襟尾純と黒鈴ミヲは二人並んで夜道を歩いていた。互い何も言わず、月がおぼろな道を照らすが進むたびに空気はどこか重く沈んでいるように感じる。このまま無言で歩き続ければまとわりつくような重苦しさに飲まれてしまいそうだったから、ミヲは耐えきれず口を開いた。
「あの、襟尾さん。ダイジョブです、か」
「えっ、どうしたの急に。俺は大丈夫だけど」
襟尾は驚いたように目を見開いてミヲを見た後、すぐに静かに笑って見せた。
「そうだね、キミみたいに若い女の子を心配させちゃったかな……正直に言うと結構堪えてるんだ。でも、まだ終わってないからね。ここでオレが気を抜いたら、ボスに叱られちゃうよ」
寂しそうな横顔から、喪失の悲哀が深くにじみ出ている。それでも襟尾が前を向き歩みを止めないのは津詰に対する信頼と尊敬の証だろう。怖そうな顔立ちながら津詰の性根は優しい人物であるというのはミヲも良く知っていた。だからこそ、襟尾が心に抱く喪失の痛みが激しいこともわかっていた。
「はい……そうですね」
ミヲは学生だというのに遅くまで任務にかり出される彼女を気遣い、時には憤る津詰の優しさを思い出し、自然と俯いてしまう。彼女もまた、大切な理解者を牛会う痛みを抱えていた。
襟尾はミヲが鳴き出しそうな顔をしているのに気付いたのだろう、自分の胸をポンと叩くと強がった笑みを浮かべる。¥
「俺は刑事だから泣き言を漏らす訳にはいかない。刑事ってのは、事件が解決するまで何があってもじっと耐えて立ってないといけないんだってボスが……別に言ってはいなかったけどさ。ボスは、黙っていてもそういう人だったから、オレもそう思っているんだ。でもキミは違うから、泣きたい時は思いっきり泣いてもいいからね」
そして軽くウィンクして見せる。どうしても空元気に見えてしまうのは仕方のないことだろう。津詰の死は、さっきの今でおこった事件だ。しかも目の前で、どうすることが出来ないまま成り行きを見守るしかなかった。本当は膝を付き泣き叫びたいのだろうが、それに耐え懸命に前を向いている襟尾は自分だって苦しいくせにミヲには泣いてもいいのだと笑ってくれているのだ。彼を前にしてミヲもまた悲しみを口にするのは今ではないのだと思った。
全てが終わった時襟尾とともに思い切り泣こう。それまで今は自分の成すべき事をするだけだ。
そうは思うがやはり落ち込んでいるのはお互いそうなのだろう。襟尾にとっては長年憧れてきた存在であり、ミヲも数年一緒に仕事をし何かと可愛がってもらった人がもうこの世にいないのだ。強面のわりに優しく茶目っ気があり何時でも甘い物を差し入れてくれる彼の存在にシンタイなどという厳しい現場を任されていたミヲもどれだけ救われていたかは分からない。 その感謝を伝えることもろくすっぽ出来ないまま、津詰は逝ってしまったのだから。
再び無言になって歩き出した時、襟尾はふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、ボスは梅酒漬けてるって言ってたな」
「……梅酒、ですか」
「そう、青梅をもらう時期に自分で漬けるんだって言っていて、今年一本出来上がるから飲むかなんて言われてたんだよ。もし良かったらって、一緒に梅酒飲めたらと思ってたんだけど……」
今となっては叶わぬ願いだ。襟尾はどこか悲しげに笑うのを見て、ミヲも以前津詰に似たような事を言われたのを思い出していた。
「私も、言われた事があります。襟尾さんより前ですけど、青梅をいっぱいビニール袋に入れて。これ、どうしたんですか……って。そう聞いたら、貰ったから梅酒でも漬けるかって……私はまだ早いけど、大人になったら一杯どうだなんて言われて……」
やはり約束は守られなかった。
その梅酒は津詰の家のどこかにまだ置いてあるのだろうか。
「襟尾さん、これ終わったら津詰さんの家にいって梅酒を探しに行きましょうか。放っておいても誰も飲まないなら……」
「そうだね、ご家族がよければ俺が引き取ろうかな。そうしたら黒鈴さんさ、キミが二十歳を過ぎた時に開けて一緒に飲まないか。大人になった記念に」
「えぇっ、いいんですか。でも大丈夫かな、そんなに梅酒って持つんでしょうか……」
「大丈夫だって、梅酒って10年ものとかもあるみたいだし、ちゃんとオレが管理しておくから」
無邪気に笑う襟尾を見るうち、ミヲも何だか楽しみになる。
「それじゃぁ、襟尾さんよろしくおねがいします。ふふ……楽しみ」
「あぁ、楽しみだね。そのためにも……」
終わらせなければいけないことがある。
二人は互いに頷くと月明かりの乏しい夜道を進む。アスファルトには襟尾の靴音だけがやけに大きく響いていた。
あぁ、だが終わらなかった。
この世界では、終わらせることが出来ず災厄だけが渦を巻く。
だから全てをやりなおそう。
全ての出会いがなく、全ての世界があなたの魂にだけ刻まれていればきっとそれでいいのだから。
黒鈴ミヲが津詰徹生の家に行った時、襟尾純もやってきていた。今日は非番なのか縁側で涼む津詰はタライに水を張り足を冷やしている。
「こんにちはー、津詰さん。あの、これ……シンタイの方から……」
封筒を高く掲げるミヲに挨拶するよう、襟尾はグラスを掲げる。砕いた氷のなかには甘い香りのする金茶色の液体が揺れていた。
「おう、黒鈴の嬢ちゃんか。こんな日に手伝いとは感心だなァ……」
津詰は団扇で自分を扇ぎながら庭を見る。
存外に手入れされた庭には朝顔のつるが絡まっていた。いよいよ夏も本番という頃合いなのだろう。
「今日は襟尾さんもいるんですね」
津詰の家を自分の家のようにしてくつろぐと、襟尾は一つ大きなあくびをしてグラスを傾ける。刑事なのに随分緊張感がないと思うが、それだけ平和なのだろう。ミヲは津詰に封筒を手渡すと、襟尾のグラスをのぞき込んだ。
「何を飲んでるんですか……お酒?」
「これ、ボスが漬けた梅酒なんだ。そろそろいい時期だからって言ってたから、ご相伴にあずかろうと思って」
「俺ぁそろそろいい時期だとは言ったが、飲みに来いとはいって無ェんだがな」
津詰は頭を掻きながらミヲから受け取った封筒を奥へとしまう。一方襟尾は梅酒を飲み干すと空になったグラスを前に上機嫌な様子だった。
「ボスの漬けた梅酒、すっごい美味いんだよ。飲む?」
「えぇっ!? あの、私……未成年ですけど……」
「おい襟尾! 黒鈴の嬢ちゃん困らしてんじゃねぇよ……ほら、嬢ちゃんにはこっちだ」
津詰は赤ら顔になった襟尾に呆れながらグラスを差し出す。甘い香りのするそれに恐る恐る口をつければ、甘みと酸味が心地よく喉へと滑っていった。
「これ……おいしいです、津詰さん。これは……」
「梅シロップで作ったジュースだ。梅酒より面倒なんだが、酒は飲めない奴もいるからなァ」
「本当は、娘さんと飲みたかったんですよね。飲む前に出ていかれちゃったけど」
「襟尾、うるせぇぞ」
津詰は襟尾のグラスに梅酒を注ぎながら苦笑いをする。この二人は軽口をたたき合えるくらいの仲がちょうどいいといったところだろう。
「この梅シロップ、本当においしいです。あの……娘さんも、気に入ると思いますよ」
「あぁ……そうだといいんだがなぁ、あいつはもう酒飲める歳になっちまったし……」
「いいじゃないですか、いつかボスも娘さんとうまくいったら……みんなで梅酒パーティしましょ。ボスの家には庭もあるし、花火したりスイカ切ったり」
無邪気に笑う襟尾を前にしていれば、いつかそれが叶うような気がミヲにもしてくる。
そう、いつかきっと叶うのだ。生きていれば、命があれば、話し合う時間さえあれば。
それが、あなたの選んだ世界なのだから。