紅い絵蝋燭のような人魚


  珠のように滲む指先の血を新堂誠の鼻先に突き出すと荒井昭二は悪戯っぽく笑って見せた。
「さぁ、口を開けて……舐めてください。あなたが傷つけたんですからね」
 差し出された指は蝋のように艶やかで紅い血の色はさながら絵蝋燭に描かれた花のように見える。ぷっくりと珠のように丸くなった紅い滴は血だと分かっているのに甘やかな香りが漂っている。
 それが荒井の血だからいかにも美味そうに見えるのか、それとも新堂自身が内心で人の血肉を求めるような獰猛さが秘められていたのか判別はつかなかったが、その血は艶やかで香しく、荒井に舐めろと言われずとも口に含んでいただろう。
 指先を少し舐ればその血はまるで濃厚な蜜のように甘く舌の上を転る。普通の血であれば錆のような臭いを漂わせ味もまた鉄を舐めるようなものなのだが、荒井の血はまるで上等の砂糖菓子のように美味であった。
 あまりにも芳醇な味わいからつい耐えきれず貪るように指を舐る。わずかに針を刺した程度の小さな傷ではさして血が出ない事など分かっていたが一滴残らずその血を吸い出してやりたいと思うほどその血は美味しかったのだ。
「新堂さん、僕は美味しいですか?」
 散々指を舐らせた後、荒井は妖しく笑う。それは一心不乱に指を舐る新堂の様子がおかしくそして愛しいかのようだった。
 どうして荒井の血はこんなにも甘いのだろう。そんな疑問すら彼方へ行く程の味わいがまだ舌の上に残る。
「あぁ……お前の血は、えらく美味ェ……だがどういうコトだ? この味……」
 新堂が荒井の指から唇を離せば涎が名残惜しそうに糸をひいていた。 荒井の中にすべてを飲み干したくなるほどに美味い血が流れているのだと思うと、新堂の心がざわついてくる。
 だが人間の血はもっと錆臭い鉄の味がするのではないか。少なくとも新堂の血はもっと錆のようなにおいがするし味もほとんど感じないのだが、どうして荒井の血はこんなにも美味いのだ。それに、荒井の身体も少しおかしい。今しがた傷つけたはずの指にある傷はもう塞がりかけているのだ。そう思っているうちにすっかり傷が消えた自分の白い指先を眺め、荒井は一つため息をつく。
「さぁ、どうしてでしょうね? 僕にも理由ははっきりとわからないんですが、僕は人よりも傷のなおりが少しばかり早いのです。そして僕の身体は人間の舌にはどうにも美味しいと感じさせる部位が多いのです」
 荒井は自分の服を脱ぎ新堂の前へ肌を晒す。日に当たってないせいか妙に白い肌はこれから大人になろうとする少年の体つきであり、うっすらと筋肉が付きはじめてはいるものの手や胸などはいかにも柔らかそうであった。
「新堂さん、僕を味わってみませんか?」
 肌を曝け出し、荒井は挑発するように笑う。 その言葉の意味を新堂は計りかねていた。
 味わうとは、いくつかの意味があるだろう。
 今しがた傷ついた指先を舐り血の味を確かめるのも味わうことだ。荒井の白い肌を存分に引き裂いて蹂躙し身体いっぱいに自分の所有物である証をつけるのもまた征服を味わうという意味になるだろう。また、その身体に己の身体を楔のように穿ち情欲を貪って絶頂に打ち震える呼吸と声を楽しむのもまた身体を味わうと言えよう。
「どういう意味だテメェ……」
 荒井は新堂に何を、どこまで求めているのだろう。 このまま許されてしまえば全て欲してしまう貪欲な獣を理性で抑えながら新堂が問えば、荒井は相変わらず涼しい顔をして笑っていた。
「そのままの意味ですよ。あなたの抱いた味わうという言葉の意味全てを、僕で試してみては? 僕はあなたになら食べられてもいいと思っていますからね」
 荒井の真意は見えてこないが、食べられてもいいという一言は元より乏しい新堂の自制心を破壊するのに充分だった。白く華奢な身体を勢いよくベッドへ押し静めると首筋に強く噛みついて、それから後のことは新堂もよく覚えてはいない。
 恐らくだが言葉通り身体全体を貪り尽くしたのだろう。
 身体中を噛み、背に爪をたて、喘ぎ声をもらしてのけぞる唇を強引に塞ぐ。 裂けた肌からは真新しい血が流れそれを舐ればその血はやはり濃厚な蜜のように甘く舌の上に転がり喉の奥へと落ちていく。
 声を我慢し唇をかみしめる荒井の姿も、耐えきれず泣きながら喘ぎ声をあげ身体をビクビクと震わせる姿も何とも言えぬ程に官能的で新堂の支配欲も加虐欲も心地よく刺激されさらに激しく加速していった。
 何度目かもわからぬ絶頂の後ベッドに横たわる荒井の姿を見て新堂が我に返った時、荒井の身体はすっかり血まみれになっていたのだ。
「おい……大丈夫かよ、荒井……」
 濃い血のにおいに包まれどこか朦朧としながら、新堂は荒井の身体に触れる。男にしては華奢で薄っぺらい旨はあちこちが非道い噛み傷だらけでありその全ては新堂がつけた傷だった。もっと血を味わうため噛みつき血をすすって、血が出なくなったらまた噛みつくを繰り返した結果、荒井の身体中に歯形がはっきりと残っていた。
 いくら何でも血が流れすぎている。シーツには白濁した液体と血の紅が混じり薄紅色となって広がっている。人間はある程度血を失うと死ぬのだというが荒井は大丈夫なのだろうか。
「死んでねぇよな……」
 恐る恐る触れれば、まるで水の中にいるかのように荒井の肌は冷たかった。死んでしまったのではないか。あわてて胸の音を確かめればトクン、トクンと心臓が脈打つ音が聞こえる。身体こそ冷たいがどうやら生きてはいるようだ。
 その安堵から新堂は一つため息をついた。
「僕を殺したかと思いましたか?」
 胸から耳を離せば、荒井が話しかけてくる。その目はどこか夢見心地で心ここにあらずといった様子だった。
「おぅ……生きてるならさっさと返事しろっての。俺は加減が出来ねぇからな。お前が変な挑発するから、勢い余って殺しちまったかと思ったぜ」
「そう思ったのなら、起こす時は口づけなのでは? ほら、おとぎ話ではよくあるでしょう。死んだと思った眠れる姫を起こす魔法の口づけなど……貴方には存外に似合いの方法だと思いますよ、王子様」
「嫌味かそりゃぁ? 俺と王子なんて世界一違う生き物じゃ無ェか。だいたい、おとぎ話とは無縁のようなお前がよく言うぜ」
 新堂は呆れた様子を見せるが、キスで目覚めさせるというのは悪くないと思い直しまだどこか呆けた様子の荒井と唇を重ねれば、荒井は嬉しそうに新堂の舌や唇を舐りそのキスを楽しんでいるようだった。
 慈しむようなキスに興じながら、いつから荒井とこうしてキスをし肌を重ねるのが当たり前になっているのだろうと新堂は考える。
 それはつい最近な気もするし、ずっと以前からのような気もした。
 抑えきれない焦燥と自制できない暴力に突き上げられるまま、欲望を満たすかのように相手の身体を蹂躙し支配する。そんなどうしようもなく倒錯した性を全てを初めて受け入れてくれたのが荒井であり、荒井の身体であったのは何とはなしに覚えているがそれがいつからかはもう忘れてしまっていた。
 だが、誰かに支配され押さえつけられ暴力により傷つけられた痛みすら愛おしいと思う荒井の歪んだ愛情は暴力衝動を抑えられぬ新堂のもつ歪な欲望とぴったり合致していたのだから、二人が寄り添い傍にいるようになったのは必然だったと言えよう。
 生まれ持った性分は他人から見て異常であればあるほど選べる相手は少なく、数少ない同志に出会えた時はより深く結びつくのだ。
 だから荒井の身体を傷つけ血を舐るなどいまさら恐れる事でもない、当たり前の暴力だった。これまで荒井の身体から出るエキスを浴びる程注いできたのだ。汗や精液が血に変わっただけなのだから、大きな変化ではない。
 だがそれでも今日味わった血はいつもと違う気がする。
 元々荒井の精液は薄いような気がしていたが体質的なものかと思っていたのだが、血が蜜のように甘く香しいというのは単なる体質とは違うだろう。まるで彼の血肉が洋菓子で作られているかのように思える程に美味だったものだから、普段よりつい強く噛み、その血を啜るなどしていた。
 これではまるで吸血鬼か、あるいは食人鬼だ。
 新堂はそんな事を考えながら、血で濡れた唇を拭う。これでもなけなしの理性で精一杯我慢をしたのだ。もう少し荒井の肉が柔らかければかみちぎって肉を喰らっていたかもしれないと思うと不意に非道く恐ろしい心持ちになる。
 新堂は自分が倒錯した性をもち倫理や道徳など飛び越えた領分にいるのを理解していたが、それでも人の肉を喰らうことがいかに非常なことだか理解しているつもりだった。
 一方の荒井は血に濡れた自分の身体からにじむ紅い液体をぬるぬると指先に塗りつけ、蕩けたような視線を向ける。散々と与えられた痛みと窮屈なほどに貫かれた身体の快楽がまだ残っているのか、その目は新堂を見ているようでまたどこか別の所を向いているように見えた。
「おい、大丈夫か荒井……」
 不意に黙り込むと荒井は虚ろな目のまま脱力する。白い首筋を晒す荒井の身体に残る血は固まりはじめていた。急に黙り込む彼の様子から、やはり死ぬほどの痛みを与えていたのではないかと。このまま目を閉じたら死んでしまうのではないかといった不安がじわじわこみ上げ、抱き起こすために新堂は荒井の身体へ手を伸ばす。すると荒井は彼の指先へと突然噛みついたのだ。
 痛いと思って手を引っ込めたが指先にはじわりと血がにじんでいる。
「何すんだ、テメェ……」
 鋭い視線で睨めつける新堂を前に、荒井はまたどこか悪戯っぽく笑って見せた。
「すいません、散々噛みつかれたから少しばかり仕返しをしてみたくなりまして……あぁ、でも血が出てしまった。どうか……僕に舐らせてくれませんか、新堂さん……」
 そして微かな吐息を漏らし、愛おしそうに新堂の手を握る。小さな唇からやけに紅い舌が伸び、彼が何かを言うより先に裂けた傷を舐り始めた。
「ん……新堂さんの味……」
 ぴちゃぴちゃと無心で指をしゃぶりながら恍惚の表情を向ける荒井の肌はいつもより一層白く、長い睫毛がやけに艶めかしく見える。
 本当に、顔だけ見ていれば少年なのか少女なのか判別出来ないほど秀麗な顔立ちだ。 人形のように整っているといえばその通りだろう。だが人形にしてはあまりに破棄がなく表情も乏しい。そういう意味で荒井の顔は人形より人間味がないだろう。
 新堂はそんなコトを思いながら荒井の口へと少し乱暴に指を突っ込んでいた。
「がっ……んっ、ん……」
 口の中をかき回せば苦しそうな表情を見せ、その表情を見るとやはり荒井も人間なのだと安心する。
 荒井はどれだけ苦しみを与えても新堂に対して忠実であろうとし賢明に指を舐ろうとする姿は執着と献身の入り交じった思いから出た行動だったろう。喉の奥まで指を入れても吐き出そうとせず涎を垂らしたままでも舐ろうとする姿は新堂の支配欲を大いに満たし、それは指を少し噛まれたくらいどうってことない痛みに思えた。
「もういい、荒井。充分だ」
 ひとしきり彼の小さな口を指で弄べば滴る涎に鮮血が混じる。
 噛まれた傷は思ったより深かったのか、まだ血が止まってはいなかった。だが些細な傷だ。水で洗って絆創膏でも貼ればいいだろう。
「……血、止まっていませんね」
「ん? あぁ……まぁすぐ止まるさ。たいした傷じゃない」
 新堂は自分でも傷を舐る。荒井の唾液がまだ残っているせいか、指先は水飴を少し付けたようなほのかな甘みが残っていた。
 あぁ、それにしてもどうして荒井の身体はこんなにも美味しいのだろう。
 世の中にある美味いものを全て煮詰めたような味と香りを秘めている。普段はそれを服で隠しているのだろうがその血肉はこんなにも美味なのか。
 人間というのは実は美味い生き物なのか。それとも荒井が特別なのだろうか。
 ぼんやりと考える新堂を前に、荒井の声が聞こえた。
「やはり、これくらいでは新堂さんも……僕のようなものには、なってくれませんか……」
 僕のようなものには、なってくれないと、荒井は確かにそう言った。
 どういう意味だろう。
 僕のものになってほしい、であればわかる。独占欲でありあるいは愛情からくる言葉だ。だが僕のようには、はそういっt感情とはまた別の思いからくるものだろう。
 自分と荒井では歳も体格も違うし性格に関していえば正反対だ。荒井が自分のようになるのもまた自分が荒井のようになるのも無理な話だし、お互いに違うからこそ引き寄せられたのではないか。
「どうした、荒井? ……俺はテメェみてぇにはなれねぇコトくらいわかってるだろう」
「あぁ、聞こえてましたか。えぇ、そうなんです。そうなんですけど……ね」
 そこで荒井は柔らかに笑う。
「そうなんですけど……このままずぅっと、一人で生きていくのはやはり寂しいじゃないですか。だから……新堂さんも僕みたいになってくれればいいなんて、少しだけ思っているんですよ」
 そうしてベッドの上に座りシーツを身体に巻き付けた荒井の姿はさながら人魚のようだった。
 丘に打ち上げられたまま身体の自由がきかずじっとその場でうずくまる人魚のような美しさとか細さと異質さをまとっていた。
 ……あぁ、そういえば七不思議の会合で荒井は以前なんの話しをした?
 人魚の肉を喰らったという話をした奴がいたが、あれが荒井だったのだろか。
 だがあの会合での話はただの与太話だ。新聞部の企画で新人の新聞部員でありとびっきりに怖がりだという坂上を怯えさせるために作った、でっち上げの怪談だろう。
 荒井の話は荒唐無稽でおおよそ事実だとは思えない。
 東北の人里離れた牧場だとか、そこで働く素性の知れない男たちだとか、田舎道にあるトマト畑だとかはやけにリアリティのある語り口だったが、食らった肉が実は人魚の肉だったなんて流石に出来すぎというものだ。
 あの時荒井は、人魚の肉が口のなかで雪のように溶けていくほど柔らかで美味だったと語った。生臭い訳でもなく、こんなにも美味い肉があるものかと驚いたほどだと。
 それらの感想はまさしく今、荒井の血を啜った新堂の感想と同じであった。今日散々としゃぶりつくしたあの甘やかな血の味は獣臭いこともなくただ、甘さと香しさで新堂の舌を喜ばせた。
 人魚は不老不死の呪いをもつといい、だがその人魚は呪いの効果が尽き果てて死んだのだと荒井は言っていた。不老不死の呪いというのは永遠の効果がある訳ではなく、それ故に人魚は死んでしまったのだと。
 面白い作り話だと思ったが、学校の怪談としては随分突飛な話をするものだと聴いていた時の新堂は内心思ったものである。
 だが坂上はあのあと、奇妙なことを口走っていなかったか。
『十年前、僕は荒井さんの事を見たことがあるんです。でもそんな訳ないですよね、荒井さんが十年前と同じ姿のまま、今まで生きているなんて……』
 まるで自分に言い聞かせるよう、坂上はそう呟いていた。
 10年前に今の姿をしているなら荒井はもう30近い歳になる。だが彼の身体はまだ大人のものではなく、その肌の柔らかさも艶やかさも少年の肌に近い。
 こんな身体をしているのにすでに成人しているとはどうにも思いがたいが、彼が本当に10年前から今の姿をしているのだとすれば人魚の呪いはまだ残っていて荒井の身体を蝕んでいるのではないか。
 年を取るのをわすれさせ死ぬことすら叶わない無間地獄を彼の身体に与え、永遠の少年でいる代償としてその血肉を人の舌に美味しいと思わせるような呪いを授けたのではないか。
 そうだとすれば、荒井が新堂に「自分のようになってほしい」と願った意味もわかる。それまで誰にも呪いを告げず一人で背負って生きていたが、一人でいるのは寂しいことだ。
 隣に誰かいて欲しいと思うのは人間として当然で、新堂にもこちら側に来てほしいと願っているのではないだろうか。
 そうして同じ呪いを受け、二人で寄り添い生きていきたいと。
 年を取った新堂を見送ることはなく、お互い若い姿のままでずっと傍にいてほしいと、そう願うのは当然のことではないか。
 何もわからない。どれが真実でどれが虚構なのか何も。
 だがひとつだけ、今の新堂でも確かに言えることがある。
「おまえがどんな姿をしてても、おまえが何者でも、もう俺が一人にしてやるかよ……」
 誰が何といおうと、自分が一人にはさせない。
 新堂は自らに言い聞かせるよう呟いて唇を重ね、荒井もまたその唇を受け入れ慈しむように彼の舌を舐る。
「嬉しいです、新堂さん。僕が言っても信じられないかもしれませんけど……あなたの思いが、愛おしい……」
 荒井は新堂の頬を撫でると、微かに唇を開く。
『だからこそ、一緒に年を取るコトができたらどんなに幸せだったろう』
 唇がそう動いたように見えたから、新堂はその言葉を飲み込むようにまたキスを続ける。
 荒井の身体いっぱいに付けられた噛み傷はすでに治りその肌は元通り蝋を塗ったかのような滑らかな白さを取り戻していた。