渇いたスケッチ

 新堂誠は目を覚ますとすぐにここが自分の部屋ではない事に気が付いた。
 開け放たれた窓から藍色のカーテンが揺れ、モノトーンのベッドは普段使っているものより少し広い。 難しそうな本が整然と並べられた本棚に参考書が並ぶ机、無駄なものはおかれていないガラステーブルにカバーがかけられたクッションが置かれている。
 あまり生活感のないこの部屋は、荒井昭二の部屋に間違いない。新堂の恋人で、最近は彼の家に泊まる事も増えていたからこの部屋で目覚めた事に対して違和感は覚えなかったが、部屋の主がいない空間は生活感が乏しいのもあり普段よりいっそう寂しい雰囲気を漂わせていた。
「荒井、おい荒井、いないのか?」
 寝ぼけ眼のまま、新堂は周囲を見渡す。窓からは朝日が差し込み部屋は眩しいくらいだったが、どこにも荒井の姿は存在しなかった。
 眠る前は確かに一緒にいた。二人で枕を並べ下らない話で笑いながら同じベッドで眠ったはずなのに、今どこにも姿はない。
 ただ部屋にいないだけだけで家のどこかにはいるのだろう。
 頭ではそう思うのだが心が妙にざわつき落ち着かない。まるでこの世界のどこにも荒井昭二なんて人間はいないのだと。今まで自分の隣にいた荒井昭二は現実には存在せず、全てが夢か幻だったのだと、そのような気持ちがわき上がって不安と焦燥ばかりが募っていった。
「荒井……」
 存在しない温もりを求めるようドアを開けようとするが、鍵がかかっているのかそれとも壊れてしまっているのかドアノブはぴくりとも動かない。
 普段の新堂ならどうせ壊れた扉ならと蹴り飛ばして開けているのだが、それすらする気になれなかったのは他人の家だから壊してしまってはマズイという倫理観もあったが、それ以上に何故かこのドアを開けて家中探しても荒井を見つけることは出来ないという、確証めいた気持ちを抱いたからだった。そして、実際に扉を開け荒井が何処にもいないのを確認するのが怖かったのだ。
 ドアを開けるのを止めた新堂は室内を改めて見渡す。
 本棚に置かれた本は一冊だって漫画はなく、難解なタイトルの本ばかり並んでいる。新堂は小説を読む趣味がないから荒井がいつも分厚い本のページを楽しそうにめくる気持ちはわからなかったが、興味深そうに本を読む彼の横顔を見るのは好きだった。
 テレビの下にはDVDがいくつか並べられている。今の時代はサブスクでドラマでも映画でも何でも配信されているのだが、本当に好きな映画だけは所有していたいという荒井は随分と沢山のDVDを持っていた。だが、並べられた映画のなかで新堂が最後まで見た事のある映画は一つだってない。荒井のコレクションはフランス映画が多いのだが、水がせせらぐように滑らかなフランス語は聞き心地が良く展開も淡々として派手さに欠けるのもあってか30分もすれば眠ってしまうからだ。
 机に置かれた参考書は難問ばかりで、すべて日本語で書かれているはずの現代国語ですら問題の意味がわからない。荒井は一つ年下ではあるが新堂よりずっと頭が良く、テスト前になれば新堂が荒井から勉強を教わるのはもはや当たり前の光景になりつつあった。
 思えば自分と荒井はこんなにも趣味が違うし性格もあわないのに、良く二人でいられるものだ。だが新堂は荒井が小難しい話を夢中でする姿が好きだったから彼の話がわからなくてもそれを聞いていたし、映画を見て表情を変える彼の姿が好きだったから並んで映画を見ていた。
 愛しいからそばに居て欲しい。そう思った相手が、今はどこにもいないのだ。
 風が吹きつけカーテンがふわりと舞い上がる。少し肌寒いような気がしたから窓を閉めようと思い近づいた時、何処からか荒井の視線を感じた。
「荒井、そこにいるのか……?」
 声をあげるが、返事はない。だが確かに荒井はこちらを見ている。こちらを見て、優しい顔をして笑っている。
 だがひどく遠くにいた。手が届かないほど、声も聞こえぬ程、姿も見えない程に。
「荒井、どこにも行くんじゃ無ェ。俺のそばにいろよな……俺のそばから離れんな。俺の前から勝手にいなくなるなよッ……」
 声を張り上げて、思う。
 あぁ、自分はこんなにもさみしがり屋だったのかと。いや、荒井が自分をこんな風にしたのだ。以前は一人でも生きていけると思っていたのだが、今は隣に彼がいないと落ち着かない。 自分の心をこんな風にしたくせに勝手にいなくなるなんて、絶対に許せない。
「荒井……お前が俺をこんな風にしたんだから責任とれよな、くそッ……」
 だから、絶対につかまえて見せる。どこにいたって必ず、抱き寄せてみせる。
 必死の思いで窓から手を伸ばし微かに残る荒井の気配を掴もうとした時、新堂はようやく夢から目覚めた。
 目が覚めれば部屋は暗いが、そこが荒井の部屋だというのはわかる。まだ夜明け前で、今さっきまで見ていたのはすべて夢だったのだろう。
 何て夢を見たのだろうと思いながら時計を確認しようと身体を起こせば、寝る前にいたはずの荒井がいなくなっているのに気がついた。
 これでは夢と同じではないか。現実でも、荒井は消えてしまったのだろうか。慌てて室内を見渡せば、ベッドの向こうで膝をかかえる荒井の姿があった。
「どうしたんですか、新堂さん。少し寝ぼけているんですか」
 よく見ればどうやら荒井はスケッチブックを膝にかかえているようだ。小さなライトを一つつけてエンピツを滑らせている。時計を見ればまだ日の昇る時刻も随分と先だが眠りの浅い荒井は夜中に目覚めるコトが多かったから、眠るのを諦めてベッドを抜け出したのだろう。新堂は荒井の姿を認めて安堵しながら、彼のそばへ近づきスケッチブックをのぞき込んだ。
「こんな夜中に起きて絵なんか描いていたのか」
「はい。本を読む気にもなれず、何か手を動かしたい気分だったので……絵はあまり描かないんですがたまには面白いですね」
 スケッチブックにはベッドで一人眠る新堂と、殺風景な荒井の部屋が描かれている。写生ではなく心情風景なのだろうか、部屋のドアは開け放たれカーテンが風にたなびいているのを見て、新堂は何となく夢で見た荒井の部屋を思い出していた。
 絵に描かれた風景が、夢の光景によく似ていたからだ。
「……その絵、お前も描いておいてくれないか」
 だからつい、そんなことを言う。
 あの世界に荒井はいなかった。だが、書き足せばいるはずだ。そんな風に思ったからだ。
「えっ? ……僕の自画像を入れておけと言うんですか。自分の姿をあまり見ている訳ではないですから自分を描けといわれるのは難しいですね」
 急な提案に荒井は困ったように首を傾げて見せた。実際、荒井は自分の容姿をあまり好いてない様子がしばしばうかがえる。新堂からすれば人形のように美しく整った顔立ちは羨ましいくらいなのだが、荒井は中性的で美しいと形容されるのをあまり好いてはいないようだった。だから、鏡や写真で自分の姿を見てまで自画像を付け足す気持ちには到底慣れないのだろう。
「だったら俺が描いておいてやるから、おまえベッドに座っておけ。俺、勉強はあんまり得意じゃ無ェけど絵はそこまで下手じゃ無ぇと思うから、多分大丈夫だろ」
「僕に絵のモデルになれと言うんですか。別にいいですけど……わざわざ僕のスケッチに書き足さなくてもいいのではありませんか」
 不思議そうな顔をする荒井からスケッチブックとエンピツを受け取ると、新堂は歯を見せて笑うと当然のようにこう、言った。
「絵の中にいる俺が起きた時、お前がいないと困るだろ?」
 その言葉に荒井は虚を突かれたような顔をするが、すぐにくすぐったそうに微笑む。
「新堂さんはさみしがり屋ですね」
 そんな事を言うが、荒井はまんざらでもない様子でベッドへ腰掛けた。その姿を見ながら、新堂はスケッチブックに鉛筆を滑らす。スケッチブックには眠る新堂の隣で荒井が微かに笑う姿が書き足され、これで何処に行っても二人一緒にいられると新堂は密かに安堵するのだった。