人魚の虚実


 微かに聞こえる他人の声に急かされるよう荒井昭二が目を覚ます。
 室内は見渡すかぎり清潔感に溢れた白で統一されており、自分が横になっている他にも5つものベッドが窮屈に並んでいた。
 カーテンもシーツも微かなアルコールの匂いに包まれ、リノリウムの床は淡い蛍光灯の色を反射させている。わざわざ身体を起こして確認せずともそこが病室であるのは明白だったろう。
 廊下には慌ただしく移動する看護師の足音や見舞いに来たとおぼしき家族の声が賑やかに響いている中、目の前にいる老人は荒井が目覚めたのにも気付かぬ様子で新聞を広げじっと読みふけっていた。
 ここは日常だ。
 意識を失う前にいた闇と絶望とが入り交じった深淵の狭間ではない。
 つまり、荒井はまた生き残るコトができたという事だ。あるいは死に損なってしまったと言うべきなのかもしれないが。
 その音を認め、自分の無事を確かめて生を実感するにしたがい荒井の身体には思い出したかのような鈍い痛みが襲ってくる。見れば手足には真新しい包帯が巻かれ滲んだ血は赤褐色に変色しべったりと張り付いていた。
 包帯のせいでどのような傷を負っているのかわからなかったが、荒井が思っている以上に状態は悪そうだ。指先を動かそうとして思い通りに動かすことは出来なかった。
 だがそれも無理はないだろう。
 意識を失う前に荒井の覗いた世界は、おおよそ生とは無縁のおぞましい光景だった。人間の理解を超えた恐怖と狂気を前進の穴という穴から注がれ死すら慈悲だと思える程の世界を僅かながらに垣間見たのだから、今こうして生きているだけでも奇跡のようなものだろう。
「……何だ荒井、起きてたのかよ」
 暫くそうして痛みを感じ自分の生に浸っていた荒井の様子に気付いたのだろう、傍らに座っていた男がこちらの様子をのぞき込んできた。
 新堂誠だ。荒井からすると一学年年上の先輩になる。
 髪を金色に染めいくつものピアスをしている新堂の容姿は普段荒井が付き合っている友人たちとは文字通り、明らかに毛色が違う存在だと言えただろう。
 実際荒井はこれまで新堂のようなタイプの人間とはあまり話した事などなかった。
 不良というのは、わざわざ校則を破ってまで髪を染めピアスをし周囲を威嚇するような外見で自ら他人との接触を拒むような輩だ。自分たちと価値観が合致しない相手は暴力をふるい排除してもいいと考えている奴さえいるのだから、そのような連中と歩み寄り話しをしても実のある会話など出来ないだろう。
 そう、思っていたからだ。
 実際に新堂は荒井の想像するような斜に構えた不良そのものだった。比較的に自由な校風の鳴神学園でもしょっちゅう生徒指導教師に捕まって説教をされているというし、反省文の提出も随分と多いとも聞いている。そもそも本来ならもっと立派な進学校でスポーツ特待生として入学することが出来たはずなのだが、中学時代に暴力沙汰が原因で私学を退学させられているのだと聞く。
 自分から学ぶ機会をドブに捨てるなど、学生は勉強が本分であると考えていた荒井からすれば愚の骨頂とも言える行為だった。
 そう思っていた荒井が新堂と親しく話すきっかけとなったのは、日野に頼まれて出た「集会」だろう。
『旧校舎が取り壊される前に新聞部で学校の七不思議を集める企画をしたい。そのため、とびっきり怖い話が出来る語り手に集まってもらおうと思うんだが、荒井も来てくれないか』
 面倒な誘いではあったが断らなかったのは荒井もまたオカルトと呼ばれる世界に造詣が深く、より知りたいと思う好奇心が強かったからだ。
 というのは表向きの理由で、荒井の場合もう少し切羽詰まった事情がある。もはや普通の理由では簡単に死ねないのだから、呪いでも怪異でも何でも、普通ではない理由を求めて死にきれる方法を探さなければいけないというものだが、それは他人に理解されないだろうから口にした事はない。
 今後もきっと誰にも言わず胸に抱えて生きていくのだろう。
 集まった面々に、新堂もいた。いかにも斜に構えた不良といった風体の新堂を見た時はこんなにも取るに足らない人間の典型のような人間が怖い話など出来るのだろうかと疑っていたのだが、新堂の話は確かに恐ろしかったし、鳴神学園の怪談に関していえば格別に詳しかったといってもいいだろう。
 学校の成績こそ芳しくない様子だが、決して頭は悪くないのは語り口からもよくわかる。
 時に怪異を利用して邪魔な生徒を密かに消すような素振りも見えるあたり、普通の人間ならオカルトだといって笑いとばす存在を上手く使っているとも言えるだろう。
 殊更に怪異が多い鳴神学園で、関われば命の危険すらある鳴神学園に潜む怪異をおおよそ把握し実際に目の当たりにしながらも今なお生きながらえている事実からも新堂の狡猾さや判断の早さが優れているのは明白だ。
 また、怪異というものを良く観察し使えると思ったら迷わず利用するといった新堂の悪知恵は、恐怖のなかにある知的好奇心ばかり追求していた荒井にとっては新鮮でもあった。
 同時に彼のように全ての怪異をありえるものだと認識し、現実の明るさと怪異の住む闇との境界線を歩いている人間ならば自分を任せてもいいのではないかと、そう思ったのだ。
 知識を求めるまま深淵をのぞき込み、身体も魂も引きずり込まれるその前に自分を捕まえ引っ張り出して黄昏の逢魔が時に引き戻してくれる人間がいるのなら新堂のようなタイプの男だろうと。
 これは怪異というものを一切信じない現実主義者には出来ない所業だ。
 怪異を信じていないのだから暗闇の向こう側に行ってしまう人間なんて存在しないと思っているのだから、消えた人間が闇に囚われたなど考えつくはずもない。
 かといって怪異を信仰しているような人間にもまた出来ないことだ。
 ひとたび怪異に囚われ深淵を直視したのならばそれはもう人間ではない何かへと変貌したようなものであり、人間を捨てた存在は不自由な人間の器を捨てこちら側に来るよう甘言を用いて誘うばかりとなって決して元の世界へなど戻そうとはしないのだ。
 だから自分を現実に戻す鍵として、人間としての日常と狂気の坩堝にある深淵を両方とも知っている人間が傍にいたほうがいい。
 自分の知的好奇心を満たすため。そして知識を得たまま元の世界に戻る命綱の代わりとして新堂を選んだのは妥当な判断だったろう。
 実際に新堂は引き込まれるほどの闇に落ちそうな時、必ずといっていい程に手を差し伸べてくれた。
 明らかに怪異の潜む領域へと足を踏みいれた時、新堂が危険を承知で闇へと踏み入り連れ戻しに来てくれたことは一度や二度ではないはずだ。
 おかげで荒井の知的好奇心は大いに潤い満たされていた。
 時に連れ戻されるのが早すぎて真理にほど遠い鱗片しかつかめない事もあったが今まではその影すら追う事が出来なかったのだから上出来と言えるだろう。
「えぇ……まぁ。いたんですね、新堂さん」
 荒井は靄のかかったような思考を持て余しながら自分の両手をゆるゆると動かした。足の感覚はまだ無いが指先は何とか動くようになってきた。 少なくとも五体全てを失ったという訳ではなさそうだ。
 そんな彼の姿を見て、新堂は頭を掻き大きなため息をついてみせる。
「いたんですね、じゃ無ぇんだよ……お前が俺を呼んだんだろうが。ど深夜に電話があったと思ったら場所しか言わねぇし得体の知れない音は聞こえてくるし、マジで焦ったぜ……」
 電話をした記憶はないが無意識でコールを押していたのだろう。居場所だけでおおよそ自分の場所を突き止めてくれたのは新堂もまた蛇の道をよく知る人物だからだ。
 怪異の世界に足を踏み入れた人間は、怪異がいる場所や現れる場所をよく知っている。どこにいるのか伝えただけでその中で最も危険でいびつな空間を瞬時に選び出す事が出来る新堂だからこそ荒井を助ける事ができたと言えるだろう。
 新堂はバイクの運転も達者だから多少遠いところや電車やバスのない時間帯でもすぐに駆けつけてくれるといったフットワークの軽さもある。それを踏まえても、彼は実に優秀な現実への命綱だと言えた。
 彼をつなぎ止めるためにキスやセックスを自由にさせできる限りの奉仕をした。新堂は中々に絶倫で一度相手をすればこっちが抱き潰されてしまうことも多かったが、尽くしただけのの役割は果たしてくれていると言っていいだろう。
「……身体は大丈夫か?」
「えぇ……生きてはいますし、腕は動きます。足の感覚はまだ戻ってませんけど……」
「そりゃぁ、あんな事になってればな……」
 新堂はそう言うと深く椅子に腰掛ける。
 自分が何を見てどうなったのか、その記憶はひどく曖昧だった。ただ恐ろしいものに迫られその爪痕は深く身体に食い込みほとんど自由にならない身体で必死に手を伸ばしたのだけはぼんやりと覚えている。
 見たものに対しての記憶が急激に抜け落ちていくのは荒井が出会った怪異の特性か、あるいは脳が見たという事実を拒んで記憶を封じてしまったのだろう。
 それを思い出せば恐怖で発狂しそうになるほど恐ろしい出来事が起こった時、人間は無意識に記憶を封じてしまうということを荒井はこれまでに幾度か経験してきた。
「あんな事と言いましたが、新堂さんは見たんですか? アレを。覚えているんですか、あいつの姿を」
 好奇心で身を乗り出そうとするが激しい痛みに阻まれ起きるのをやめた。
 荒井はほとんど何も覚えていなかったが、心に張り付くような恐ろしさとおぞましさとが感覚として残っている。たとえ記憶は失っての恐怖という感情は陰として残り続けるのだ。 荒井の感情に恐怖の爪痕が残っているのなら、新堂は何かの鱗片を見たのかもしれないと期待する。
 だが新堂は苦い顔をすると荒井から視線をそらした。
「見てねぇよ。直感的にヤベェと思ったからな……お前は覚えてねぇのか?」
「えぇ。見た、というような実感はあるのですが記憶から抜け落ちて……よっぽどひどいモノだったんでしょうね」
「あぁ、あいつはそうとうヤバい。鳴神にもおかしいヤツはわんさかいるが街にも潜んでいるモンなんだな……よくあんなヤツを見つけてきたもんだと感心しちまうぜ」
「それは、どうも」
「褒めてねぇよ……ったく」
 新堂はそう言いながら自分の手を握ったり開いたりしはじめる。
 滅多に見ない新堂の手遊びは嫌な感覚がよみがえってきたその感触を忘れようとするような仕草に見えた。荒井が物珍しそうに見ている事に気付いたのか、新堂はまたため息をつくと自分の手をこちらに向けた。
「テメェがまったく覚えてねぇみてぇだから一つ、教えておいてやる。俺が着いた時にお前はもうぶっ倒れてた。身体はお前のままだったが、足は針金みたいに捻れてて干物みたいにカラカラに干からびてるような有様だった。その上に無数の目玉みたいなもんがくっついてたから、とにかく安全そうな場所までテメェを引きずってその目玉みてぇなモンを片っ端から引っこ抜いてやったんだ。ちょうどネジで留めたみたいに目玉がポンポン抜けてな、妙な弾力のある目玉の手触りといい生暖かさといい、本当、最悪の経験だったぜ」
 それは想像するだけでおぞましいのだから実際目の当たりにした新堂は発狂しそうな程の恐怖をあじわっただろう。
 そうなると今、足の感覚がないのは無数にはえていたというがネジのようなという限り肉をえぐって刺さっていたせいか、足全体が捻れてしまったせいに違いない。
「それはそれは……貴重な体験が出来て羨ましい限りです」
 喉を鳴らすようにして笑う荒井を前に、新堂はついに我慢の限界に達した様子でぐっと顔を近づけた。
「お前なぁ! わかってんのか、死にかけてた。いや、死ぬより非道ェ目にあう所だったんだぞ? それなのに……」
 あまりに声が大きかったからか、他のベッドで横になる老人たちの濁った目がいっせいにこちらをむく。
 個室ではない大部屋には長患いの患者が他にも随分いて、ベッドの殆どは老人で埋まっていた。刺激のない毎日を送っているのか、まだ若い荒井が来た事や奇妙な病状であることは知れ渡っているのだろう。物珍しそうに様子を見る入院患者の視線を受け、新堂はばつの悪そうな顔になり仕切りがわりのカーテンを閉めた。
「……お前が好奇心を抑えられない性格だってのはよーく分かってる。誰かに縛られ、禁止されても決してその歩みを止めようとしない向こう見ずな性格だってのもな。だが最近のお前は……少しばかり無茶がすぎるんじゃ無ェか」
 新堂がそう言うのも無理はないだろう。節操なく興味のある場所へ向かい好奇心の赴くままに進んでいるという自覚が荒井にはあったからだ。
 それでこの世にある摂理からはみ出た存在や真理と呼べるような何かを眺め感じるコトが出来たのなら、自分の人生が終わってしまっても構わない。朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、という言葉があるが今の荒井が抱いた感情もそれに近いものだろう。
 恐怖への強い憧憬と好奇心とが荒井を生き急がせていた。
「時田も言ってたぜ、少なくとも以前のお前は危険だと思ったら引く判断をしていた。深入りしないほうが良いと思った時はあえて分からないままにしておき触れないでおく位の節度はあったってな。だが最近のお前はどうだ、まるで死にたがりの大馬鹿野郎じゃ無ェか。鼻歌まじりで崖に飛び込んでいくような愚かモンを馬鹿にして見下して笑ってたんじゃじゃ無ぇかよ、テメェはよ」
 鳴神学園に通うようになってから知り合った友人で荒井の事を良く知る時田から見ても最近の荒井がとる行動が奇妙に見えるのだろう。自覚はしているつもりだったが、自分が思っている以上に危険な状態なのかもしれない。
「崖の上で鼻歌を口ずさみ歩む愚者とは……タロットカードの愚者のシンボルですか、新堂さん。思ったより洒落た言い回しをしますよね」
「話を逸らすな、俺はヤベェと思う事に首を突っ込みすぎるな、って言ってんだ」
「知ってますか、愚者の逆位置は無謀という意味ですが正位置であれば希望という意味になります。どちらにしても可能性を示す本質は失われていません……行動を起こし何かを得る可能性があるのなら、僕はどのような愚者にでもなりますよ」
「それで足を失ってもか!?」
 新堂は立ち上がると荒井の足をやや乱暴に掴んだ。だが何の感覚もない。痛いとすら思わなければ掴まれている熱もないのだ。すでに荒井の足は痛みすらも感じないほど、別の部位へ成り果てているようであった。
「言っただろう、針金みたいにねじ曲がったってよ……治らないかもしれねぇんだぞ。もう歩けないかもしれねぇ……それでもお前は自分の好奇心と興味ってのが大事なのか?」
 なるほど、さっきから動かす事が出来ないだけではなく痛みすら感じないと思ったが半ば千切れかけていたのなら当然だ。
 この病室を見る限りここは鳴神学園付属の病院であり地域でいっとうに腕のよい医者が集まっている。その上呪いや霊障、怪異といった特殊な事例にも対応できる数少ない病院だというのに、そんなプロが集まる病院でも治らないと思わせるということはよほど大きな災厄と鉢合わせてしまったのだろう。
 それだけの災厄が町外れをうろうろしているのだと思うとこの街も大概な場所だとも思うが、今はそんな事を論じても詮無き事だ。
「そうですか……では今度からは腕でも移動できる訓練をしますよ。足が動かなくなっても自力で動けないようでは好きな場所で好きなだけ思案することもままならないでしょう」
 どこか他人事のように語る言葉にいよいよ耐えきれなくなったのだろう。新堂は立ち上がると荒井の襟首をつかんでいた。
「そういう事を言ってんじゃ無ぇ! ……もう無茶はやめてくれ。どうしてそんな事をして自分から死にたがろうとすんだテメェは。俺たちはただでも鳴神っていうヤベェ学校に通って三年無事に卒業できるかわかんねぇんだぞ……おい……俺をこんな風にして、俺を置いて行くのは絶対に許さねぇからな」
 勢いで首を掴まれ身体を揺さぶられるせいで激しい痛みが全身を包む。
 まったく、けが人にするような態度ではないと思うしもし今の様子を医者に見つかったらすぐに止められるだろうが荒井は狂う程に突き抜けるこの痛みが今は心地よかった。
 どうしてそんな事をするのかと新堂は言うが、どうして本音が言えるだろう。

 あなたがいるから。
 あなたが傍にいてくれて、自分のことを受け入れそして愛してくれたからだ。

 最初は死にきれなかった時のため新堂を利用する気持ちでいた。
 自分は本心から誰かを愛する事なんてないだろうと思ったし、心の奥底にある死への願望ほど胸を焦がすものなど世界のどこにもないだろうと思っていたからだ。
 だが今は新堂とともに生きる時間が心地よく、唇を交わす時も肌を濡らす時も空虚だと思っていた心が幸福に満たされていくのがわかる。
 自分は幸せなのだ。
 彼と出会って彼が愛してくれた時からずっと。
 だが同時にその幸せは永遠ではないのもわかっていた。
 もしも荒井の身体が新堂と同じように普通に歳を重ね老いていくような身体であれば彼の隣で歩んでいく喜びをかみしめて歳を重ねる事も出来ただろう。
 だが荒井はもう年を取ることができないのだ。
 10年以上前の15歳の時、人魚の肉を口にしてから彼はいかなる方法をもってしても死にきる事ができず、今もなお生きながらえているのだから。

 あなたがいずれ老いて死んでしまうから、その前に死んでしまいたい。
 あなたのいない世界でなお生き続ける意味なんて見いだす事は出来ないのだから。

 そんな思いを抱いていたとして、どうしてそれが普通の人間に理解出来るだろう。
 だから以前にも増して怪異を追い求めるようになったのだ。どこかに自分でも死にきれる、もっと強固な呪いがあるだろうと信じて。
 結果は、見ての通りだが。
「大丈夫ですよ……この怪我もきっと治ります。治してみせますよ、あなたがそんな顔をするのを見るのは嫌ですからね」
 荒井は自分の動かない足を撫でてどこか諦めたように言う。
 そうだ、この足が捻れようが腐ろうがきっと治るに決まっている。自分の身体に染みついた人魚の呪いは元々あった人魚の回復力にはほど遠いだろうが、それでも簡単に死なせてくれるような生やさしいものではないのだから。
「そう思うなら自重ってのを覚えろ。いい加減、助けに行く俺が先に死にそうだ」
「それは困りますね……もし死にそうな程危険な時は僕を見捨てていいですよ」
「以前の俺だったらそうしてたろうが、今の俺はどうだろうな」
 身体を掴んでいた手は荒井の頬を撫でていた。
「……死ぬのが分かっていても、お前を捨ててはいけねぇ」
 それは優しく、だがあまりにも悲しそうな声だったから荒井は一瞬なにも考えられなくなる。
 自分は彼が愛しくて、彼において逝かれるくらいなら先に死にたいと思っている。
 だが新堂は自分のためならば死地と分かっていても飛び込んでくれるというのだ。
 本当だったら一緒に過ごして一緒に成長し年を取った姿で並んで歩く事も出来たのだろうか。いや、もしそうだったとしたら自分が高校生だったのは10年もまえだ。今こうして同じ学校に通う事はなく10年も歳が違えば出会う事もなかっただろう。
 呪われていたから出会うコトが出来て、呪われていたから出会ってしまった事を恨まなければいけないとは何と出来の悪い冗談だろう。
「それは……困りますね。僕は新堂さんに生きていてほしい」
「俺だってテメェには生きててもらわなくちゃ困るんだ……な、荒井。だからもう無茶をするな……」
 そう言われても、どうしたらいいのだろう。
 自分の身体は老いるコトも死ぬこともなく、新堂は容赦なく年老いて自分を置いていってしまう。そしていずれ老いた彼を若いままの姿で看取らなければいけないくなるのだ。
 かといって一緒に死ぬことを願ってもきっと自分は生き残る。
 せめて自分が人並みに死ぬコトが出来たのなら。
 あるいは新堂も自分と同じ呪いをその身に受けてくれたのなら、化け物としていずれ寿命が尽きるまで互い傍にあり一緒に生きてくれたのだろうか。
「……わかりました。約束しますから、キスしてください」
「はぁ!? 何言ってんだテメー……打ち所悪かったか?」
「えぇ、恐怖で頭がおかしくなったのかもしれませんね。僕からこんなコトをねだるなんて珍しいでしょう? ……それで、してくれるんですか? くれないんですか?」
 新堂は一瞬困ったような顔をするが、すぐに唇を重ねる。
 考えれば考えるほど、自分の運命は呪われている。
 どう足掻いても抜け出せぬ泥沼にあり、その心はいつか必ず大きな虚が開く宿命なのだ。
 だが今感じる吐息と温もりは空虚な未来をいっとき忘れさせてくれる。
 いずれ必ず別れが来るのはわかっている。だがそれでも今、お互いに唇を重ね思いを重ねる喜びは荒井の内にある希死念慮も破滅願望も忘れさせるほど歓喜に満ちあふれていた。
 これは戯れだ。
 いずれどちらか欠け失われるのがわかっている一時の熱にすぎない泡沫の感情だ。
 それらを全て飲み込んで、今はこの児戯にも似たキスに酔いしれる。
 荒井を包む過酷な現実は淡くも脆い恋心に酔うことでしか忘れることが出来なかったのだから。