誤解と反動

「新堂、部が終わってから話したい事があるから少し残ってくれるか」
 ボクシング部顧問である植野裕樹にそう声をかけられた時、新堂誠は自分の行いを振り返っていた。
 正直なところ素行の悪さには自信がある。酒や煙草といったわかりやすい違反はしていないが校則破りは日常茶飯事だったからだ。
 それでも植野はよっぽどの事がない限り生徒を呼ぶような事はないという事を、新堂はよく知っていた。喧嘩をするな、校則を破るな、ピアスを増やすなといった小言は日常的に言われているがわざわざ呼び出して話をしたいと言われるのはよほどまずい事を仕出かした時か、隠していた悪事に気付かれた時と相場が決まっていた。つまり、植野に呼び出されたのなら、知らないうちにかなりマズい事をした可能性が高いということだ。
 とはいえ去年の夏から先輩の後を継いでボクシング部のキャプテンを務めるようになってからは目立った喧嘩はしていないはずだ。気に入らない生徒に難癖をつける事はあるが暴力をふるうような真似もしていない。
 もし自分が問題をおこしたらボクシング部の大会全てがダメになってしまうという意識は短気で手の出やすい新堂でも手を出す前に考える間を与える程度の意識をもたせる、ある種のストッパーになっていたからだ。
 そう考えるとボクシング部の顧問である植野や先代の先輩たちが新堂を部長に指名した理由の一つが暴力沙汰を控えさせるためだったようにも思えるが、そうだとしたら目論見は成功したと言えるだろう。
「何だってんだ? あー、全く思い当たる事なんて無ェぞ。カツアゲだってしてねぇし、ピアスだって増やしてねぇ。喧嘩だって別に他人巻き込むデカイ奴はしてねぇはずなんだけどなァ」
 考えても思い当たる節は何もなく悶々とした気持ちを抱えながら練習を終えると他の部員が帰る頃を見計らって植野は新堂へと声をかけてきた。
「新堂、いま時間はあるな。聞きたい事がある」
「おぅ。わかってる……ここでいいか? それとも場所変えっか?」
「他の生徒は部室に戻ってるからここでもいいだろう」
 ボクシング部は練習こそ熾烈を極めるが終わればすぐ帰宅する部員が多い。
 これは練習とプライベートの時間に緩急をつけ、学生から学業やそれ以外の学生らしい楽しみを奪わないようにするためといった植野の方針であり、他の部員たちは新堂が植野と残って練習場の片隅にいる事などさして気にせず各々片付けを終えるとすぐに帰路へとついていった。
 元々部の顧問である植野とキャプテンである新堂が二人で打ち合わせで残る事も多いので他の部員が彼らの事を特に気にする事もないだろう。せいぜい試合の段取りでもつけているのだろうと思う程度だ。つまり、 二人にとって皆が見える場所で話す方が秘め事を話しやすいのである。
「で、何だよ話って。一応、ここ最近は部長らしく品行方正にしてるつもりだから説教されるような事はしてねぇはずだけどな」
 新堂は頭を掻きながら植野の様子をうかがう。そんな新堂の言葉を最後まで聞き終わらぬうちに植野は新堂の手をとると身体ごと引き寄せた。
「何すんだよ植野! 痛ェだろうが」
「植野先生、だろう? おまえ、このバンテージの下に傷があるだろう。どうして隠してる?」
 少し強い語調で言われ、新堂は苦い顔をする。
 他の部員が来る前にバンテージを巻いて傷を隠したつもりだったが植野は気付いていたようだ。最近は植野の方が早く練習場に来るから見つけられたのかもしれない。
「別にいいだろ、アンタにゃ関係ねぇしな……」
「関係なくはない、お前が何かしていたら部全体の問題にだってなるんだぞ。いいから見せてみろ」
 誤魔化そうとするが植野は頑なに譲らなかった。しぶしぶバンテージをほどいていけば下からくっきりと傷痕が現れる。まだ真新しい傷痕は誰がどう見ても人間の歯形だった。
 実際にこれは噛み傷であることを新堂は知っている。だが別に喧嘩で出来た傷ではない。荒井とベッドを共にした時、昂ぶりをおさえられなくなった荒井がつい噛みついてきた傷痕だ。それも多少は乱暴な事だろうが、この件はお互い合意の上でしていることだ。傷になったのはアクシデントではあるが悪い事をしているワケではないと、少なくとも新堂はそう思っているのだが果たしてそれを説明すれば植野は納得してくれるだろうが。
 そもそも学生の身分であるにも関わらず不健全な性的行為をするなといわれたらそれは最もな話であり返す言葉もないのだが。
「噛み傷だな、これは」
「あぁ、ま、そうだな……」
 傷を暫く黙って見つめた後、植野は長い息を吐いた。
「どうしてこんな怪我をした? 喧嘩の痣や切り傷とも違う、噛み傷なんておかしいだろ。おまえ、誰かを無理矢理脅したりはしてないよな」
 確かにそうだ、ただの喧嘩だったら殴り合いの痣や擦り傷が出来る程度だ。ひどくても瘤になって腫れる程度だろう。だがもし切り傷が残っていたら、それはもうただの喧嘩を越えているだろう。荒事の最中に誰かが刃物を抜いた事になるのだからもはや事件だ。
 それと同様に噛み傷は異常な傷なのだ。相手を無理矢理捕まえたか抑えたして逃げられないようにした時、必死の抵抗で噛まれるというのが噛み傷の出来る大体の原因なのだから。というのは、これは新堂が今まで停学を食らった仲間たちの行動でおおよそ聞いていた話である。
 だから当然、この傷がバレたのなら植野は黙っていないだろうとは想像はしていたのだ。
「何もしてねぇよ……」
 新堂は口でそう言いながら、その言い訳に無理があるのは充分承知していた。誰かに腕を噛まれておいて何もしてないなんて言い訳が通らないのはわかっていたからだ。
 しかも噛まれているのは手首の近くだ。新堂の身長だと少しばかり背の高い女子かあるいは細身の男子を後ろから組み付いたりしなければこの位置を噛まれるはずはないのだし、実際その通りの動作をしていたのだから言い訳も出来ない。 おまけに噛み傷は随分と深いのだからこれではまるで逃げようと抵抗をした相手を無理矢理留めていたようだ。
「何もしてないワケないだろう! ……普通にしていてこの位置に噛み傷をつける理由がない事くらいお前だってわかってるはずだぞ、いったい何をしたんだ? 今だったらまだ間に合う。新堂、正直に言うんだ。いいな」
 植野がそう詰め寄るのも至極当然だった。
 確かに何もしてないワケではないが、正直に言うのは抵抗が大きすぎる。
 魑魅魍魎と胡乱な教師が渦巻く鳴神学園の中でも新堂は植野という教師をかなり信頼していた。それは部の顧問であると同時にボクシング部に入ってからの三年間、不良のたまり場のようになっているこの部で顧問を続け熱心に指導をし、全国大会へ行ける選手を何人も出している手腕を知っているからだろう。
 それに、植野は一般的な教師と比べても話がわかる相手でもあった。
 先生という肩書きにあぐらをかく事もなく何事にたいしても親身になって相談に乗り、どうすれば相手がより楽に生きられるかを常に考える事が出来ているのだから人間としても立派なことだ。
 人当たりの良さや授業のわかりやすさもあって女子生徒にも人気があり恋の悩み相談などもよく受けているのは話に聞いていたから、生徒の間にある赤裸々な体験を聞いたとしても多少の事では動じないのだろうとは想像もできる。
 かといって恋人がセックスの途中に噛みついてきました、なんて流石の新堂でも馬鹿正直に言えるはずがなかった。何とか誤魔化さなければと気ばかりは焦るのだが。
「何もしてねぇって言ってんだろ。植野が心配する事じゃねぇ、これは俺の問題だからな」
 全く誤魔化す事などできず、粗暴で突き放した言い回しはかえって植野の不審を買う。今まで恋人らしい恋人などいた経験もない新堂にとって自分の恋心を隠すことなど一度だってなかったのだから、恋人のために嘘をつくなんて所作が身についているはずもないのだ。
 それじゃなくても新堂は感情が顔に出やすい性格だ。嘘なんてつけないタイプだし、仮にそしらぬ顔で嘘をついてもなまじ付き合いの長い植野ならたちどころに見抜いてしまうだろう。
「新堂! おまえの問題だとしても、おまえの行動は部、全体の問題になる事だってあるんだぞ。わかってるのか? そうじゃなくとも、お前に何かあったら……」
 植野は相変わらず熱のこもった言葉を遠慮なく新堂へと投げかけてくる。
 そこが不良だから、素行が悪いから、見た目がいかにもチンピラだからといった理由で指導しようとしない他の教師やピアスの穴を増やすたびに問答無用で殴ってくる黒木とは違うところであり植野の良い所だとは思うが、今はその熱意がただただ鬱陶しかった。
「わかった! わかった正直に言うよ、言えばいいんだろ」
「……本当か?」
「でもよ……あんまり怒んじゃ無ェぞ……」
「それは、事と場合による」
 新堂はついに根負けし、全てを話す事に決めた。このまま植野に隠し通せるとも思えなかったのもあるし、変に誤解をされて疑いの目を向けられるのなら正直に言ってしまったほうが楽だと思ったのだ。
 それに、荒井からも別に口止めはされていない。「必用な時に、信頼出来る相手になら言っても構わない」というのがお互い事前にしていた約束であり、今は必用な時で植野は信頼出来る相手だろう。
「だから、その。アレだよ……最中に、相手が……ガマン聞かなくて噛んだっつーか」
「おい、何の最中にだ。聞こえないぞ新堂」
「だぁから、セックスの最中にガマンできなくなったって噛みつかれたんだよ! 一回でちゃんと聞いとけバーカ!」
 最初は恥ずかしさで声が上ずってしまいつい小声になったので二度目はつい大声になる。
 その言葉に、植野は暫く何を言ったのか全く理解できないといった顔で新堂を見ていた。
「いや、新堂。セッ……お、おまえ恋人が出来たのか。いや、おまえが? 本当におまえがか?」
「まぁ、そういう事……だよな。俺もまだよく分かってねーんだけど」
「そうか。良かった、な……いや、最近おまえ以前より落ち着いてきてるから安心してたところでそんな傷を負ってきたから何事かと思ったが、そうか……恋人が……」
 植野はその場に崩れそうになるほど安心した様子で長く長く息を吐く。まるで今度こそ新堂が人殺しでもしてきたのではないかと不安だったかのようだ。だがすぐにはっと気付いたように顔をあげた。
「いやいや、良くないだろ! セッ……性的な行為をしてるのか、まだ未成年だろお前はッ」
「何だよ植野、お前だって学生の頃恋人くらいいたんじゃ無ェのか。そういう時、ずーっとガマン出来てたのかよ」
「それを言われるとな……だが、避妊はちゃんとしてるんだろうな。相手が誰であれおまえはまだ未成年だ……快楽を得る目的での性行為は禁止されている、とはいえそれを我慢出来ないという気持ちはわかるが、お前は妙なところで一本気だろう。妊娠させたら責任とる、なんて気持ちで避妊もせず性行為をしているなんて事はないよな」
「避妊……?」
「ちゃんとゴム使ってるか、って言ってるんだ。そのへん、ちゃんとしておかないとお互いの人生に影響を与えてしまう。大事なところだからキチンとしないとな」
 植野のことを生真面目な堅物だと思っていたが新堂が想像していた以上にこの手の話に理解があるようだった。だが確かにゴムを使っているかといわれれば毎回必ずというワケでもない。
 それは荒井と過ごすうちなし崩し的に関係をもつ事が多くつけいる暇がない事もあるし荒井自身が生で欲しがるというのもある。
「言われてみればゴムあんまり使ってねぇかもな……」
「おまっ……ダメだろう、まだ学生だぞ。相手が妊娠したら責任とれる年齢ではないだろうが。そのへんはシッカリしておけ、お前だけのためじゃなく、お互いの……」
「いやでも、妊娠はしねーんだよ。荒井は男だから……」
 そこまで言って、新堂は自分が言わなくてもいい事を告げてしまった事に気付く。いっぽう、植野は目を大きく見開くと力尽きたかのようにその場へと座り込んでしまった。
「お、おい。植野大丈夫か……」
「わ、悪い新堂……先生な、流石に未だかつて無い程の情報量が一気に頭に流し込まれて混乱している。少し落ち着くまで待ってくれ……」
「えっ。あ、あぁ……その、何つーか……ゴメンな。水飲むか?」
「すまん……頂こう」
 新堂が開けてないペットボトルの水を手渡せば植野はそれを一口飲み、幾度か深呼吸をする。
 不良の荒事やイジメなんかにも臆することなく突っ込んでいく植野がまさか自分のせいでここまで取り乱した上、その場に座り込んでしまうほど衝撃を受けるとは流石の新堂も全く予想していなかった。最も、今の状態を新堂自身も予測していなかったし、去年の自分に今の自分が置かれている状態を話せばきっと今の植野のようにその場に座り込んでいたとは思うが。
「……すまん、落ち着いた。つまり、新堂の腕の傷は喧嘩や悪事の類いで出来たもんじゃ無いんだよな」
「まぁな……かみ癖があるんだよ、アイツ。俺もあるからお互い様だと思ってたしこの位の傷なら大会前には治るだろうと思ってたんだけどな」
「恋人が出来たのは……最近の素行や練習態度を見れば目に見えて良い事だと言えるだろう。おまえの成績もボクシング技術もここにきて良くなったからな」
「そりゃ、どーも……」
「だが、その、何だ……相手が男性であっても、やはりきちんとゴムを使った方がいいんじゃないか。ゴムは避妊のためだけではなく、性病の予防のためでもあるからな……」
「いや、でも俺もアイツも基本的に他の相手とはしねぇし……」
「でもじゃないんだよ新堂……だがパートナーが決まっているというのは確かに、不特定多数と交流をもつより安全性は高いのか? ……すまん、そっちの世界は明るくないからこちらもハッキリと断言できん……少し勉強してこよう……」
「お、おう……いや、何か俺も悪ィな……黙ってて……いや、言うと茶化されるんじゃ無ェかと思ったしよ。アイツに迷惑かけるワケにもいかねぇと思って……俺は何言われようがあと半年もすりゃ卒業だが、アイツはまだ一年この学校に通わないといけねぇからな……」
「茶化しはしないさ。だが……お前に恋人が出来るというのも思ってなかったし、お前の恋人が男だとも思っていなくて……流石にまだフラフラするが……」
 どうやら新堂の発言は下手なボディブローよりも強烈に植野の身体を打ち据えたらしい。
 さてどうするかと考えているうちに練習場の扉が開き、ボクシング部の部員とは違う生徒が顔を覗かせた。
「すいません、新堂さん……いるんですか?」
「おう、荒井か。悪ィ、ちょっと野暮用でな。植野と話し終わったらすぐ行くから待っててくれるか」
 新堂はその姿を見て、すぐに笑顔で返事をする。
 荒井はこんな時間にもまだ植野がいる事に少し驚いた様子を見せていたが静かに頭を下げると部室の方へと引っ込んでいった。
「あぁ……彼が、お前の恋人か」
「まぁ、そういう事になるのか?」
 新堂の表情も声も普段とあまりに違うほど柔らかだったから植野は全てを察したのだろう。納得したように頷くと静かに目を閉じ呟くように語り始めた。
「確かに彼なら傷の位置も……違和感はないか。それにしても随分と綺麗な顔をしているな……二年生か。少ししか顔を見ていないが美人だな……おまえは面食いだし年上の落ち着いた雰囲気の女性を好んでいたと思うが彼なら年下でも綺麗で落ち着いた雰囲気という点は充分すぎるくらいだ、似合いじゃないか」
 新堂に聞かせる、というより自分に言い聞かせていたような語調だ。一瞬顔を出しただけで随分と目聡いとは思うが、生徒の異変にいち早く気づけるよう普段から観察眼を養っているのかもしれない。
 だが、似合いと言われると気恥ずかしい。新堂は顔を赤くすると自然と俯いていた。
「いや、ホント俺もまだよくわかってねーんだよ。あいつの事どうしてぇのか……恋人って言ってみたけど本心ではアイツがどう思ってるのかもよくわかんねぇし」
 つい弱音のような事を言う新堂を、植野は優しい目で見つめていた。
「何だ、大事にしてやりたいと思わないのか?」
「そりゃぁ……思ってるって、大事にしてやりてぇし、大事だと思ってるけどよ……」
「それなら、大事にしてやればいい。そう思えるのなら、その感情に愛だとか恋だとか名前をつけなくてもいいんじゃないか」
 そして植野はその場に座り込んだまま受け取った水を飲んだ。
「……もう行っていいぞ新堂。その子を待たせるワケにもいかないだろう。まだコッチも全部納得したわけじゃないが、ひとまずお前の良心に任せて様子を見る事にする」
「おう。植野、おまえって思ったより話わかるんだな……」
「あたりまえだ、俺だってこれでもお前の事は信頼してるんだ……だが大事にしろ。噛み癖は何とかしてやれ……首にあれほど大きな痕をつけられるのは、今の時期気の毒すぎる」
 植野に言われ、新堂は荒井の首元に張られた大きなガーゼの事を思い出す。植野が推測する通り、あれは新堂がつけた噛み傷だった。
 新堂は苦笑いをしながら植野へ手を上げれば植野もまた手を上げこたえる。
 そんなやりとりの後、新堂は練習場を出る。
「遅かったですね新堂さん」
 ロッカールームにおかれた長椅子へ腰掛ける荒井の肩に手を触れながら、新堂は植野から言われた言葉を思い出していた。
 大事にしてやればいい。
 新堂は荒井に対して抱く感情が何だか、まだよくわかっていない。友情でないのは確かだが、愛情より執着や独占欲が勝っているような気がしたからだ。それでも大切にしたいと思う気持ちは確かにあるし、噛みついて傷痕を残すのも他の誰かにとられず、ただ自分だけが愛でていたいと思うからだ。
「あぁ、まぁ……悪かったな、すぐ着替える」
「ゆっくりでいいですよ、それより植野先生と何か打ち合わせでもしてたんですか。珍しく、随分と長く話していたみたいですが……」
「うーん、そうだな……」
 新堂は上着を脱ぐと、少し考えてから振り返る。
「おまえを、もっと大事にしてやるって話だ」
 そのこたえに、荒井は首を傾げてじっと新堂を見る。
 一方の新堂は、その視線すら心地よいといった様子で練習着から制服へ鼻歌交じりで着替えるのだった。