最初で最後のバレンタイン


  2月も半ばにさしかかる頃には、三年生で学校に来る生徒は殆どいなかった。
 受験シーズンも終盤にさしかかったこの時期にわざわざ教室までやてくる生徒は本命の試験が芳しくない結果に終わりまだ願書を受け付けている大学に滑り止め入試を行うか、それとも浪人して来年にもう少し上のクラスの大学を狙っていくか、どのような戦略へ打って出るかといった相談をするためやってくる生徒が殆どであり、本格的な受験シーズンにさしかかるより先にスポーツ推薦が決まり春から鳴神学園付属大学へ入学する事が決まっていた新堂誠がわざわざ教室まで出向く理由など一欠片もなかった。だが、普段から不要・不急の登校はしない主義である荒井が今日はわざわざ学校へ来ると聞いていたのだから、顔を見に来るくらいはしてもいいだろう。
 今年の夏頃、日野が持ちかけた集会で顔を合わせてから自然と引き合い寄り添うようになり、気付いた時に荒井は恋人と言う言葉も陳腐に感じるほど大事な存在となっていた。
 そんな荒井と鳴神学園で過ごせる時間は、もうあまり無いのだ。この学校は3月1日になればすぐに卒業式となるから、同じ学校に通い登下校するチャンスなんて本当に数える程しかないだろう。それがひどく惜しいような気がして、荒井が学校に行くと聞いたら自分も何とはなしに鳴神学園まで足を運ぶようになっていた。
 まったく、自分にそのような感傷的な部分があるなど思いたくはないのだが一緒にすごす時間が心地よいのは事実なのだから仕方がないだろう。
 この時期となれば三年生当然授業などはなく、基本的には進路指導相談で来ている生徒が多く新堂のようにすでに大学合格が決まっていて授業がない癖に来ている生徒はいなかった。手持ち無沙汰でもあった新堂はガラじゃないと思いながらも教室で後が無いと苛立つ生徒と顔を合わせるのも面倒なので世話になった教師に挨拶回りをしたり、誰もいないボクシング部で軽く汗を流したりと適当に時間を潰し終業時刻になったら荒井を迎えに行こうと思っていたのだが、うっかり図書室で居眠りをしてしまい少しばかり寝過ごしたため慌てて2年の教室棟へと走り出していた。
 荒井のクラスに着いた時、すでに教室には荒井一人しか残っていなかっただろう。
 今は期末テストも近く部活動も原則中止になっている。生徒が帰るのも普段より早かったに違いない。荒井が一人でも教室に残っていたのは新堂が来ているのを知って待っていたからだろう。
「よぅ、荒井。遅くなってゴメンな……いや、本当に学校来てたんだな、意外だったぜ」
 新堂が声をかければ荒井は待ちくたびれたといった様子で顔をあげた。
「新堂さんこそ本当に学校まで来たんですね。三年生はもう登校する必用など無いと聞いていましたけど」
「そうだけどよ、お前が学校に来るってなら顔見に来たっていいだろ。この学校で会えるのもあと二週間くらいしか無いんだからな」
 以前の新堂だったらこんな事を自ら口にしたりはしなかったろう。わざわざこんな話をして感慨に浸るような相手もいなかったはずだ。だがいよいよ卒業が迫り同じ学校の生徒でいられる時間が少なくなると思うと今さら本心を隠して気取っても仕方ないと考えるようになり、一緒に居られる時間が乏しくなってきた寂しさと悲しさを恥ずかしげもなく口にするようになっていた。荒井は新堂の言葉を聞くと「それもそうですね」と小声でつぶやき微かに笑う。荒井もまた新堂がいなくなった一年のことを考えているのかもしれない。
「ところで今日は何か用でもあったのか? 寒い時期に学校来るのは面倒だし出席日数も足りてるって言ってたから二月はテストくらいでしか来ないのかと思ってたぜ」
 教室へと入りながら不思議そうに聞けば荒井は一つ長いため息をついた。
「僕も面倒だったんですが机の中に食品を勝手に投棄されるのも嫌ですし、学校に来ないと家にまで押しかけて来る人もいますからね。そうならないよう、一応今日は登校しておこうと思ったんです」
 最初は荒井が何を言っているのか意味がわからない新堂だったが、机の上に置かれた無地の紙袋に沢山のチョコレートらしい箱が詰め込まれているのを見て今日がバレンタインデーだという事にようやく気が付いた。
「おいっ……おまえ、こんなにチョコレートもらえるのか? 凄ェじゃねぇか、紙袋いっぱいとか、富豪だろ!? チョコレート富豪」
 新堂の友人である西澤仁志は学校内でファンクラブが出来るほどの好青年であり、彼が机や下駄箱に入りきらないほどのチョコを受け取っているのも目の当たりにしているので漫画みたいにモテる男が実在しているのは知っていた。
 だが西澤は外見だけではなく成績も性格も家庭環境も良いという非の打ち所が無い本物の好青年でありモテる要素しかないような男なのだ。新堂から見て悪い所と言えば女性運のなさくらいのもので、彼がモテるというのは当然だろうと納得すらできるのだが、荒井は顔こそ人形のような美少年ではあるがお世辞にも目立った性格とは言えない。どちらかといえば他人より一歩後ろを歩き目立たないよう息をひそめているようなタイプだ。そもそも滅多に学校にも来ないし率先して人前に立つタイプでもない。普段から意図して目立たないよう生活をしているものだから思いを募らせチョコレートを渡しに来る生徒が多数いるというのは少々意外だというのが本音であった。
「言わなくてもわかってますよ、僕がこれだけチョコレートをもらえている事に驚いているのでしょう。僕自身がそう思っているんですから……ですが不思議と昔から僕には少しばかり熱心で過激な相手に思いを寄せられる事が多いんですよね」
 荒井はそう言いながらチョコレートに付けられていたメッセージカードを新堂へ向ける。
『剥製にして飾りたい』
『ずっと私の部屋から出られないようにしてあげたい』
『腕と足とをもぎ取って床を這いずり回ってくれないか』
 おおよそ愛の告白とは思えない物騒な言葉ばかりが並んでいるのを見て、新堂は何となく荒井を好む人間の趣味を把握した。 概ねの人間が、荒井という人間よりもその容姿を好んでいるのだろう。
「そういう訳ですから、自宅まで押しかけられるより学校で受け取った方が面倒にならないんですよ。もし自宅まで押しかけられたらそのまま僕の家で監禁されそうですからね……それもなかなか面白そうではありますけれども」
「わかったわかった。で、どうすんだそのチョコ。別に甘い物好きって訳じゃないよなお前は」
「家に帰ったら捨てますよ。食べ物を捨てるというのは罪悪感がありますけど、命には代えられませんから」
 にべもしゃしゃりもない言葉にさすがの新堂も困惑する。食べ物を捨てるといった発想は不良でもスジの通ってない事を嫌う新堂にはないものだったからだ。
「そんな目で見ないでくださいよ、僕だって食べられるものなら食べてあげたいと思ってるんです。ですが、見ての通り過激な愛情をお持ちの方が多いでしょう。チョコレートといいつつ実際は何が入っているかわからないですからね。僕も見ず知らずの他人から受け取った食べ物を口にして死にたくはないんですよ」
 普通であれば「まさか毒が入っている訳でもあるまいし大げさだろう」と笑い飛ばせるだろうがここは鳴神学園だ。 怪異により何がおこるかわからない場所ではあるが、生徒も何をしでかすか分からない連中ばかりだ。どこで買ったかわからないような惚れ薬は勿論のこと、怪しい精力剤や、爪・髪の毛・血などといった人体の一部が愛情といっしょにこめられていても何ら不思議ではない。愛の形がひどく歪な相手だとわかっているのなら尚更である。
 それに、たとえ本気で心をこめて作ったものでも全く味見をしないまま人が死ぬ程の兵器を生み出す生徒がこの学校に存在するのも新堂は知っていた。「ちゃんと作った料理ですよー」なんて笑顔で差し出し、食べた日野がすぐ救急車で運ばれていった倉田恵美の料理のことも記憶に新しい。
「そうだよなァ……学校のゴミ箱に捨てたら今度は手渡しで『ちゃんと食べてよね』なんて迫られたらおまえも可愛そうだし……知らない相手からばっかりなのか?」
 新堂は紙袋の中をのぞき込む。 衛生的にも呪術的にも危険がある品だとわかっていても綺麗にラッピングされたトリュフチョコレートやガトーショコラは捨てるのに惜しいほどきちんと作られていたし、中には有名な高級ブランドのチョコレートも見えた。一見すれば有名ブランドの包み紙に入ったチョコレートなら安全そうに思えるが、ここは鳴神だ。注射器でご丁寧に何かしらを注入している可能性は捨てきれない。
「えぇ、何故か僕に面と向かってチョコレートを渡す人はいないんですよね。この中で僕に直接渡してくれたのは姫乃くんくらいですから。知っている相手でしたら何を入れてくるか想像が出来るので口にしていたかもしれませんね」
「そういうもんかァ? じゃあ姫乃からのは食べるんだな」
「いえ、食べませんよ。姫乃くんの手作りは非常に美味しいんですけれど、最近は彼が入ってる比率が多すぎますからね」
 彼が入っている比率、というのは何だろうと思ったが新堂は聞くのをやめた。何となく察してしまったからだ。
 頭を掻く新堂を前に、荒井はまた微かに笑うと愛おしそうに新堂を見つめる。そして意を決したように鞄を開いた。
「……本当は帰り道に渡そうと思っていたんですけど。確かに、貴方に学校でこれを渡すチャンスは今年しかないんですよね。新堂さん、よかったら受け取ってくれませんか」
 差し出されたのはいかにも高級そうなラッピングが施されたチョコレートの包みだった。ブランドの品にうとい新堂でもそれが高いものだというのは見てわかる。
「えっ、それ……チョコレートか!?」
「そんな大きい声で言わないでくださいよ、恥ずかしいじゃないですか……誰に聞かれてるかわからないんですよ。殺されたいんですか? ……僕以外の誰かに殺されるのなんて許しませんよ」
「わ、悪い……でもよぉ、俺は今日がバレンタインだってのも忘れてたんだぜ? まさかお前が準備してるなんて思ってなくて……それ、お前が買ったのか」
「当然です。最も、流石の僕も催事場に出向いて買うのは恥ずかしかったので通販で取り寄せた品ですが……僕からのチョコレートです、何が入っているかわからない代物ですが……受け取ってくれますか?」
 荒井は差し出した箱で自分の口元を隠すと上目遣いになって新堂を見る。
 最近の荒井は自分の容姿がかわいいと言われる所作も似合うという事に気付き意図してあざといポーズをする事があるのだ。それを見て安直にかわいらしいと思ってしまう新堂も大概だろう。それでもやはり、恥ずかしそうに俯く荒井は可愛かった。
「そんな事言われて受け取らない訳にはいかねぇだろ……でもよォ、俺は何も準備してねぇんだがいいのか? チョコレートなんてもってきてねぇし、貰ってもいねぇぞ」
「気にしなくていいですよ、僕が貴方にあげたいと思って買った物ですから。あぁ、身体で払ってくれてもいいですよ」
 チョコレートを受け取る新堂を見て、荒井は悪戯っぽく笑って見せる。身体で払うなんて冗談のつもりだろうが、その笑顔を見た新堂は内側からくる衝動をどうにもおさえられなくなりはじめていた。
 だから受け取ったばかりの包みを開けると中にあるチョコレートを一つとりだし自分の口へとくわえる。
「いいぜ。じゃ、毒味もかねて……ほら、お前も喰えよ。嫌だとは言わせねぇからな」
 差し出されたチョコを荒井は少し驚いたように目を見開いて見つめる。だがすぐに嬉しそうに笑うと新堂の頬へと触れた。
「悪くないですね。この学校で過ごすバレンタインは今日だけでしょうから……」
 そう言いながら新堂と唇を重ねる。くわえたチョコを互いの唇で受け口の中で溶かしていくうちに抱きしめる力は自然と熱くなっていく。こんな所でと思うが、二人で過ごせる学園生活もあと残り僅かと思えば熱をおさえるほうが酷だというものだろう。
 甘いチョコレートの香りに包まれた二つの影はより深く結びついていった。

 ※※※

 一方、その頃。放課後になっても袖山勝はなれない1年生の教室で右往左往し一人の少女を捜し求めていた。鞄には綺麗にラッピングされた手作りのブラウニーから美味しそうな匂いが漂ってくる。
 事の発端は一人で学食にいた袖山が呼び止められた事からであった。
 鳴神学園ではリボンや上履きの色が学年によって違う。赤いリボンをしていた彼女は1年生だろう。消え入りそうな声で「お願いします、ついてきてくれませんか」と呟いて袖山を学食の片隅へと連れ明らかに手作りとわかるチョコレートを差し出された時は袖山の胸も高まった。あまり女性に縁があるほうでもなければ目立った生徒でもない袖山だってその日がバレンタインデーである事くらいはわかっていたからだ。
 今までは同じ学年の友人や同じ部活の後輩から一目で義理チョコだとわかるような安物だけを渡されてきた袖山にとって差し出された手作りブラウニーは目に見えて本命のチョコレートだと確信させるものだった。
 当然、見るからに本命のチョコレートをもらう事など初めてである。何を言おうか戸惑っているうちにチョコを差し出した女子生徒は顔をあげぬまま精一杯に声を張った。
「あのっ、袖山先輩って荒井先輩と仲良いですよね。これ、荒井先輩に渡してください!」
 少女はそう言うと袖山にチョコレートを押しつけ脱兎の如く去っていく
「あっ、ちょっと。待って、待ってよ」
 そのチョコが自分宛ではなくクラスメイトの荒井に渡すべきプレゼントだという事、少女が名前も言わず去っていってしまった事、その容姿もおぼろげにしか覚えていないこと。せめて名前くらいは聞いておこうと精一杯声を張り上げた時はすでに彼女の姿は遠くに見えなくなっていた事などから袖山は誰あてか分からぬチョコレートを受け取る事になってしまった。
 もしこれが新堂だったら「他人の事なんて知らねェ」とでもいい捨ててしまうのだろう。
 風間だったら「本命はボクだろうに恥ずかしがり屋さんだね」なんていいつつ自分でむさぼり食うに違いない。
 赤川が知れば「僕の袖山くんを伝書鳩扱いするなんていい度胸だね」と憤怒の表情になる事だろう。
 だが袖山は極めて真面目な性格だった。そして荒井の事を良き友人だと心の底から思ってもいた。 誰からかわからないチョコレートを渡されてもきっと荒井は困るだろう。それに渡した女の子も自分の気持ちを伝えられず悲しい思いをするに違いない。
 袖山はそのように考えられる人間であり、また優しさと行動力を持ち合わせていたのだ。
 昼食も食べずにその場を去った女子生徒を追いかけ辺りの人に彼女は誰かと聞いてみたが1000人近い生徒のいる鳴神学園では通りすがった生徒の顔を偶然知っているコトなどまずない。 追いかけてもすでに彼女は後ろ姿さえ見られず、ただ1年生であろうという情報だけで袖山は彼女を探し始めた。 残りの昼休みはすべて彼女を探すことに費やし、午後の授業合間にある僅かな休憩時間も1年の教室棟へと向かってみた。
 だが1学年だけで3階建ての教室が一杯になるような鳴神学園でぼんやりとしか記憶にない名前すらも知らない少女を探すのはまさしく雲を掴むような話である。
 休み時間全てを費やしても見つからなかったが放課後ならば時間が長いぶん会える確率が高いはずだ。そう思ってホームルームが終わった直後に1年の教室まで急いで様子を見に行ったという訳である。
 袖山の思惑とは裏腹に、通用口は生徒でごったがえしていた。もうじきテストという事もあり部活がないということもあって皆すぐに帰宅しようというのだろう。溢れるほどの人の波が押し寄せているこの状態では一人の少女を探すどころではない。
 諦めるのは早い、まだ学校に残っているかもしれない。
 袖山はそう思いなおして1年の教室へと向かってみても仲のよさそうな生徒たちが幾人か残ってテスト勉強をしたり、帰るタイミングを逸した生徒が本を読んでいたり、よほどモテるのか鞄にいっぱいのチョコレートを前に困惑している生徒などの姿はあるが肝心の少女は影形もなかった。
 探す場所ならまだある。教室にいなくとも部活をやっているかもしれないのだ。そう思ってグラウンドや部活棟も向かってみるがテスト前なのでほとんどの部が活動をしていなかった。
 念のため文化部が詰める部室棟にも行ってみたが普段活気づいている新聞部でさえ人の気配がない。
 結局チョコレートの渡しぬしが誰だかはわからないままだが、もしこれで荒井が帰ってしまったらバレンタインデーに渡せなくなる。 それでなくとも荒井という人物は何かと学校を休みがちな生徒なのだ。今日は確か来ていたと思ったが自分があちこち探しているうちにもう帰ってしまったかもしれない。
 慌てて部室棟から教室棟へ戻る途中、袖山はひとまず荒井の靴箱を確認する事にした。もう帰ってしまったのなら上履きになっているはずだ。だったらメッセージツールでチョコレートを預かっている事だけ告げて、今度来る時に渡せばいい。急ぎだといわれれば荒井は鳴神学園の近所に住んでいたはずだからそこまで届けてもいいだろう。
 そう思いながら荒井の下駄箱を開ければ革靴と、押し込まれるようにチョコレートが入っていた。どうやら荒井は袖山が思っている以上にモテる男らしい。だが今はそんな事どうだっていいのだ、革靴があるということはまだ校内に残っているのだろう。生徒が居残るには随分と遅い時間だが自分だって随分ともたついてしまったし、荒井は久しぶりに学校へ来たから何かとやる事も多かったに違いない。
 とにかく居てくれて助かった。せめてチョコレートだけ渡せれば自分の役目も半分は終わるだろう。袖山は大切そうに誰からのものかわからぬ手作りブラウニーの紙袋を抱えると自分のクラスへ歩き始めた。荒井は部活もしていないし、いるのだとしたら教室か時田の手伝いで視聴覚室にいるかどちらかだろうと思ったからだ。
 そうして教室の前へ立てば、微かだが人の声が漏れ聞こえる。一人は荒井の声だがもう一人、少しばかり低い男の声がドア越しにも響いていた。どこかで聞いた事のある声だが思い出せない。すぐさまドアを開け荒井へ声をかけても良かったのだろうがただならぬ雰囲気を感じた袖山は扉を開けずしばし中の様子を窺う事にした。
「っ……んぅ、くっ……ぅ……」
 痛みを耐えるよう必死に声を殺すように聞こえる、この声の主は間違いな袖山の知る荒井の声だった。 普段から冷静で狼狽える事など滅多にない荒井に何かあったというのだろうか。扉を開けていないうちに袖山の身体から汗が噴き出てくる。
 滅多な事ではヘマをしない荒井が誰かに暴力でも受けているのだろうか。そう思うと恐ろしかったが、何とかして助けてあげないとといった気持ちがわき上がってきた。こういった時でも誰かを助けようと考える事が出来る程度に袖山はお人好しであったのだ。
「おい、大丈夫か荒井……キツいんなら無茶すんじゃ無ェぞ」
 続くように聞こえた声に袖山は驚かずにはいられなかった。間違いない、三年生の新堂誠だ。今の時期なら三年は受験シーズンも後半でほとんど学校に来ないのはずだが新堂は何か用でもあったのだろうか。
 それに、新堂と荒井が見知った関係であるというのも袖山は詳しく知らなかった。半年以上前に荒井が学校の七不思議について語る集会へ出た時、その中のメンバーに彼がいたとは聞いていたし実際にその校内新聞も読んだ記憶はある。だがそれからも新堂と荒井とが一緒になって行動をしているとは思ってもいなかったのだ。これは、新堂と荒井が性格的にあまり似た要素がないというのもあっただろう。
 なぜ新堂が荒井と……? 疑問に思いドアごしに耳をそばだてる。
 下級生の間にある新堂誠の噂は決して良いものではなく周囲からの評価も粗暴な不良といった所だったろうが、新堂と直接話す機会があった袖山にとって彼は見た目ほど怖い男でもなければ人に言われる程悪人でもないのを知っていた。気に入った相手には面倒見も良く、実際袖山は同級生の不良連中に絡まれた時に助けてもらった事もあるくらいだ。だから他の生徒たちが新堂の関わった恐ろしい噂を聞いてもまさか新堂がそんなことするはずないと心のどこかで思っていたのだ。
 だが、いま教室から漏れる声を聞く限り荒井になにかしら非道い事をしているに違いない。どうして新堂さんが荒井にそんな事をするのだろうか。二人は知り合いで、荒井が何かしら新堂の逆鱗に触れたのかもしれない。でも、もしそうだとしたら、一体いつからそんな事をされていたのだろう。それに新堂がそこまで非道い事するなんて考えにくいのだが。
 様々な考えが頭の中を渦巻く。
 新堂は悪人とは思っていなかったがもし荒井に非道いことをしているようなら話は別だ。何としても止めなければ。当然新堂がどれだけ強く恐ろしい人かは知っていたがそれでも友人の荒井が傷つけられているのを黙って見てはいられなかった。とはいえ袖山は喧嘩などしたことがない。例え殴り合いになったとしても元々体力がなく恫喝されればすぐ怯えてしまう袖山はおおよそ喧嘩に向いてない気質なのはわかっていた。それならば自分が勝つには奇襲を仕掛けるのが一番だろう。相手の隙を突いて荒井を連れ出すことができれば儲けものだ。二人だと逃げるのは遅くなるだろうが相手が新堂が一人なら多少の抵抗もできるはずだ。
 とにかく中の様子を見てみなければ。そう思いドアについてる窓から中を覗けば荒井の席で蠢く二つの影が目に入った。
「大丈夫ですから……それより新堂さん、まだ良くなってませんよね……」
「いや、俺は大丈夫だっての。それよりおまえの方が限界だろうが」
「いつも貴方にされっぱなし、というのは……面白くないですから……」
 荒井は息も絶え絶えに訴えさらに激しく動こうとするが僅かに動いただけで全身のけぞって声をあげる。
「あっ、っ……ぁ……」
 その声に耐えるよう必死に唇を噛む荒井を新堂は強く抱き留めた。
「ほら、もういいって言ってんだろ。無理すんなって」
「ぁ……すいま、せん……新堂さ……っ」
「気にすんなよ。今日、家は誰も居ねぇんだよな? ……だったら後で楽しませてもらうとするさ」
 新堂は驚くほど優しく囁くと荒井の頬へ手を伸ばしそのまま唇を重ねる。それを目の当たりにし、袖山は思わず目を見開いた。最初に見た時も虐められているとか嫌がらせをされているにしては随分と距離が近いと思ったが、二人の間にある感情が明確な好意であることを確信したからだ。
 助ける必用がないのなら袖山が出ていく理由はないだろう。彼はなるべく音をたてずに動くと教室から一番近い階段へ腰を下ろした。
 少し落ち着く必用があった。
 友人である荒井が自分に内緒で恋人をつくっていたことも驚きだが、相手が新堂だというのは全く想像していなかったからだ。 だがそれを見てしまった今、自分はどうすればいいのだろうか。新堂はもうすぐ卒業になるからいいだろうが、荒井とは今までと同じように付き合えるだろうか。
 二度、三度と袖山は深呼吸をする。  
 驚いていないといえば嘘ではあるが、荒井に対して自分の中にある印象は何ら変わっていない。いつだって冷静で決断の早い友人だ。自分のように地味で取り柄のない人間にも親しくしてくれるし困ったら手を差し伸べてくれる優しい友人でもある。
 そうだ、荒井は決断が早く自分の意志で何でも決める性格じゃないか。自分のようにグズグズ考えて失敗するタイプじゃない。その荒井が自分で考え決断して傍に居る事を選んだ相手が新堂だというのなら、きっとそれは荒井にとって正しい事なんだろう。
 何も変わる必用も、変える必用もない。袖山にとって荒井は大事な友達なのだから。
 荒井が恋人のことを自分に言わないのもまた周囲を気遣い袖山を気遣っての事だろう。変な噂がたった時、荒井と親しくしていた袖山にも好奇の目が向けられないよう気にしてくれているのだ。荒井は聡いのだからそれくらいは考えている。
 だとすると、気付いてしまったことを自分から言うのは得策ではないはずだ。
「そうだよね、荒井くんは僕の友達なんだ。それは、僕の中では何も変わっていないんだよ」
 袖山は呼吸を整えると階段の踊り場へ移動し隠れるように腰掛ける。荒井が帰宅するとしたらこの階段を使うだろう。そうしたら、今日女の子から渡されたプレゼントを渡してしまえばいい。
 何も変わる事なんてないのだ。自分は普段通り荒井の友人として、友人の勤めを果たせばいいのだから。
「大丈夫、今日はこのチョコを荒井くんに託すだけだし。僕なら出来るって、うん」
 袖山は自分を鼓舞しながら深呼吸をする。
 何があったって自分にとって荒井が大切な友人なのはかわりない。きっと荒井だって自分に何があっても最後まで袖山を友人として信頼し心配してくれるのだろう。
 ただ一つ残念なことがあるのなら、荒井が秘密にしている以上「おめでとう」とも「良かったね」とも言う事ができないことくらいだ。
 袖山は深く呼吸を吐き静かに時をまつ。願わくば近いうちにその言葉を直接荒井へ言える日がくればいい。そんな事を考えて。

 ※※※

 日も暮れ始め校内に誰の姿も見えなくなる頃、新堂は荒井と他愛も無い話をしながら歩いていた。するとその途中で不意に誰かが荒井を呼び止める。どこから声がしたのかと不思議に思いながら辺りを見渡せば階下の踊り場で息を弾ませて立つ袖山の姿があった。どうやら荒井を探していたようだ。荒井は彼の姿を見つけると驚いたように声をあげた。
「どうしたんだい、袖山くん。こんな時間にまだ学校に残ってたのかい」
 黄昏時を過ぎたこの時間は学校に残るには随分と遅い時刻だったろう。平時であれば運動部や文化部がグラウンドか部活棟で活動している時間だがテストが間近に迫ったこの時期は部活も原則中止になるため校内には人の気配などない。
 しかもここ鳴神は怪異の噂が後を絶たず実際に生徒が被害にあい毎年何人かが消えていなくなっているような有様だったから放課後一人で居残っているというだけで危険なのだ。
 その思いもあったのだろう、荒井の言葉は普段より語気を荒げている。
「ダメじゃないか、早く帰らないと。黄昏時は逢魔が時とも言って怪異や妖異といったよくないものが出る時間なんだ、他の学校ならまだしもこの鳴神で一人になるなんて危険すぎるよ。どうしてこんな時間まで残ってたんだい」
 荒井が存外に強い言葉で迫ったからだろう。元々気の弱そうな袖山は狼狽えながら元々細い目をさらに細めた。
「えっ、あっ、ごめんね、荒井くん。僕ももっと早く帰るつもりだったんだけど……そ、そうだ。これっ……」
 そして狼狽えながらも鞄を開くと中から丁重にラッピングされた手作りらしいブラウニーを取り出すと荒井の方へ差し出した。リボンにはかわいらしいカードに「荒井さんへ」とメッセージも添えられている。
 それを見て隣で黙っていた新堂がついに耐えきれなくなったように口を開いた。
「何だよ袖山、おまえ荒井にチョコ渡すために待ち伏せしてたのか?」
「ひっ……し、新堂先輩。ち、違いますよ……これは、荒井くんに渡したいけど本人に直接渡すのが恥ずかしいって子が僕に渡すよう頼んできたので、それを預かっただけですっ……」
 添えられたカードの字は袖山の筆跡とは全く違うし彼がバレンタインのため手作りブラウニーに挑戦するとも思えなかったから、その言葉は本当だろう。どうやら袖山は荒井のポストにされていたらしい。バレンタインとなればチョコレートがもらえるのか多少は期待もするだろうに無常にも男心を踏みにじられたということだろう。人の良い袖山が断り切れなかった姿が目に浮かんだ。
「袖山……テメェがお人好しなのは知ってるが、そんな頼み受ける必用無ェだろ。どこのどいつだ? 俺が少し強めに話つけておいてやろうか?」
「ひぃっ……だ、大丈夫です新堂先輩。そんな事したら女の子が可愛そうじゃないですか……それに、どこの誰かは分からないんですよ」
「分からねぇ? 何でだよ。おまえにチョコ託したってんだろ」
「はい、確かに僕はチョコを渡すよう頼まれたんですが、肝心の女の子は名前も言わないで逃げるように立ち去って去ってしまったので……きっと僕にチョコを託すのが精一杯だったんでしょうね。あいにくチョコの包みにも名前は書いてないみたいですし、手紙のようなものも無いでしょう。流石に誰からのプレゼントかわからないと荒井くんも困るでしょうし、これを託してくれた女の子も思いが伝えられないのは気の毒じゃないですか。だから僕はずっとその生徒を探していたんです。そうしたらこんな遅くなってしまって……結局誰が渡したのかわからなかったけど、せめてチョコレートだけでも渡しておこうかなって。荒井くんがまだ帰っていなくて安心しました」
 どうやら袖山は校内に生徒の姿が見えなくなるまで差出人不明のチョコレートを渡した女子生徒を探していたのだという。鳴神学園はたとえ同じ学年でも一度だって顔を合わせない事があるほど広く1学年の教室が3階まであるほどクラスも多いのだ。その中から女子生徒を一人捜すなんて骨が折れただろうし、見つからなくても仕方がない。
 新堂は改めて袖山の人の良さと根気に感心した。決して要領の良い方ではないがこのように何に対しても真摯であることが袖山の美徳なのだ。
「ごめんね、袖山くん。僕のせいでキミに余計な気遣いをさせてしまって……」
 包みを受け取りながら申し訳なさそうに頭を下げる荒井を前にして、袖山は大げさなくらい首を振って見せる。そこからは苦労させられた恨みの類いは一切感じられなかった。
「そんなことないよ! 僕こそちゃんと名前を聞いておかなくてごめんね」
「名前を伝えなかったのは相手のミスだから袖山くんが気にする事じゃないよ。本当にありがとう……袖山くん、もし良かったら途中まで一緒に帰るかい? 学校を出るまでは一人で歩くのも危ないだろう」
「えーっと……」
 袖山は少し考えるが新堂の方を見ると顔を引きつらせる。それはあまり表情が読めない袖山でも明らかにわかるほどのNOの感情だった。
「誘ってくれたのは嬉しいけど、さっき同じ部活の内山くんと会ってね。彼と一緒に帰ろうと思うからまたの機会にするよ。それじゃあまた、学校でね」
 そうしてやや早口でまくし立てると転がるように階段を降りていく。あの様子を見ると明らかに新堂を怖れて逃げ出したのだろう。内山と帰るなどというのもきっと方便だ。
「何だよ袖山のヤツ、別に取って食いやしねーっての。ってか逃げ足早ェなあいつ、運動神経なんざぷっつり途切れてると思ってたんだがなァ」
 自分が怖がられていることくらい分かっているのだろう、新堂は呆れたように頭を掻くと逃げ去った袖山の方を見る。そんな新堂を荒井はいつものような愛想の欠片ない顔で見つめていた。
「……新堂さん、袖山くんの事知っているんですね」
「まぁな……あいつサッカー部だろ? 去年サッカー部の三軍連中を面倒見てやったんだが、その中にアイツも居たんだよ。いやァ、あんな運動センスのないヤツも珍しいってくらい何やらせてもヘッタクソだったけど、諦めたり投げ出したりはしねぇ根性のあるヤツだったから覚えてたんだよな」
「そうですか……袖山くんは何に対しても真摯に行動出来る人ですからね」
 袖山の話をしている時、荒井の表情は幾分か柔らかくなる。その姿を見て新堂はさも意外だといった様子で荒井を見た。
「いや、それより荒井。おまえ、袖山の前だとあんななのか?」
「あんな……とはどういう意味ですか」
「だから、袖山の前だとあんなネコかぶったみたいに普通の高校生です、ってしゃべり方になるのかよ。お前もっとこう……ツンケンしてるだろ、普段は」
「待ってください、僕をまるで人の心がない人形みたいに言うのはやめてくれませんか。僕だってごく普通の高校生ですから、普通の高校生らしく振る舞うのは当たり前じゃないですか」
 そう語る荒井の口調はひどく淡々としており感情の起伏さえ感じられないのだから言っていることとやっていることが違いすぎる。袖山の前で随分と柔らかい口調になっているのに自分で気付いていないのだろうか。
 そもそも荒井は新堂に対して普段より敬語で話す傾向がある。いや、新堂だけではない。年下である坂上や倉田、友人である時田や赤川と連んでいる時だっておおむね敬語だ。そのような姿しか見ていないからてっきり敬語でしか話さないのだと思っていたからこそ、袖山の前でみせた砕けた口調が意外に思えたのだ。
「そりゃぁそうだけどよ……何か袖山に対して話し方といい態度といい随分と違って見えたからよォ。おまえ、何か袖山とあった訳じゃ無ェよな?」
「何を言ってるんですか、僕が袖山くんに対してそんなことするはず無いでしょう……もし僕が袖山くんを前にして雰囲気が違うように見えるのだとしたら、それはきっと袖山くん自身の力ですよ。袖山くんは穏やかな人ですから、彼の前だと僕も力まず自然に接する事が出来るんだと思います」
「あぁ、確かに袖山ってちょっと抜けてるってか、毒気が抜かれるような所があるもんなァ」
 新堂は納得したように頷くと薄暗くなりはじめた階段を降りる。荒井は紙袋に袖山から受け取った包みを入れると新堂の後を追いかけた。
「あー、でもそれってアレか。お前、俺の前では一応気を遣って話してるってことか? 袖山の前では気張ってねぇんだろ? 俺の前では一応、敬語だもんな」
「当たり前でしょう? 新堂さんは先輩です。後輩として先輩に失礼のないよう話すのは礼儀の一つですからね」
「確かに俺はお前の先輩ではあるけどよォ。その前にお前の彼氏でもあるんだぜ。恋人の前で肩肘張って過ごすってのも何か違うんじゃ無ェか?」
「違いませんよ。好きな人の前だとなおさら格好付けたくなる……なんて、新堂さんこそそうなんじゃないですか。僕の前でもかっこ良くて強い男でいたい、って思ってませんか? 僕は別にあなたがかっこ悪くて弱っていても嫌いになんかならないですよ」
 荒井に言われ新堂はぐっと押し黙る。荒井の前では格好いい男でいたい、男らしくありたいと思っているのは確かにその通りだからだ。
「そりゃぁそうだけどよ……無理して俺に敬語使ってんなら普通に喋ってもいいんだぜ。お前にあんまり気を遣わせたくはねぇからな」
「新堂さんは僕が無理をしているように見えますか?」
「いや、そりゃ……全然見えねぇけど」
「そうでしょう。僕は別に無理はしていませんよ、家でも基本的にはこのように話してますから」
 荒井は笑いながら本気か冗談かわからぬようなことを言う。まさか本当に家でも敬語で会話しているとは思いがたいが荒井の家ならありそうだ。そう思っているうちに荒井は新堂の前とまわるとこちらの顔をのぞき込んできた。
「それとも、もっと普通の高校生みたいに話す僕のほうが好きかな。どうかな、誠さん。変じゃないなら……そうしてみようかな?」
 荒井は悪戯っぽく笑いながらまるで袖山と話している時のように砕けた口調で話し出したのだ。 普段から慇懃無礼なまでの物言いをする荒井が年相応の少年らしい話し方をするのは新鮮だったし、新堂のことを名前で呼ぶのも珍しいことだったから驚くと同時に気恥ずかしくなる。
 だがそれは言った荒井も同じだったのだろう。勢いよく話してみたはいいが後から恥ずかしくなったのか、新堂が見てわかるほど頬を紅潮させ俯いた。
「……いや、やっぱり聞かなかったことにしてください。僕にはこういうの似合いませんよね。自分が一番わかってますから」
「おいおい、言った本人が恥ずかしがってんじゃ無ェよ。ったく……」
 荒井を抱き寄せれば彼は新堂の胸元へ顔を埋めるようにして赤くなった頬を隠す。すると荒井は自嘲気味に笑うと新堂の制服を握りしめた。
「かっこ悪いですね、僕は。貴方をからかうつもりだったのに僕自身が恥ずかしくなってしまうなんてとんだお笑いぐさです。自分の考えたジョークで笑う芸人みたいに間抜けじゃないですか……」
「心配すんなよ。お前は俺がかっこ悪くても好きでいてくれんだろ? ……俺だってそうだ、お前がかっこ悪くたって嫌いになんかならねぇよ」
 新堂は荒井を撫でてからその髪へ口づけする。
 すっかり赤くなった耳に触れれば指先に愛しさと温もりとが伝わり、二人のバレンタインはおおむね甘いまま終わっていくのだった。