普通と呼ばれる家庭に生まれ普通と呼ばれる教育を受け普通と呼ばれる企業に就職する。
興家彰吾は比較的に恵まれた立場ではあったが、周囲の環境からすると普通の青年だっただろう。
子供の頃はテレビを楽しみにし少年野球で汗を流していた。
学生になってからフォークソングが流行りはじめるとすぐさま影響を受けアルバイトに精を出し自分のギターを買い、慣れないコードをおさえながらも一応は音階を奏でる程度の腕前にはなった。
進路は自分の力量でいける一番良いところを選んだし、就職だってそうだ。
勉強においてもスポーツにおいても趣味においても、興家はこれまで一度だって迷うことなく過ごすことが出来ていた。それは彼がその日その時その瞬間で常に最適な答えを選び取る術を身につけていたからだろう。
そして彼はこれからも自分は特に悩み迷うことなく生活するのだと思っていた。
名の知れた企業へと就職し花形でもある部署では若手のホープとして活躍もしている。三年目の今は仕事にもすっかり慣れさらに大きな仕事も次々に任される事だろう。
今のところ恋人はいないが、これから良い女性と出会い結婚もするはずだ。出会いがなければ見合でもいい。手頃な一戸建てを手に入れ子供を育てながら派手ではないが幸せだと振り返れるよう仕事をし定年した後は退職金を元手に妻や孫などと趣味や旅行を楽しむ、そんな人生に恵まれるのだろうという事を一寸も疑ってはいなかった。
自分の周囲にいる同年代の友人たちは大多数がそのように生きるのを当然としていたし、興家自身もそのような選択を続けるのが最も身の丈にあった生活かつ最善の選択だろうと思っていたからである。
もっというのなら、それ以外の人生など選択肢には存在しなかったのだ。
「痛いなぁ、本当に……」
興家は思わず口に出すが満足に言葉にはならず代わりにヒュウヒュウと空気が漏れるような音だけがする。
地べたに倒れ伏し鼻血が流れている。身体中に鈍痛が走り、非道い吐き気もした。痛みを感じるのだからまだ生きてはいるのだろうが、決して良くない状態だというのは強い痛みで理解する。
「おっと、まだ生きてらっしゃいますか。存外にしぶといお方のようだ」
そんな興家を、少し離れた先で見知らぬ男が見つめていた。
彼の前に現れたのはキツネのような顔立ちをした男だった。上等なスーツに黒い革手袋といった姿はおおよそカタギとは言いがたい雰囲気が漂っており、話しかけられた時から危険だというのを肌で感じた。
だからこそ室内ではなく人気の少ない場所へ移動したのだが、まさか自分と似たような事ができる人間だとはまったくの予想外だ。
興家はこれまで自分のように呪術を使える人間と接触したことはなかったのだから。
手品師が使うような黒塗りの杖を手にした男は、暗がりで興家が話をはじめる前に杖を回すと目に見えぬ力を放ち彼の身体ごと吹き飛ばして見せた。
興家の使う呪術は自分の姿を見えにくくするものや、一般的には幽霊と喚ばれる存在と対話するものが多い。RPGでいうのなら回避力を上げるような補助魔法や情報収集に役立つサポート技能が多く、衝撃を飛ばすとか炎を出すといった超能力分野の魔術は一切使えなかったし、そもそもそのような呪術が存在するとも思っていなかったのだ。
だから目の前の男が奇術の世界にあるような術を扱ったのは相当に驚いた。このような技を現実に使う呪術師がいるということも勿論驚いたが、それを他人に躊躇なく使えるということに受けた衝撃は身体の痛みの比ではなかったろう。
相手はまさに殺す気で呪詛を撃ってきており、興家の死などに何ら感慨も抱かないのだから。
「次でオシマイにしましょう。なぁに、痛い事はない、一瞬で終わりにしますからね」
興家は彼の事を知らないが、こんな得体の知れない術を平気でぶつけてくるという事は当然こちらを殺す気なのだろう。
男は誰でも相手にするような殺し屋なのだろうか。それとも興家のような呪術者だけを狩っているのだろうか。
どちらにしても半年前、まだ自分の霊力に目覚めておらず普通の会社員として過ごしていた興家だったら絶対に関わわる事のない人間なのは間違いない。
平穏を貪っていた頃の彼はそのような職業を生業とする輩が本当にいるとさえ思っていなかったのだ。殺し屋など映画か漫画の中にしか存在しないフィクションの話だとしか思っていなかったのだから。
だが今は違う。
自分だっていっぱしの呪術使いなのだからそのような人間がいても不思議ではないと思っていたし、足のつかない殺しがあればそれに頼る人間は当然にいるだろうと考えていたからだ。
自分が狙われた理由も何とはなしに察していた。
どこの時代も新参者が勝手に商売するというのは歓迎されないものである。
目立って相手の領地で荒稼ぎをするような輩がいれば尚更だ。
興家は別に大金で依頼をうけて他人を呪い殺すような呪術師ではなかったが、力に目覚めたばかりで自分がどの程度やれるのか挑戦するつもりで、あちらこちらで無茶をした。それが第三者の目から、調子に乗って少しばかりヤンチャをしている若造にみえても仕方がないだろう。
壊したものがあり、殺した相手もいるのだから尚更だ。
そしてそれは大多数の平穏に甘んじて生きていこうと思っていた彼にとって想像もしていない世界の道理であった。
「あはぁ、強いんだねぇ。あんた、ずぅっとこんな仕事してたのかな」
興家は半身起こすと満面に笑みを浮かべて聞く。
痛みよりも圧倒的に彼の繰り出す術へ感心し、躊躇いなくこちらの命を奪おうとする判断力と殺意の強さには殺されそうになったという恐怖より覚悟の強さに対する賛辞の気持ちが勝っていた。
本当に心からの敬意を示した笑顔だったのだが、それは異質に見えたのだろう。殺しになれているはずの男も一瞬気圧されしたように握った杖を引っ込めた。
「えぇ、まぁ、その通りで。ずぅっとアンタのように厄介な火種を狩る仕事をしておりましたから。いやはや、ですがこの期に及んでアンタのように笑っているような御仁は滅多にお目にかかりませんよ。アンタ、最近までカタギだったとは思えないくらい度胸が据わってらっしゃる」
「そ、褒められてるのかな?」
「褒めちゃいませんよ、あんたは……化け物だ」
つつ、と杖の先端を興家へと向ける。また今もらったような衝撃を与えてくるのだろうかとぼんやりと考えていた。
この衝撃はちょうど車にでも轢かれたようになるから、もし死体で見つかってもひき逃げか何かだと覆われるのだろう。それにしても、一発目を撃ってからやや時間が空いた気がする。恐らくだが連続で撃つのは難しい呪術なのだろう。一定の時間をおかなければ威力のある攻撃は出来ないのは、力を改めて杖に溜めているのか。あるいは呪術を組むのにそれだけ時間がかかるのかもしれない。
怪我の痛みは非道いが、興家は極めて冷静に男の所作を見据えていた。
「そっか……あんたさ、何て名前かな。名前、教えておいてくれない?」
「そんなもの別にいいでしょう? どうせアンタは死ぬんです。テメェを殺す人間の名前なんざ覚えてたってしょうがないでしょうが。冥土の土産にでもするつもりで?」
「いやぁ、だって名前聞いておかないと……墓標に刻む名前がないのは可愛そうだから」
興家はそう言うと、ゆっくり右手を男へと向ける。
これは初めてつかう呪術だ、ちゃんと組めているだろうか。ぼんやりとそんな事を考える興家を前に、男はずいぶん腹を立てた様子でその表情には明らかな怒りの色が見えた。
「アンタみたいな小童にアタシがやられるとでも思っているんですかねぇ? もう虫の息のくせに大層な自信だ……死んで閻魔さんに許しでも乞うがいいさ」
新参の呪術師である興家が粋がっていることがよほど気に入らなかったのだろう。もし男がずぅっと厳しい環境に身を置いて心をすり減らし殺し稼業を続けているのなら尚更腹が立ったはずだ。
だがそれでいい。
もっと怒り、もっと憎み、嫉妬や後悔にまみれて絶望しろ。
そうすることでより上等の呪詛は完成し、呪詛により死んだ魂は上等な素材になり得るのだから。
「試してみたらいいよ。あんたが次におれを攻撃したとき、あんたは死ぬんだから」
男が見せたのは嘲りか怒りか、その両方だろうか。般若の仮面が如く形を変えた顔で杖を振るうとその刹那、とたんに胸を押さえ苦しがったかと思えばあぶくを吹いて事切れた。
男の言う通り、痛い事はなく一瞬で死に至らしめるほどの呪詛が注がれたのである。
「良かったぁ、上手くいったみたいだ」
男が倒れたのを見て、興家は安堵の吐息をついた。 自分の受けた攻撃と相手のもつ負の感情をまとめて心臓に送り込む、そのように作った呪術は福永葉子の使った呪詛に少しばかり手を入れたものである。
一点集中しないと難しいだろうと思ったが、自分なら出来るという確信もあった。もし男が不用意に動いたら外してしまっていたが、留まってくれたおかげで上手くいったようだ。
そもそも一発目の攻撃を受けた時も男はその場を動かなかったからあの術は照準を合わせて当てるのが難しいのかもしれない。
興家はよろよろ立ち上がると男が死んでいるか確認するためつま先で蹴飛ばして確かめた。
動かない。見る限り息もしてないから、もう死んでいるのだろう。 死体に触るのはやめておこう。指紋などつけてしまったら自分が殺したのだと思われると面倒だと思ったからだ。
いや、実際に殺したといえばその通りだが、何で殺したのかとかどうやって殺したのかと聞かれた時に説明出来ないのだから警察沙汰はゴメンだった。
「うー、いたたたた……遠慮なくやってくれちゃったなぁ。病院に行く時なんて言えばいいんだろ……木登りしてたら枝から落ちたとか? うーん……」
興家は一人呟きながら胸元を押さえて歩き出す。
自分を殺そうとした相手だ。殺されても当然だろうし相手だってその覚悟くらいはあっただろう。それに自分は殺意をあるべき場所に返しただけだ。それで死んだのなら相手の殺意が強すぎたせいであり自業自得でもある。あるいは人を呪わば穴二つ、といったところか。
当然、殺すという選択をした事を後悔はしていない。また、振り返り悩みもしない。
常に合理的かつ最善の手を選んだだけのことだから、興家は迷わない。迷う必要などないし、躊躇い悩む必要もないのだ。
「まぁいいか、明日になってから考えれば。うう、傷が痛むから今日はお酒、控えておこうかな……」
興家は静かに笑う。
彼であれば呪術などを隠したまま、平穏に戻り一般的な幸せを手に入れることなどさして難しくなかっただろう。
だが彼はそれを選ばなかった。
毎日が悩み、考えて迷った上で行動し決断しなければいけない呪術とともに生きる日々に自分から飛び込んでいったのだ。
それは以前より遙かに忙しく、以前より多く考え、以前よりずっと沢山の業や責任を負っているだろう。
だがだからこそ、生きているという実感する。
自分と他人の生と死が間近にある場所で極限の選択を強いられる日々を生き延びるというのは、何と素晴らしいことだろう。
命のやりとりをして、肌がひりつくほどの緊張感を得て、自らも決して安全ではない非道い怪我をして、後ろ暗い傷を負う。何て楽しく充実しているのだろう。
興家は自然と笑顔になる。
つまるところ、興家彰吾という男は呪詛に祝福され死と破壊が傍らに寄り添っていなければ生きている実感さえ持つ事ができない、そのような人間であったのだ。
だから彼は笑い、迷う事もなく進む。
人の理からはずれ、怪物と人間の境界線を辛うじて存在する逢魔が時を住処として、いずれくる終わりその時まで。