ
安岡はソファーにゆったり腰掛けると暖かなハーブティを飲み一息ついた。
ここは九条館。あまり再開発の手が入っていないH市でも人里離れた場所に立つ古めかしい洋館だ。
「はぁ……ここは静かで良い所だけど、年寄りが来るには少しばかりしんどい所だねぇ」
カップを手に取り味と香りをたっぷり確かめてから、安岡はぽつりとそう零す。今日の安岡は既知である真下の車に乗って九条館までやってきたのだが、運転せずとも九条館まではかなりの長旅になり都心に住む彼女からすると車に長く座るのは疲れる事なのだろう。ましてや、運転手が真下なのだから尚更だ。おおかた運転中しながら「こんな町外れまで運転したくない」だの「婆さんの頼みだから特別だ」だのと、あれこれと文句を言われたのだろう。
真下にとって安岡は重要なクライアントの一人だが、同時に彼女の持ってくる依頼の大半が怪異の噂がつきまとう胡乱なものなので手を焼く事が多いとは聞いている。真下の性格なら、当人を前にさぞたまりにたまった愚痴を吐いたに違いない。
九条館にある災禍について占い師の他に霊能力者としての顔を隠し持つ安岡の意見を聞いてみたいと以前から思っていたが、銀座の一等地で占いをし財界にも顔が広い安岡はなかなかH市まで来る機会がなかった。今回はたまたま真下が九条館の蔵書で調べたい事があったという理由と安岡の開いた時間が一致したのでわざわざ来てくれたのだ。あいにく長くはいられないようだが、それでも話せるだけで僥倖だろう。何せ安岡は本来コネクションがないと予約さえとれない占い師なのだから。
「悪いな、忙しい貴方に遠出させてしまって……」
申し訳なさそうに頭を下げる八敷を前に、安岡は優しく微笑んで見せた。
「おや、ねぎらってくれるのかい。関心だねぇ、あの真下とかいう男は散々と文句を言うばかりで年寄りに気遣い一つ無かったっていうのに。やはり九条家の嫡男は育ちが違うってもんだよ」
九条家の嫡男と安岡は言った。それは「九条正宗」である八敷一男の事を言っているのだろう。
安岡は先々代……つまり八敷の父にあたる九条村雨との仲違いをしてから縁を切り、それから今に至るまでのら20年の間九条家に立ち入りもしていなかったというが、今になってはかつての九条家を知る数少ない人物の一人である。
彼女が言うには、九条家は非常に腕の良い仏師の家系であると同時に一般的にオカルトや神秘主義と呼ばれる分野に造詣が深かく、とりわけ西洋魔術や呪詛、呪術などといった分野に興味を抱くものが多かったという。
それを裏付けるかのように、九条家で閉ざされている蔵の中にはそのようないわくつきの書物や訳ありの品がひしめき合うよう詰め込まれていた。かつてはオカルトや呪物の蒐集家として随分と名を馳せていたのだと言う。
仏師という職人の家系もあってか口数は少なく、また秘密主義なのかあまり自分たちの事を喋る方でもなかったため、九条家が曰く付きの品を多く蒐集しているのは有名であったが一体何をどれだけ蒐集しているのかを知る者はほとんどいないらしく、また深い付き合いのある蒐集家もいないようだった。
大概の蒐集家(コレクター)というのは自分の集めた蒐集品を周囲に見せびらかすものだが、九条家の人間は蒐集品をひけらかすような事は一切しなかった。むしろ秘匿するように封じ込め、決して他人の前に現す事のないよう気を遣っていたようにさえ思える。
『九条家の蒐集品は自分たちの研究対象であって、私たちに見せびらかし権力や財力を誇示する道具じゃなかったんだろうねぇ』
とは、安岡の言葉だ。
おかげで九条家の蔵には何のために使うものだかわからない品がいくつも存在していた。
存外にそのようなものから、これからどうすべきかという新しい道筋が見えるかもしれないと思って蔵の中にある品の目録を作ってみようと思った事もあるのだが、どうやって手に入れたのかわからないような品や何に使うのか用途不明の品があまりに多かったので諦めたのもつい最近の話だ。
そんな秘密主義の九条家は多くの人間が公の場では決して出しゃばる事もなくいつも物静かに話を聞いている事が多い、非常に振る舞いのよい人物が多かったそうだ。常に他者の話を傾聴し、否定する事もなく、時には静かに諭す……意見は最小限に留め、常に聞く側に回るような者が九条家全体にある傾向だったらしい。
最も、例外もいたようだが、その素行の良さから八敷はいっそう、九条家のもつ因縁や蒐集した呪物などの取り扱いに苦慮していた。
「おまえさんは九条家の中でもとびっきり穏やかでおとなしい子だよ。この家にある優しさと清らかさを集めたようだね」
安岡は笑いながらそう言うが、八敷は未だに『九条正宗』である自分を完全には取り戻していなかった。
かつての自分がした事はゆっくりと脳の中に溶けまさしく自分がしたことであり目の前でおこった事なのだと理解はしているが、過去の自分が下した判断はどうにも受け入れがたい行為がいくつかあった。
同時に当時の九条正宗ほど今の自分は能動的に動く事ができないような感情の隔たりもある。
それが自分自身の犯した罪。
メリイという化け物を世に放ってしまった罪の意識を受け入れる事ができなかったからか、犠牲が出るのがわかっていて封印を解いた自分の無責任さに対する憤りからかはわからなかったが、とにかく八敷はまだ九条正宗である自分を取り戻してはいないのだ。あるいは九条正宗になりきれないでいる、という方が正しいのかもしれないが。
「相変わらず、おまえさんは八敷一男を名乗っているようだね」
館に来た時、真下からは「八敷」と呼ばれたのを聞いていたのだろう。
実際、八敷のことをそう呼ぶのは真下だけじゃない。渡邊萌も有村クリスティも、ここに来る人間は皆一様に彼のことを八敷一男と呼んでいた。本当の名が九条正宗と知る大門でさえも日常では八敷一男と呼んでくれている。別に八敷が頼んでいる訳ではないのだが、初めて会った時に名乗った名前に馴染んでしまっているのだろう。
「あぁ、自分が九条正宗だったという記憶は戻っている。その頃の俺と今の俺にそこまで大きな価値観の相違や、酷く性格が変わったといった思いはないんだが、どうしても俺が九条正宗だという実感が得られなくてな」
九条正宗も、今の八敷一男と同様に物静かな男だった。何に対しても無気力で感情の起伏に乏しいのも、口下手で人付き合いがあまり得意ではないのもあまり変わりは無いだろう。
だが九条正宗の行動を振り返る時、彼の中には確かに情熱と呼ぶべき感情が静かに燃えていたような気がしていた。
九条家でメリイを見つけて以後、彼女(と呼ぶのが正しいかはわからないが)について調べ、彼女が災厄を呼ぶ事を知り、再び封印しようと尽力していた頃の九条正宗は祖先の残した負の遺産を処分する。その名目で動いていた時の彼はかなり行動的であり、また激しい意欲を燃やしていたとも言えただろう。
それはメリイという西洋人形の精巧な作りに見せられた仏師の末裔としての血が騒いだ事もあれば、長らくただ九条家の跡取りとしての教育を受け九条家の跡取りになる以外の道が存在しなかった彼がはじめて自ずから成し遂げたいと思えるものに出会えた喜びもあったのかもしれない。
だがそれらの全ての感情が、今の自分……八敷一男の中には存在していなかった。
九条正宗としての行動を思い出しても、すべて人づてに聞いたような空虚さばかりが残り、実感はひとかけらもないのだ。当然、今の八敷には九条正宗のように自分から事を起こすような気力もない。
「俺は、九条正宗の行動を完全に理解できないしその価値観もまた受け入れていない所がある……他人の命がかかるような真似をしてそれを必要悪だと言い切るなんて、とても思えそうにないんだ」
ましてや九条正宗のとった行動は明らかに犠牲が出るのを見越してのものだった。その声は紛れもなく自分のものだったが、それでも。あるいは自分の声だったからこそ、その考えを受け入れる事ができなかったと言えるだろう。
他人の命を切り捨ててそれを必要悪と納得させるのが自分の本性だなんて思いたくないだけなのかもしれないが。
「ふぅん……それで、おまえさんは九条正宗だった頃の記憶を完全に取り戻したのかい?」
「いや……」
何をもって完全に記憶を取り戻したと言えるのかは曖昧な気がするが、以前の自分がもっていた知識や記憶を今の自分が完全に受け継いでいるのかと言われれば、答えはNOだ。
自分の独白もまだ自分の声をした別人の話に聞こえるし、父である九条村正の事も妹である九条サヤの事も完全に思い出したわけではない。幼少期の自分がどんな子供だったのか。学生時代は何をしていたのか。そして九条家の当主になってからの自分は何を生業にしていたのか。親子関係は円滑だったのか、サヤとの兄妹関係は。そういった事もまだすっぽりと抜け落ちたままだった。
まるで最初からそんな記憶は存在してなかったかのように。
「何とはなしに過去の自分と今の自分の感覚が重なる事もあるんだが……九条正宗の残した記録やアルバムなどを見ていても、どうにも記憶が戻るといった感じはないんだ。自分の顔だという認識はあるのだが、他人事のようにしか見えないままだ。記憶もな。自分が子供の頃どんな事をしていたのか。父や妹がどんな人間だったのか。そういう事さえ思い出せない……記憶に霞がかっているというより、記憶そのものが抜け落ちているといった印象だな」
八敷は素直に今の状態を伝えると、安岡はあごに手をおいて考えるような仕草を見せた。
「八敷一男。この名前を名乗るに至った理由は、確かあのメリイとかいう西洋人形に名を尋ねられたからだね」
「そうだ。呼び名がないと困るだろうと言われて思いついたのがこの名だった……」
「八敷一男。足して九になる数字だ。八敷もまた屋敷の敷だから、無意識ながら自分が九条の人間だという根源があって出た名前かもしれないねぇ。だが、ひょっとしたらそれがおまえさんが九条正宗に戻れない理由かもしれないよ」
安岡はそう告げると、八敷の顔目をじっと見据える。心の奥底、その先にある糸を手繰るような視線はどこか神秘的にさえ思える。きっとこれが安岡の占い師としての顔なのだろう。
「名前というのはその人間が誰かを示すものだけど、それだけじゃぁないんだ。昔から、真名を知られたものは真名を知ったものに操られるなんて伝承があるだろう?」
その話は九条家の蔵書で読んだ記憶がある。大概の人間は表向きに名乗り呼ばれる普通の名の他にさらに難解で読みづらい真名をもっており、それを他者に知られると運命を操られるといった伝承だ。
実際に一昔前までは子供が大病を患ったり酷く病弱だったりすると以前の名前は悪いのだと別名で呼ぶ事もよくある話だったと聞くし、海外でも子供に名付けを行う間は運命を悪魔に握られているなんて話もある。
「おまえさんは、メリイによって新しい名を与えられた……それ故に、以前の自分と性格や気質に多少の違いが表れて、完全に今の自分と過去の自分が重ならなくなっているのかもしれないねぇ」
「俺に本来とは違う名をつけられた事で以前の俺がもっていた知識や記憶に欠落が見られるという事か」
「推測にすぎないけどね。あの人形はそれだけの呪詛を秘めていた。一つの名前でおまえさんを縛り付け、九条正宗のもっていた自分にとって都合の悪い知識を意図的に思い出させないよう呪詛を仕組んでいたなんてのは、あり得ない話でもないんじゃないかい」
安岡はそう語るとハーブティに口をつける。
大門の話では、一過性の記憶喪失である場合むやみに別の名前をつけたりはしないらしい。別の名前をつけた時点で新しい人間の自我が生まれてしまうからだそうだ。
それを考えると、メリイが名前を聞いてきたのも最初から策略の一つだったのかもしれない。八敷がメリイを信じ従ったのも、自分が何者だかわからず何をすれば生き残れるのか無我夢中だったというのもあるが喋る人形という胡乱な存在を認めてしまったのも彼女に名を握られていたからと思えば腑に落ちる所もある。普通の状況であればいかに命の危機が近かろうと喋る人形を前にして素直にそれを受け入れる事などできないだろう。あるいはシルシの現れる怪異ほほとんどがメリイより血肉を与えられた存在であるが故に冷静な判断力などを迷わせていたのかもしれないが。
「俺が八敷一男である事をやめ、九条正宗を名乗り受け入れればもっと思い出せる記憶もあるかもしれない……とでも言うつもりか?」
「その可能性はゼロではないと思うよ。名のもつ力はそれだけ強いからねぇ……おまえさんは今でも八敷一男を名乗り、周囲にもそう呼ばれているんだろう?」
シルシが現れ九条館に来た印人(しるしびと)たちは、八敷の正体が九条正宗だという事を知らないものも多く、大半は今でも俺を八敷一男と呼んでいた。それは八敷自身がこの名前の方がしっくり来ているというのもそうだし、初めて彼らに名乗った名前をいまさら訂正するのも面倒だという気持ちが大きいからだと持っていたが、九条正宗という名を受け入れられないある種の嫌悪感に似た感情を抱いているのもあるのだろうか。
「だが、やはり俺はまだ……」
すぐに九条正宗という名を名乗れそうにはない。
その気持ちが顔に出ていたのだろう。安岡は静かに首を振り目を閉じた。
「急がなくてもいいさ。完全に記憶が戻ってない今の状態からすると、おまえさんにとっての世界は八敷一男になってから始まってるんだ。無理に名を戻して気持ちが不安定になればそこがつけいる隙になりかねないからね」
メリイはこの九条館に封印されている。清めた念持仏が以前のほど強い力をもっているとは思えないがあれだけ彼女があの念持仏を恐れていた所を見ると簡単に破れるような封印でもないはずだ。だが相手は人外であり理屈の通じない怪異であるこのH市に人ならざるものを顕在化させるだけの力をもっていたのだから、小さな綻びから影を伸ばし恐ろしい災厄を振りまく事を安岡は懸念しているのだろう。
その時真っ先に犠牲になるのは八敷自身だろうから。
「今はまだ自分が九条正宗であることを受け入れる事はできないが……いずれ、そう名乗れるよう検討はしておくさ」
「そうかい。それなら……」
何かいいかける安岡の言葉を遮るよう、真下がホールへ現れた。手には分厚いファイルが抱えられている。
「そろそろ帰るぞばあさん。欲しかった情報も手に入ったしな」
最近、真下は九条館の蔵書やかつて九条正宗が調べていた事件などについて確かめに来る。安岡からの依頼は怪異関連のものが多いというのもあるだろうが、九条正宗やその妹・サヤが過去の事件についていろいろと調べていた資料が役に立つのも理由の一つだろう。
「何だい、もう終わったのかい。もう少しゆっくりしていたかったんだけどねぇ」
「あまり長居する理由はない。俺はこれで忙しいんだからな」
俺はこれでいそがしい、というのは真下の口癖になりつつあった。実際にどれだけ忙しいのかはわからないが、あれで几帳面な所のある真下だから報告書に懲りすぎて余計な時間をかけていそうではある。
なんて事はおくびにも出さず、俺は真下の方を見る。真下はあごをしゃくりながら、安岡に早く立つよう促していた。
刑事を辞め探偵業を営み始めたばかりの個人事務所としては、真下の探偵事務所を訪れる客はずいぶんと多いようだ。今でも時々一緒に仕事をやらないかと誘われる事もある。これは、真下が忙しくて手が回っていないのも事実だが八敷を一人にしたまま九条館に閉じ込めておくことに不安のある安岡の思惑も多分に含まれているようだ。
九条家の血か、それともあまりに強い怪異の傍にいたからか、八敷は人より霊感が強い。それも単純に霊の気配を感じるというだけではなく、その意思や心。霊がこの世にとどまる無念や苦しみを理解する力が頭抜けて高いのだという。だからこそ、真下の所に転がり込んだ怪異がらみの事件やこの街だけではない怪異がらみの事件に関わる事を安岡に望まれているのだろう。
だが八敷はこれまでに身をもって知っていた。
怪異を切り抜ける事ができたのは自分だけの力ではないということ、助けなければいけないという印人が傍にいたという事、協力してくれる仲間がいたから紙一重で成功してきたのだ。きっと一人では乗り越える事など出来ず、露として消えていただろう。
「そう急がなくてもいいだろう。真下は来てすぐ調べ物を始めてゆっくりはしてないんじゃないか。コーヒーでも煎れるから一服してからでもいいだろう。安岡さんは、ハーブティをもう一杯もってこよう」
「あら、いいじゃないか。真下の坊やもそうしたらいい。おまえさんもあまりゆっくりはしていないんだろう」
普段の真下なら文句の一つでもいうのだろうが、その日は珍しいくらい素直にソファーへ腰を下ろす。
「そうだな……八敷、コーヒーを一つもらえるか?」
「わかった。有村から聞いた店で買ったスコーンもあるからそれも出そう」
「俺は別にスコーンなんて……」
「いいじゃないか真下の坊や。さっき私も頂いたけれども、なかなか良い味だったよ。少し腹に何かいれておいてもいいと思うけどね」
時刻は14時半を過ぎた頃だ。間食するにはちょうどいい時間だろう。
「気に入ったのなら安岡さんももう一つ食べるか」
「美味しいものは嬉しいけれどもね。流石に私もいい歳のばあさんだから、そんなにたくさんは食べないよ。もう一杯ハーブティをもらえるのは嬉しいけどね」
「わかった」
八敷は手慣れた様子でくコーヒーとスコーン、そして新しいハーブティを準備してテーブルに並べる。
「悪いな」「ありがとうねぇ」
真下と安岡は軽く頭を下げるとしばしのティータイムを楽しんだ。
その最中、安岡は小さく声をもらす。
「あるいは、そうだね……九条正宗は、一人で全部抱えてもっていこうとした。家族も友人も巻き込みたくなかった、その思いで誰とも接せず、何もいわずただ一人で……だが、今の八敷一男は違う。私や、真下の坊や。柏木さんをはじめとした沢山の仲間がそばにいる……その縁が、もう過去の孤独な九条正宗に戻してくれないのかもしれないね」
九条正宗はあまり人付き合いがなく、スケジュール帳にしても何にしても友達らしい名前はほとんど無かった。おまけに世間的には一度死んでる身の上だ。九条正宗を訪ねてくる人間はもうこの館にはいないのだろう。
だが八敷一男は違う。
安岡や真下はもちろん、危なっかしい女子高生オカルトライターの渡邊萌、アイドルの柏木愛、医師の大門や研究者の広尾と様々な人と出会い危機を乗り越えた今はただの友人を超えた絆を感じている。中には栄太のように頼りない男や長嶋翔のように危なっかしい所がある少年。まだまだ庇護が必要なすずやつかさのような友人と呼ぶには年の離れすぎた仲間もいるが、以前の自分と比べたらずっと賑やかな世界で生きているだろう。
だからもし、この絆が仇となり元の記憶が戻らないのだとしてもそれで良いとさえ思えていた。
「だとしたら、俺はずっと八敷一男かもな」
そう漏らす八敷の顔は、自然と笑顔になる。
「私も、それでいいと思うよ。今のおまえさん全てが失われるなら、仲間との絆をよすがにして生きるおまえさんのほうが生き生きしてみえるってものさ」
「そうだな、もし今より生気のない顔になられるくらいなら今のままの貴様のほうがマシだ」
すかさず口を挟む真下の言葉に、八敷は苦笑いしながらコーヒーを飲む。
九条正宗。八敷一男。
どちらも同じ一人の男ではあったが、もうこの二人の人生が重なり合う事はないのかもしれない。
それでも良いと思うのは、安岡の言う通り、今の八敷には仲間と呼べる存在がいるからだろう。大きな恐怖と死地を乗り越え強い絆で結ばれた、良き友たちの存在は離れていても俺に力を与えてくれている。
そしてそれが今の八敷一男にとって生を実感できる一つの理由になっていた。