泥濘(ぬかるみ)


 一寸先をも見通せぬような闇の中で、新堂誠は一人黙々と土を掘り返していた。
 梅雨時もあってここ暫くは雨が続いており、水を含んだ吸った土は鉛のように重く粘り体力に自信のある新堂であっても掘り進めるのがやっとであった。それでも休む事なく掘り続けたのは万が一の事を考えてのためたが、募る焦燥に駆られたのも少なからずあっただろう。
 気が遠くなるほど同じ作業を繰り返し粘る土を掘り進めた後、新堂やようやく目当てのものと対面した。
「……くそ、死んでからも煩わしいヤツだぜ」
 目の前に現れたのは半ば腐りかけた死体。新堂の口からこぼれたのは悪態だけだった。
 死体はかつて吉田と呼ばれていた新堂のクラスメイトだ。
 いけ好かない男だった。
 いつも他人を見下すような態度で接し、ゲームや漫画で盛り上がる生徒を前にはわざと声をあげ「子供っぽい」と笑いファッションセンスのいい生徒を前には「学生の本分は勉強だ」なんてわざわざ言いに行くようなヤツだ。
 その癖運動神経はからっきしで体育ではよくミスをしていたが、それさえ自分のミスだと認めずやれこちらのパス回しが悪いだの下手なドリブルのせいだのと文句をつけるような有様だ。
 特に新堂のようなスポーツを得意とし格闘技に熱をあげる不良タイプの生徒を蛇蝎の如く嫌っており、目があった時に舌打ちをされるだけではなく、これ見よがしにため息をつき「お前たちみたいなのが学校の質を下げるんだ」なんて聞こえるように言うのだからどうしようもない奴だと思われてもしかたないだろう。
 当然、クラスメイトからは嫌われ距離をおかれていたし後輩からも慕わている様子もなくいつでも一人で過ごしていた。
 だが当人はそれさえもかまわないといった様子で平然と過ごし、常日頃から「自分はこんな所で足踏みしている場合ではない」「有名大学に行き一流企業に勤め何不自由のない生活をするのだ」と豪語していたのはクラスの誰もが知っていただろう。
 噂だと高校に入学した直後から親しい友人が軒並み不良グループに入ってしまい一年の頃からひどく虐められたため人間不信になったという事だが、死んでしまった今となってはそんな事もうどうでもいいだ。
 新堂にとって吉田は小遣いが足りない時に少しゆっくりと話しをするだけで幾ば金を融通してくれる便利な財布の一つだった。
 最初は嫌みったらしい態度に腹を立てたものだが、顔をちょいと軽く撫でてやったら泣きながらひれ伏して金を渡すようになったのだ。最近は顔をつきあわせ二人で話すだけで勝手に万札を握らせてくれたのだから実に良い財布だったと言えるだろう。
 そんな便利な財布のおかげで金に困る事もなくゲームでもカラオケでも好きなだけ娯楽を楽しむ事が出来る充実の学園生活を送っていた新堂にとって「金を返して欲しい」などと言われたのはまさに寝耳に水の話である。
 新堂は金を寄越せと言った事もなければ無理矢理奪った事もない。
 ただ少しばかり人気の少ない場所に連れ込んで話し合い、話し合いで解決しない時は殴るようなスタイルで筋肉を見せてやれば吉田は泣くほど喜んで金を差し出してくれていたのだ。
 そう、すべて勝手に吉田が寄越したものであり借りた金ではない。
 あくまで善意の寄付を受け取っただけなのだ。
 それなのに「金を返して欲しい」なんておかしいにも程がある。
 しかも吉田は「恐喝された」だの「50万奪われた」だの、まるでこちらが悪いよう糾弾するではないか。しまいには学校に言う、退学になれ、少年院に行けなどと物騒な事まで口に出す。
 吉田からは頻繁に金をもらっていたから実際に50万ももらっていたかは分からない。だが吉田は勉強だけは良く出来ていたし教師の覚えも良かったので素行の悪さで目をつけられている新堂と比べればよっぽど信用されていただろう。
 生徒たちの意見を聞いてくれるのならまだしも、教師だけが判断するのなら本当に退学になる可能性はある。
 あるいは吉田は最初から新堂をハメるために金を渡していたのかもしれない。
 何にせよ、許せる事ではなかった。
 吉田程度の小物が自分の楽しい学園生活にほんの少しでも影を落とすのは気に入らない。50万を返したとしてその後吉田は自分のことをより蔑んで見るだろう。恐喝したと告げ口されれば最低でも停学は免れまい。そうなれば、三年最後のボクシング大会にも出場出来なくなる。
 気付いた時にはすでに手が出ていた。
 中学の頃から格闘技をかじり高校に入ってから本格的なボクシングの訓練を積んできた新堂の拳は新堂自身が思っている以上に重くただ一撃で吉田は動かなくなっていたのだ。
「このままずーっと大人しく俺の財布でいてくれりゃ俺だってこんな風にはしなかったんだぜ」
 埋めた死体に唾を吐き新堂はため息をつく。
 改めて思い返すが、殴った事は後悔していなければ殺した事に罪悪感などもなかった。
 むしろ、従順で大人しい財布の分際で新堂の生活を脅かそうとしてきたその姑息さに腹ばかり立つ。少しばかり可愛がって世間の常識を教えてやるつもりだったのだが、ほんの少し軽く撫でてやっただけで倒れてそのまま動かなくなってしまう脆弱さにもだ。
 吉田が倒れすぐに息を引き取った時新堂が真っ先に考えたのは自首をしようとか罪を償おうといったものではなく、いかにして罪を逃れるかただ一点であった。
 新堂にとって吉田はいらない存在であり、自分にいらない存在を排除しただけで罪になるというのはひどく理不尽だとさえ思っていたからだ。
 幸い、級友であるこの男は他の連中に嫌われていた。
 新堂が少し怒鳴るだけで身体を縮めておびえても誰にも助けを求めなかったあたり、助けてくれる友人がいなかったことは新堂にだってわかる。
 鳴神学園ほどのマンモス校であれば生徒が一人いなくなったところで誰も気にしないだろう。嫌われ者の吉田なら尚更だ。
 そう思った新堂は死体を隠す事にした。
 死体が見つからなければ殺人ではなく失踪扱いで処理され、殺人でさえなければ警察も大きく騒がない。そういった知識だけは心得ていた新堂は普段使われていない旧校舎に死体を隠すと人気のない山中にアタリをつけ誰にも知られぬよう山中へと埋めた。
 一週間が過ぎても校内は普段通りだった。
 吉田は風邪でもこじらせたのだろうと思い気にとめる生徒もなく教師もまた吉田が失踪したとも家出しているとも言いはしない。おそらくだが吉田の家族は世間体を気にする性分だったのだろう。息子が家出したなんて恥ずかしいとでも思い、失踪届は出さず病欠扱いにしているのかもしれない。
 そして半月も過ぎれば誰もが吉田のいた事すら忘れようとしていた。
 これは鳴神学園の生徒数が異常に多いのもあったがそれ以上にかねてより奇怪な失踪や事件、事故による死亡が絶えない学校だったというのもあるだろう。
 消えた生徒は怪異に呪い殺されたなんて噂なら両手足の指すべてで数えても数え切れない程だ。
「吉田のやつ、怪異に呪われたんじゃないか」
「あるかもなぁ、あいつ性格悪いから怪異に楯突いて殺されたんだ」
 生徒の中にはそんな事を言うヤツもおり、新堂はそれを笑って聞いていた。確かに吉田なら呪い殺されても不思議じゃないと思ったからだ。
 新堂が奇妙な噂を聞いたのは、ちょうどその頃だったろう。
 公園に派手な化粧をし汚いドレスをまとった老婆がいる、という話をしていたのはボクシング部の後輩だったか。伸ばしっぱなしの髪がボサボサになった老婆が白塗りの化粧に真っ赤な口紅といった奇妙な風体で公園のベンチに座っていた。服装は安っぽい生地のフリルがついたワンピースにスカートで、きっと頭がおかしいんだろう……。
 その話をした後、後輩の近所に家があるといった連中が「確かに見た」「変なヤツがいた」と言っていたが目撃されたのはその時だけでその後は誰も見ていないという。
 新堂は、きっとその老婆は話しのネタになるとかんがえた。
 乱れた髪で似合わぬ化粧をした老婆など、いかにも怖い噂にもってこいの風貌だ。それに鳴神学園には溢れるほど怪奇のネタがある。
 ボクシング部の部長という立場から他部活や先輩に聞かされた怪談からいかにも面白そうな部分をチョイスし大まかな話の流れを作る。
 奇妙な姿をした老婆、家族を失った悲しい過去、どんなに逃げても必ず追いついてくるスピード、捕まると必ず待っている死……怪談お決まりの流れで組み立てた話は奇妙な老婆の目撃もあって瞬く間に広がり、新堂の知らないうちに「高木ババア」という名前が与えられていた。
 噂を10人に話さないと殺されるとか、足を渡すと生き残れるといった様々な設定が継ぎ足され話しに尾ひれがつくのを見てこれは使えると確信する。
 吉田の失踪も高木ババアのせいにしてしまえばきっと誰も疑わないだろうと。
 この学校には怪異・怪談がとにかく多い。
 学校の校門では飴玉を配る魔女のような老婆が現れ取り壊しの決まった旧校舎では黒魔術の儀式が行われているとよく言われている。そんな中に捕まれば異世界に連れて行かれる老婆の話を混ぜた所で誰も気付かないだろう。
 それに、新堂はその手のオカルト話をするのに長けていた。
 幽霊など到底信じていないような新堂が語る怪談は実体験したかのような凄味があると仲間内でも評判だったのだ。
 噂が広がっていくにつれ、新堂はそれを自分の体験談として語るようになっていた。
 吉田が消えたのは自分のせいだ。自分が高木ババアの話をしたら一週間後に吉田が消えた。自らその話を語るようになったのは自分の話術に自信があるのも勿論だが、疑いの目をそらす目的も少なからずはあった。
 普通の神経をしていれば自分が殺した人間のことを自ら話す奴なんていないだろう。最も、普通の神経をしていればそもそも人殺しなんてしないのだろうがその点で新堂は自分の倫理観が致命的に欠落している事には気付いていなかったのだが。
 そうして、もう三ヶ月は過ぎただろうか。
 生徒は高木ババアの噂について半信半疑といった様子だが、吉田は高木ババアに連れて行かれた犠牲者だという形で怪談の一部に組み込まれていった。
「校内新聞に学校の七不思議を特集することにした。学校に限らなくてもいいから何か怪談話を一つしてくれないか。おまえ、そういうの得意だよな」
 友人の日野から誘われた時、高木ババアの話をする気になったのは校内新聞の記事になれば噂を信じる生徒の方が増えるだろうという打算もあったがそれ以上にあんなヤツの事などもう誰も覚えていないだろうと思っていた油断もあった。
 高木ババアの話はそれほど知れ渡っていた反面、行方不明の級友は急速に忘れ去られていたからだ。
 新堂は怪談のレパートリーが豊富で他にも話せるものはいくつもあるが、今回は高木ババアの話しにしよう。そう思ったのはすでに吉田の失踪に自分が関わっている事など誰も思わないと高をくくっていたからだ。
 よしんば失踪を怪しまれたとしても新堂自身が殺して埋めたなどとは思うまい。
 そう、思っていたのだが。
「その話、少し気になる噂があるので補足してもよろしいでしょうか」
 新堂が話し終えると同時に、一人の男が手をあげた。
 いかにも教室の隅で本でも読んでそうな男であり、普段から頼まれてもいないのに怪談めいた話をしていそうに見えた。明らかにインドア派で日光に浴びたら灰になるのではないかと思うほどに白い肌をしており伸ばした前髪のせいで表情を読み取るのが難しい。
 どこか他人を見下すような態度は新堂が手にかけたあの吉田に似ていたが吉田と比べればよっぽど小柄で美少年といっても差し支えのない顔立ちをしていただろう。
 男は荒井昭二といった。
 新堂より一学年下の生徒だが鳴神学園では同じ学年であっても一度だって顔をあわせない生徒もいるくらいだから一学年離れていれば部活が同じや同じ委員会に所属していた等の接点がなければ顔をあわせる事はない。
 知らない男がいったい何を補足するのだろうと思い深々と椅子に腰掛け荒井を見据えれば、荒井もまたこちらを舐めるように見つめ微かに笑った。
 大丈夫だ、真相など知るはずはない。
 真実を語れるはずの吉田はもうこの世にはいないのだから。
 だが、荒井昭二は知っていたのだ。
 新堂にとって吉田は良い財布であったこと、50万を帰せと迫られていたこと、帰さなければ学校に言うぞと脅され、その後に家出しているということすべてを。
 一体どうしてそんな事を調べる気になったかは知らないが、少なくとも荒井は級友の失踪を怪異のせいだとは思っていまい。
 いや、荒井だけではない。荒井がそれを話したことでこの話を聞いた七人全員が新堂に疑いをもった事だろう。
 まったく新堂にとっては予想外の出来事であり計算違いも良い所だ。疑いを逸らすつもりがかえって疑いの視線を集める事になってしまうとは。
 だがそれを理解した上で、新堂は笑顔になっている自分に気付いた。
 確かに殺したのは新堂だ。
 クソ生意気に楯突いたから軽くひねってやったらあっけなく死んだんだ。だがそれがどうした。糾弾するならお前を殺す。ただそれだけだ。むしろ今すぐその首を絞め殺してやろうか。
 そう思うと楽しくなり自然と笑顔になっていたのだ。
 荒井は新堂と暫く見つめ合った後、微かに笑って椅子へと腰掛けた。
 不釣り合いな荒井の笑みを見て、新堂は幾分か冷静さを取り戻す。
 いや、ここで荒井を殺してしまうのは逆効果だ。
 吉田は孤独な嫌われ者だったからこそ殺されても気にとめるヤツなどいなかったが荒井もそうだとは限らない。吉田と比べても明らかに知性を感じる所作からして頭の回転は早いだろう。
 妙な動きをして目立ちたくはない。
 暫くは高木ババアの噂を隠れ蓑にして堂々としていればいい。
 それに、たとえ新堂と吉田の関係が露呈したとしても死体が見つからない限りは事件にはならないのだ。勘ぐられてもしらを切ればいい。
 吉田の家が今になっても失踪届を出していないのは知っているし、探そうとされていない男について警察が捜査するはずもない。 逮捕されない自信もあったし、逮捕されたとしてもまだ学生だ。さしたる罪に問われない。
 おびえ、恐れる必用などない。
 新堂は狩られるのをおびえて待つだけの獣ではないのだから。

 それでも死体が見つかればやはり事件にはなるだろう。
 埋めた場所は自分しか知らないが万が一という事もある。
 だから新堂は確かめにきたのだ。
 かつての級友がまだきちんとその場で死んでいるかどうかと、死体がきちんとその場にあるかをだ。
 うんざりする程の山道を歩き、腕がこわばる程に穴を掘り確かめたが死体は変わらぬ場所に埋められている。以前と違うのは腐りかけひどい臭いになっている事くらいか。深く掘ったのも幸いし獣などに食い荒らされる様子もない。
 だが臭いはあまりにもひどく、近くまで来た時に腐臭が漂う程だった。
 いくら人気がない山奥で山道もなくハイキングコースでも何でもないような場所でもこれだけ臭いひどければ異変に気付く者もいるだろう。
 荒井の真意は不明だがあの場で新堂を挑発したその意図も気になる。
 掘り返したついでにもっと人目のつかない場所に埋め直すべきかと考えるが、穴を掘るためにあまりに力を使いすぎた。このまま埋めてしまってもいいか。
 考えあぐねている新堂の思考を断ち切ったのは、おおよそこの場には不釣り合いな男の声だった。
「なるほど、こんな所に隠していたんですね。ここは町外れで道もない……よくこんな場所を知っていたものです」
 驚き顔をあげれば、穴の上からこちらを眺める荒井の姿があった。
 いったい何故、どうしてこの場にいるのかは分からないが新堂にとって最悪のタイミングであったのは間違いないだろう。
 相手はまだ穴の上にいる。この周辺に何があるのかおおむね把握しているが穴を這い上がってから追いかけるとなれば多少のタイムラグが発生し逃げられる可能性もある。
 それに、荒井がわざわざ姿を現したのも気になった。
 死体を見たというのに荒井は逃げる様子もなければ怯えた声でもなく落ち着きすぎるくらいだが故に何を考えているのか分からない。
 新堂の秘密を暴いて何をしたいのだろうか。
 弱みを握ってこちらを脅すのだとしたら人気の無いこの場所で姿を現すのはあまりにも無防備だ。死体を見れば新堂が邪魔だと思った相手ならすぐに殺してもかまわないと判断する人間なことくらいはわかるだろう。
 かといって正義のために警察へ行くというようにも思えない。
 それをするのならば黙って写真でもとるかこの場をしっかり覚えておき後で警察に話しをすればその方がずっとスムーズだからだ。
 生前の吉田と面識があり親しくしていたというのは一番あり得ないだろう。
 吉田は到底後輩に好かれるタイプではなかったし人付き合いに熱心だったことも部活に打ち込んでいたこともない。命がけで探しだそうとする献身的な後輩がいるとは思えなかった。
 だとすると、荒井は個人的な興味を満たすためにここに来たのだろうか。
 それでこそあり得ない想像だが、集会で見せた荒井の態度からは「こいつならそれくらいするだろうな」というのを新堂は頭ではなく実感として理解していた。
 荒井は好奇心を満たすためなら自分の命に危険があったとしてもそれに飛び込んでいくタイプの人間だ。自身の好奇心を満たすためになら毒の入った杯を飲み下すだろう。
 新堂は吉田を殺したのだろうか。
 殺したのだとしたらどこに隠しているのだろうか。
 自分が殺した相手の噂を流す心理とは何なのだろうか。
 そういった興味を満たすため、わざと新堂が動くように仕向けたのだろう。
 あり得ない程馬鹿げた理由だが荒井という男にはその馬鹿げて狂った行動が一番似合っていた。
 だが知られた以上、簡単に返す訳にはいくまい。荒井だってそれを覚悟しているだろう。好奇心猫を殺す。この言葉の意味がわからぬほど愚かではあるまい。
「どうした荒井。こんな所までハイキングとはご苦労なこったな。ライトもない夜の森散策はなかなかにスリリングだったろう」
 新堂はそう言いながら笑っている自分に気付いた。
 殺してしまおう。いや、殺してしまいたい。
 同じ年頃の学生たちと比べてもやや小柄で華奢な荒井の白い首は新堂の両手に収まる程度の細さに見えた。あの首を思いっきり締め上げて蒼白の肌が紅潮していく姿を見るのはきっと楽しいだろう。
 吉田の時はあまりにも軽く撫でただけで死んでしまったから楽しむ余裕はなかった。
 だから荒井はもっとゆっくりと可愛がってから死に至らしめたい。
 自分の知るありったけの暴力と責め苦とで心が折れ完全に屈服させるまでの仮定をじっくりと楽しみたい。
 そんな事を夢想し、新堂ははっきりと自己の欲求を悟る。
 そうだ、自分は何よりも従順な存在を傍らにおいて屈服させるのが好きなのだ。
 少なくとも吉田はそうしていた。そうなるように言葉と暴力で上手く躾けていたつもりだったが突然牙をむいたのだ。
 飼い主に噛みつくような害獣は処分するのが当然だ。それが飼い主の役目なのだから。
「えぇ、ひどく苦労しましたよ……明かりもなくあんな道よく歩けますね。見失わないようついて回るのは大変でした」
 荒井はそう言いながら穴の中へと降りてきた。背中には登山でもするような大きめのリュックが背負われている。思いがけず近づいてきた荒井の行動の意味を新堂はまだ推し量れないでいた。
 新堂は殺人に躊躇ない。
 本当に邪魔だと思ったら手にしたスコップで一撃食らわせ仕留める自信はある。
 だがすぐに殺してしまうのは惜しいから今は黙って荒井を見ていた。
 今度こそもっと上手く飼い慣らしてやりたい。
 そんな欲求が肥大してきたのは勿論あるが荒井の意図が見えなかったのも多分にあったろう。
「最初にあなたを見たのは1年の頃でした。あなたは以前から吉田さんのように他人を見下し自尊心は高く孤独である人間を何人か従えてましたよね」
 新堂はスコップの柄にもたれながら荒井の言葉を聞く。
 その通り、新堂が財布代わりにしていた生徒は一人や二人ではなかった。1年の頃から臆病なくせに自尊心ばかり高い嫌われ者の生徒を恫喝し都合よく扱っていた。
「従えてた、か。ははッ、そんな王様みたいな言い方やめろよな。ちょっと可愛がってやってただけだ。特別に目をかけてやってたんだぜ」
 だがそれを悪い事だとは思っていなかった。
 新堂が声をかけるまでは学校内で態度ばかり大きく他の生徒に迷惑をかけてばかりの優等生ヅラをした問題児たちは新堂に絡まれるようになってから素行はよくなりすっかり大人しくなる。
 その生徒一人がいたためにギスギスしがちだったクラス内の雰囲気はずっと良くなり男子生徒には悪態を、女子生徒にはセクハラまがいの物言いをしていた生徒の性格がずっと大人しくなるのだからむしろ慈善事業をしているような気持ちさえある。
 悪びれる様子のない新堂を、荒井は舐めるように見つめる。
 それは集会で初めてあった時に新堂へ向けた視線に似ており、まるで全身を眺め値踏みされているような視線であった。
「で、テメェはこんな場所に何しに来たんだ? まさか死体を見たら満足って訳じゃ無ぇだろ」
 荒井はすでに新堂の間合いにいた。
 大きなリュックを背負っておりその中に切っ先の鋭い武器が隠されていたら分が悪いがこの距離なら荒井が武器を出す前に拳でも蹴りでも暫く動けなくなる程度の一撃を入れる事が出来たろう。当然、知識欲旺盛な荒井がその程度のことに気付いてないはずはない。
 それでもあえて下に降りてきたのは理由があるのだろう。
 様子をうかがう新堂を前に、荒井はその大きなリュックを下ろすと一息ついた。
「では……新堂さん、何から始めますか?」
「始めるって何をだ?」
「死体の解体ですよ。新堂さんもここに来て死体が思った以上に腐臭を放っているのは気付いているでしょう? 気付かれないうちに始末して、別の場所へ埋め直しましょう」
 荒井は驚くほど冷静に告げる。
 新堂が人殺しだという事を知って、目の前に腐りかけの死体があるのも目の当たりにしてもなお落ち着き払った様子にますます興味を引かれた。
「なんだお前、死体を埋めてみたいから俺についてきたのか」
「いえ……そういう訳では。ですが、新堂さんについて行けば死体があるのは分かっていましたので……処理をしやすいように色々と取りそろえてきましたから」
 荒井はそう言いながらリュックの中から様々なモノを出す。
 ノコギリや牛刀など何につかうかわかりやすい刃物や工具の他に、何かしらの薬剤名が書かれたボトルもいくつかあった。
「思った以上に死体の傷みが早いですね……腐臭がひどいですから、マスクを。使い終わったマスクは後で吉田さんの衣服と一緒に燃やしてしまいましょう。服は下手に残しておくとそこから身元が割れますから」
「あぁ、そうだな……」
「臓腑はここに埋めておきましょう。今も半ば腐ってますから、このままでも自然に還るはずです。あぁ、骨から肉をそぎ落としたら僕に回してくれますか。もう少しだけ死体を綺麗にしておきます」
 死体を前にしても荒井は顔色一つ変えず処理を続ける。
 腕を切り落とすのも足の股関節を外すのもまるでプラモデルを分解する程度の感慨しかないような態度は相変わらず何を考えているのか意図が見えなかったが、それがいっそう新堂の興味をそそった。
 やはり、従えたい。
 知性に絶大の自信をもちそこの無い好奇心が自制できないこの男を自分の手で躾けてやる事が出来たらどんなに楽しいだろうか。
 こいつは今まで頭を踏み潰し唾をかけ従わせてきたような生徒たちとは違う。もっと上等な原石だ。
 新堂の中で欲望が肥大する音が聞こえる。
 荒井はどれだけの暴力に耐えられるだろう。恐れや恐怖という感情を前にどんな顔をして狼狽え許しを乞うさえずりはどれだけ美しいだろう。
 ひどい腐臭の中で死体一つがどうでもよく思える程度には魅力的な男だった。
「……僕に興味があるんですか、新堂さん」
 その時荒井は振り返ると微かに笑って見せる。
 闇の中に小さなライトしか置いてない状態であったがその笑顔は蠱惑的でますます新堂の欲望を膨らませた。
「そうだな……テメェが何で俺を手伝う気になったのか……共犯になってまで死体を片付けようとしてるのか、正直意味が分かンねェが、分かんねぇからこそ興味がある。おまえ、何を考えてんだ?」
 興味がわいているのは事実だ。下手に隠しても仕方ないだろう。素直な気持ちを告げれば、荒井はまた死体を解体しはじめた。
「僕も新堂さんに興味があったんです。あなたなら僕を支配できる。あなたもそう思っているのではありませんか?」
 細い骨が潰れてひしゃげる音がする。
 新堂は荒井の所作を見て自分の手元に置き丁重に躾けてやりたいと思っていた。だが荒井の方もまた新堂に支配され従いたいと思っているとは、何という偶然だろう。
 いや、偶然ではない。きっとこれは必然だ。
 お互いに似た欲求をもつ人間が自分の理想を求めて世界を観測すれば自然と求めた結果なのだ。
「一年のころから知ってると言いましたよね。あなたは他の生徒を小間使いのように従わせ、僕はそれを見てずっと歯がみをしてました……僕であればもっとあなたに従順でいられる。そしてもっとあなたを良き主人になれると……」
 荒井は血濡れた手を手袋を捨てると、新堂へと向き直る。
 微かな明かりの下、その顔は妖艶な笑みが浮かんでいた。
「だからどうぞ、この僕を存分に使い潰してださい。僕はあなたのためにならどんな汚れ仕事もやりますし、死体の一つバラす事なんて造作もないですよ。多少は運動もしてましたから、吉田さんのように簡単に壊れたりはしません。どうです、僕を……躾けてみませんか。そうすれば僕もあなたを良き主人として導いてみせますから」
 あぁ、やはりそうだ。
 この男は狂ってる。
 自分と同じように根底から狂っていて、自己中心的で身勝手なエゴイストだ。
 だが狂気の沙汰にあろうともその提案は魅惑的であった。
「そうか、だったら死んでくれ。荒井」
 新堂は躊躇いなく荒井の首を絞める。
 突然伸びた手に一瞬驚いて見せるが特に抵抗をする事なく、荒井は新堂の腕を撫でた。
 蒼白の肌が紅潮し苦しみから目が飛び出る程に見開かれる姿は暗がりで何も見えないはずなのに何故か新堂の眼前に鮮やかに描かれる。
 殺してしまいたいほど厄介な秘密を握られているのは間違いない。
 だが暗がりで殺すには惜しいほど荒井の容姿は美しかったし、このまま絞め殺してしまうのは惜しいとも思っていた。
 いつか殺してやるにしても苦しみ悶える姿がはっきりわかる場所がいい。
 殺すなら死ぬまでの姿をあます所まで眺めていたいし、できるだけ長く楽しんでいたい。
 吉田の腐臭漂う土の上なんかで殺してしまうのはあまりにも惜しい。
 様々な思いから自然と力が抜けていき手を離せばその場に膝をついた荒井はひどく咳き込みそして新堂を見た。
「……殺さないんですか、死んで欲しい程度には今の僕のことが邪魔なのでは」
「そうだな……だが、ここは暗すぎてもったいねぇ。お前だって、俺に殺される時はちゃんと最高の顔して悶え苦しみ肌が避ける程身体中をかきむしって無様に死ぬ姿を見られたいんじゃ無ぇのか」
 荒井は少しむせ込みながらも立ち上がると、小さく頷いて見せた。
「よし、じゃ、とっととこの臭ェ死体片付けるぞ。手伝え、荒井」
「はい、新堂さん。大丈夫ですよ、あなたの手を煩わせるようなマネはしませんから」
 荒井はそう言い、新堂と並ぶ。
 腐臭漂う穴蔵の中で、互いの腕と肩とが触れあうほど寄り添う二人は狂気の渦に捕らわれていただろう。
 だがそれでも、二人は笑顔を浮かべていた。
 おおよそ正気でない欲求をもつ二人にとって狂気を許される存在こそが幸福そのものだったのだから。