沈む/墜ちる


 吸い込まれるよう暗がりへと落ちていく。
 水の中で呼吸はままならず肺の中から空気が減っていくのを実感すれば身体はそれだけプールの底へと近づいた。
 月の光を浴びた水は世界を青白く染め上げ、水も銀色に輝いている。
 溺死は最も苦しい死因の一つだとは言われているが、こんなにも美しい世界に縊り殺されるのなら苦しくてもしかたないだろう。
 荒井はそんな事を思いながらプールの底で空を見た。月の光は煌々と輝き世界を蒼いヴェールで包む。道路も家も店も学校も一続きの蒼い布が覆われたかのような世界で、このプールは奥底まで薄花色に染まっていた。
 これで終われればいい。死の安寧が自分の底知れぬ命を使い果たす事ができる場所が月光に包まれ波打つ美しい水の中であったら最高だ。こんな美しい世界で死ねるのだから。
 彼の切なる思いを断ち切ろうとするかのよう、手を伸ばす影があった。
「荒井ッ……荒井……」
 新堂だ。随分と深くまで沈んだと思ったが、彼ならこのくらい潜ってくるのだろう。水の中だから何を言っているかはわからないが、口の動きで自分の名を呼んでいるのだろうと感じた。
 朦朧とする意識の中、新堂は荒井と唇を重ねる。口移しで送られた空気は荒井に呼吸を思い出させ、水の中で縊られていく苦しみを改めて伝えた。まとわりつく水は身体を締め上げ自由を奪い、美しいと思っていた世界がとたんに不安とおぞましさを与える。
 あぁ、やはりどれだけ美しくても死を与えられるのはどこか恐ろしい。
 心の底にこびりついた恐怖を打ち払うよう新堂は荒井の手を引く彼の身体を抱きゆっくりと浮上していった。
 程なくして水からあがれば肺を満たしていた水は不快な苦しみを煽り反射的に咳をし全部吐き出してしまう。幾度も咳をし水を吐いた後、新鮮な空気が肺を満たしていった。
 朦朧とする意識の中、新堂がプールサイドまで引き上げてくれる。冷たい夜風に頬を撫でられ鉛のような疲労を抱くことで荒井はまた死に損なったのだと気付いた。
「水が張ってあって良かったな、無かったら落ちて死んでたぜ」
 肩で呼吸を整えながら新堂はプールサイドに座って飛び込み台を見る。
 県内でも珍しい高飛び込み用の台があるプールは普通のプールよりずっと深く、高飛び込みをする選手がいなくなってからプールは使用禁止になり入れないよう施錠されているのだが、意外にもきちんと水が張ってあった。理由は事故防止のためだろう。鳴神学園では自殺する生徒が多いのだから、水を張っておくくらいの予防策をしているのは想像に難くない。
 荒井は飛び込み台を見て、ふっとため息をついた。
 どうして水が張ってあるのを知っていて飛び込んだのだろう。下が水だったらあの高さから落ちても死ねない事くらいわかっていたはずだ。水がない状態で飛び込めばもっと確実に死に近づけていただろう。水が張ってあった時点で簡単に死ぬ事ができないのは分かっていたのだから、今日は死ぬのを諦めれば良かったのだ。そして、また別の死に場所を探せばいい。
 高い所なら別に、飛び込み台じゃなくてもいいのだ。学校の屋上でも、鳴神学園の特別棟なら充分に死にきれる高さだろう。もちろん、学校に拘らなければもっと沢山の死に場所がある。高いビルだでもいいし、踏切や駅でもいい。利便さと危険は隣り合わせで、利便さが追求されきった現代は死ぬ気になれば何処でも死ねるのだ。
 それなのに、どうして自分は飛び込み台などからプールへ落ちたりしたのだろう。しかも飛び込むよりずっと前に新堂へ連絡を入れている。
 彼に連絡などしなければ一人で死ねたはずだ。あの薄花色に染まった水の中で呼吸をしつくして、水に縊り殺されていたはずなのだ。それを望んでいたはずなのに、いつも新堂のことを呼んでしまう。
 自分のために彼が来てくれるのではないか。そんな微かな希望を抱いて。
「新堂さん……」
 あらかた水を吐いた後、荒井は新堂の方を向く。
 新堂の素早く適切な処置のおかげですでに死の影は完全に消え、多少の息苦しさと指先の痺れが僅かに残るだけになっていた。それと、濡れた身体で夜風に触れている寒さもか。
 こういう時は助けてくれてありがとう、とでも言うべきなのだろうか。あるいは迷惑をかけて済まない、と言うべきか。死ぬのを邪魔してくれたと恨み節の一つでも言うのが適切か。もう幾度も助けられているが、今まで彼になんと声をかけてきただろうか。
 考えても答えは出ず、胸には洞が開いたような空しさだけが響いていた。
「よし、じゃぁ行くか」
 一方の新堂は荒井の言葉など最初から求めてないよう自分の濡れた服を絞ぼってから荒井の身体を抱き上げる。何をするのだろうと呆けた顔で見ていれば、新堂は荒井の濡れた髪に触れた。
「ボクシング部はシャワールームも良く使うからな、鍵もってんだよ。シャワー浴びて一息つこうぜ」
 言われて自分の身体が芯まで冷えているのにようやく気付いた。今、暖かく思えるのは新堂に抱かれているからで彼から伝わる体温だけがかろうじて生の実感になり得たのだ。
「どうして……」
 荒井は俯き新堂の腕に触れる。
 どうして怒りもしないのだろう。どうして荒井の言葉を待たずに勝手に決めてしまうのだろう。ぼんやりと抱いた疑問に答えるかのよう、新堂はより強く彼の身体を抱きしめた。
「俺が助けてやった命だ。今くらい俺が預かってもいいだろ?」
 そうだ、自分の命は助けられたのだ。望む、望まないにせよ助けられた限り、今があるのは新堂の責任ともいえる。
 それならば、彼の好きにされるのも悪くはない。
 新堂へ身体を預け、指先を絡める。死を間近に体感した後に生を貪られる、紙一重の快楽が今の荒井に辛うじて生きる意味を与えていた。

 ※※※

 ひとときの安らぎ。新堂への信頼は恋慕にも似た思いへ変貌していた。
 だがそれでも、芽生えた死にたがりの種をからすのは容易ではなく、日が経つにつれ荒井の中にある死の渇望はムクムクと肥大化していく。
 だからその日、荒井が一人屋上へ向かったのも自然なことだった。
 鳴神学園では屋上から飛び降り自殺した生徒が何人もいる。それだというのに屋上へ簡単に登れるようになっているのは、鍵で閉ざせば誰かが鍵を開け、板で塞げば板を壊して屋上にあがるといった有様だったからだろう。
 荒井が出向いた屋上も鍵は壊され、簡単に入る事ができた。錆だらけのフェンスは少し体重をかければ簡単に折れそうだったし、誰かがペンチで穴を開けたのかフェンスを越えて飛び降りるのは容易くなっていた。
 フェンスを乗り越えるのは躊躇いがなかった。いつもの死にたがりが出て屋上に向かい、飛び降りようとしていたからだ。
 だがそれを止めたのが新堂だった。
 彼がどうやって荒井を止めたのかはよく覚えていないが、ただ強引に腕を掴まれ抱き寄せられ引きずるように安全なフェンスの向こう側に連れ出されたことだけはぼんやりと覚えている。
 また邪魔をされたという悲しみと、まだ新堂と共にいられるという微かな喜びを胸に荒井が振り返った時、すでに新堂の身体は後ろ側へ大きく傾いていた。
 学校の屋上、フェンスの向かい側だ。
 どうしていつも助けるのだろう。その口惜しさと今日も彼の腕が生へ引き寄せてくれた安堵。二つの相反する思いを持て余し新堂の方を見た時、彼の身体は地上へ落下しようとしていたのだ。
「新堂さんっ、新堂さ……」
 声をあげ、手を伸ばす。だがフェンスが隔たり手は届かず、必死に駆け寄ったのも空しく、冷たいフェンスごしに新堂は暗がりへと落ちていった。
「あ、あぁ……」
 新堂が自分から飛び降りるとは思えない。身体も不自然に傾いていたから、フェンスを越えようと思ってバランスを崩したのだろう。
 彼が死にたがる訳がない。死にたがりでない彼が死ぬはずがない。
 そんな幻想を打ち破るよう、土に石でも打ち付けるような鈍い音がした。
 下では新堂の身体が潰れ骨が折れ吹き出した血で濡れているのだろうか。まだ言葉を紡ぐだけの余裕があるのか、それとも首の骨が折れそれさえままならないのか。
 怖かった。
 元より退屈な人生から新堂が失われるのだと思うと恐ろしくて下を見る事すら出来なかった。
 同時に自分が何て身勝手なのだろうとも思った。
 目の前から新堂が失われる事など今まで一度も考えなかったのだろうか。死に到る程の危険を浴びせる自分を助けるのだからいつもそのリスクを新堂に負わせている自覚はあったはずだ。
 新堂の前から自分が消えてしまうのは良いのに、自分の前から新堂が消えてしまうのを良しとしないのもひどいエゴだ。新堂が生きているうちに自分の生を終わらせたいと心のどこかで思っていたのではないか。
 どうしようもない怖れと無力感から膝をつく荒井の耳に、微かだが人の声が入ったのはその時だった。
「お……い、いるんだろ、荒井ッ……いるなら手を貸してくれ……」
 新堂の声だ。まだ生きているのだ。
 それに気付いた時いてもたってもいられなくなった荒井は転げ落ちるように階段を下って外に出る。
 グラウンドに出れば植え込みの中で身動きがとれなくなっている新堂の姿がすぐさま目に入った。運良くグラウンドに落ちなかったから大きな怪我をせずに済んだのだろう。それでなくとも、鳴神学園の屋上は飛び降りるにしては微妙な高さなのだから元より頑健な新堂では死にきれない高さだったのかもしれない。
 そんな死にきれないような高さを飛び降りてみようとする荒井も大概なのだろうが。
「新堂さん……新堂さん、大丈夫なんですか……」
 植え込みの中に手を伸ばせば、新堂はその手をとり何とか身体を起こした。
「大丈夫な訳ねぇだろ、あの高さから落ちたんだぞ……くそッ、身体中が痛ェ……」
 そして荒井の肩をかり何とか立ち上がる。 見た目に大きな怪我はないが落ちたのには違いない、油断は出来ないだろう。頭でも打っていたら後遺症が残る可能性だってあるのだから。
「病院に……すぐ、病院に行きましょう。頭を打ってたらいけませんから……」
「当たり前だろ、行くよ。テメェみたいに死にたがりじゃ無ェんだ俺は……俺は、おまえと今日も明日も生きて生きて生き抜いてやるからな。お前が死にたくても死なせてやらねー、嫌がらせをずっと続けてな……ほら、手ぇ貸せ。病院まで一緒に行くぞ」
「……はい」
 新堂に肩を貸し寄り添いながら歩き出す。
 彼には生きていてもらわなければいけない。これからも自分の邪魔をしてもらわなければいけない。
 新堂がいない世界では、生きがいは勿論、死にがいもないのだから。