紅いしあわせと人魚
目が覚めれば暗い室内にむせかえる程の血の臭いが漂っている。
きっとこの部屋にはかなりの血が流れているのだろう。ぼんやりとそんな事を思う荒井昭二が次に抱いたのは、また死に損なってしまったのだという激しい落胆だった。
やはり死ねない。
心臓を一突きにされ血反吐をまき散らし倒れた荒井に馬乗りになると、坂上修一は躊躇なく腹を裂いて見せた。それから臓腑をひっくり返し、胃や腸をまさぐられる感覚が意識を手放す前に残った最後の記憶だ。
『鍵は飲み込んでしまいました。あなたが死なない為には僕を殺すしか無いですよ、坂上くん』
この言葉は生を渇望する15歳の少年に対して絶大の効果があったのだろう。きっと必死に鍵を探したに違いない。
最も、全て徒労だ。鍵は最初から飲み込んでなかったし、荒井の目的は誰かとともに死ぬ事だけなのだから。
血濡れた手で髪をかき上げ深く息をつく荒井を見て、傍らに座る男が声をかけてきた。
「よぉ、やっと起きたのかよ荒井。随分と長くおネンネしてたじゃ無ぇか、なぁ」
新堂誠だ。血で滲んだ拳にタオルを巻いて止血しているがすでにタオルは元の色合いがわからぬほど赤く染まっている。そんな彼の近くに、首なし死体が転がってた。
部屋中はおびただしい量の血で溢れている。新堂が開けたのか、窓は少し開いていたが梅雨時の湿った風は血のにおいを消す事なく微かに入るだけだった。
「新堂さん……坂上くんは死んだんですね。もう今日の活動は終わりでしょうか」
「あぁ、オマエがヤったんだろ。そろそろ首輪が爆発しててもおかしく無ぇ時間だろうから誰が殺したのかって様子見に来たらオマエが死体とおねんねしてたんで、とりあえず応急処置だけしておいたぜ」
新堂はそういい、荒井の身体を指さす。見ればデタラメに切り裂かれた傷痕はホッチキスで留められていた。
以前も一度似たような状態で倒れた事があり、その時も新堂が見つけて助けてくれたのだがろくに裁縫も出来ないのに無理矢理傷口を縫い付けたせいで内臓がこぼれ落ちそうなほど非道い有様だったから「出来ない事は最初からしないでください」「せめてなみ縫いくらい覚えてから人の身体に挑戦してほしいものです」「ホッチキスで留めたほうが随分とマシですよ」などと散々文句を言ったのを覚えていたのだろう。
それだけ文句を言われても呆れず助けてくれる上、本当にホッチキスで留めておくのだから素直というか何というかだが。
「しっかしヒデェ有様だったぜ、おまえ坂上に何吹き込んだんだよ。内臓あっちこっち飛び散って滅茶苦茶だったから元に戻すの苦労したぞ」
「お手数をかけました、ありがとうございます。ですが別に坂上くんにはたいした事を言っていませんよ。ただ、鍵は飲み込んだから僕を殺して取ってみろと、そう告げただけです」
「はぁん、それでコイツは馬鹿正直にお前を殺した後腹の中をこねくり回し探したって訳か。どうせ鍵なんて飲んで無ェんだろ」
「えぇ、僕の目的は彼との心中です。鍵なんてくれてやる訳ないじゃないですか」
抑揚のない声でそう言い、腹の傷を撫でる。新堂は内臓も無茶苦茶にされていたといったから腹には適当に臓腑を押し込みホッチキスで留めたのだろう。 そんなデタラメな手術でも一週間もあれば荒井の身体は綺麗さっぱり元の身体に戻るのだからこの身体も大概だ。
歳を取る事もなければ成長することもなく、そして死ぬ事もない。荒井はずっとそんな身体と命とを持て余し、今に至っていた。
「とても残念ですよ、坂上くんは素質がありました。死へと邁進する感情へ寄り添える考えの持ち主だった。彼と一緒に死ねるのなら寂しくないと思ったんですけれどもね」
荒井はそう言いながら、首の無い死体を一瞥した。最後の記憶と室内の惨状を見る限り、彼は荒井の言葉を信じ必死になって腹をかき混ぜたのだろう。
人殺しの罪を背負い、臓腑の生ぬるい感触に耐え、むせかえる程の臭いを浴び、そのまま時間切れで頭を吹き飛ばしたのだ。全て 予定通りの行動ではあるが、今回もまた自分だけ生き残ってしまうのはやはり口惜しかった。
「死なない癖によく言うぜ、どうせ今日も死ぬ瞬間に狼狽えて焦りながら鍵を探す坂上の顔でも想像して笑ってたんだろテメェはよ。本当にいい性格をしてるよなぁ」
新堂は呆れたように肩を上げる。
彼の言う通り、毒を煽ろうが刺されようが荒井は決して死ぬ事はなかった。
派手に臓腑をぶちまけても自然と元通りになっているし毒の苦しみに喘いでも死に至る事はなく気付いたら元通りの健康体に戻っているのだ。
そのような体質になった理由は荒井自身にもよくわからなかったが、彼自身はきっと人魚の呪いだろうと思っていた。
知らずに含んだ血と肉が彼の中で芽吹き、そして志を同じくする男とともに死ぬことを許してはくれなかったのだ。
あの日、死にきれなかった時から荒井はずっと死に焦がれて、だが死ねないでいる。
「まったく、坂上のやつもお前の心中ごっこに付き合わされて可愛そうなもんだぜ。きっと死ぬ直前までどうして鍵がないのかって絶望しながら腹ん中あさってたんだろうよ」
乾いた笑みを浮かべ新堂は首のない死体を転がす。この死体が荒井の傍に転がっていたのなら新堂の言う通り必死になって荒井の臓腑をまさぐり絶望に顔を歪めながら死んでいったのだろう。その滑稽さを思い浮かべるだけで死ぬ事の出来なかった悲しみや空しさは幾分か薄らいだ。
「新堂さんは坂上くんにやられたんですか」
そこで荒井は新堂の手がひどく傷ついていた事に気付いた。
殺人クラブのメンバーでも身体能力はトップクラスの実力者だ。荒井の知っている限り、リングに上がった新堂を相手にし命があった相手は一人もいないだろう。たとえ武器をもつ相手であっても素人同然の相手なら新堂は敵にしないからだ。その新堂がリングの上で後れを取ったのなら坂上はかなり賢く立ち回ったのだろう。
「まぁな。くそッ、この野郎腹にテッパンなんか仕込んでいやがったんだぜ」
新堂は苛立たしげに死体の腹を蹴り上げる。彼は強いが浅慮な所があるから簡単な挑発にでも乗ってしまったのだろう。思わぬ失態ではあるが新堂らしいといえばらしいミスにも思えた。
「それを殴ったんですか? 相変わらず浅はかですね。自分の強さに自信を持つのは結構なことですが、もっと周囲を観察し立ち回る余裕をもったほうがいいですよ。だから実力より下の扱いに甘んじてしまうんです」
「うるせぇな、わかってるってのそんな事はよ」
新堂は顔を歪めこちらを睨み付けるが殴りかかろうとはしてこない。殺人クラブでは部員同士の殺し合いを御法度としているというのもあるが、荒井に言われなくともそれを当人も自覚していたというのが大きいだろう。
「鉄板なんか殴ったのなら拳は潰れてしまったでしょう。新堂さん、怪我を見せてください」
荒井に言われると新堂は渋々と言った様子でタオルをまいた手を差し出す。タオルを外せば右手の拳から骨が飛び出ているのが見えた。
「随分と思いっきり打ち据えたようですね、少し荒療治ですが我慢してください」
そう言うが早いか荒井は拳の中へ骨を無理矢理に押し込んでいく。力一杯に押し込めば折れて歪んだ骨は少しずつだが確実に元の場所へと戻っていった。
「まて荒井テメェ何するんだくっそ! 痛ェ! 痛ェ、痛ェって言ってんだろッ!」
最も、麻酔もないのに無理矢理押し込んでいるのだから痛みは尋常じゃないだろう。喚きちらして抗議して今にもこちらの喉笛を食いちぎりそうな目を向けるが、襲ってこないのは殺意より痛みがよほど勝っていたからだろう。
「殺人クラブでも一番殺してるくせにたかが骨折の治療で泣き喚くの、みっともないですよ。はい、とりあえず終わりました。骨の位置が正しくないと治りが遅くなりますからね」
荒井はそう言うと落ちていたナイフを手にとり、慣れた様子で手首を切って新堂の傷口へ直接自分の血を注ぐのだった。
「おい、荒井いいのか? お前の血を使うかどうかは日野の許可が必用だろう」
「日野さんだって新堂さんの傷を見れば使ってやれといいますよ。あまり大きな傷痕を残したままでは日常生活に支障も出ますし、新堂さんもその拳では試合に出られなくなるのは困るでしょう」
荒井は死ねない体質であると同時にその血肉で他者の傷を治す事が出来るという能力をもっていた。彼の肉を食えば普段よりも格段に強い力が得られるなんて噂も殺人クラブの中では密かに囁かれている。部活がある前、日野は荒井の肉を口にしているから常軌を逸した強さをもっているのだとも。
荒井にそれを聞いても曖昧に笑って誤魔化すだけで真偽は定かではないが、荒井の血を傷に直接滴らせれば瞬く間に治っていくというのは事実だった。荒井の血が注がれた新堂の傷口は見る間に肉が盛り上り傷など元々存在しなかったかのように綺麗になっていく。
「本当にスゲぇなお前の血は。おかげで俺たちも殺人クラブなんて物騒な活動を続けていられるんだろうけどよ」
すっかり痛みのなくなった拳を握ったり開いたりしながら新堂は感心したように呟くと、すぐに彼の方を向いた。
「なぁ、荒井。テメェ、死なない上に他人の傷まで治せる能力があるのにどうして殺人クラブにいるんだよ。そもそもテメェはいつも率先して殺そうとはしてねぇし、今日みたいに自殺の巻き添えにしてきた奴も多いだろ? 無理に日野に付き合ってやってるって感じだが、何か事情でもあるのか」
首を傾げながら不思議そうに聞けば荒井は深いため息をつくと億劫そうに俯いた。
「似たような事を福沢さんにも聞かれたことがありますね。確かに僕は日野さんの付き合いで殺人クラブに所属していますが、今は皆さんの一員という事で納得して頂けませんか」
「死にたがりのお前が殺人クラブの一員ぶるんじゃ無ェよ。日野に義理立てして参加してるだけで死に場所探してるだけじゃ無ぇのかテメェは。何があったのか知らねぇけど、そんなに死にたいならお前が死ぬまで何度でもブチ殺してやってもいいんだぜ、なぁ」
嬉々として語る新堂を前に、荒井は目を閉じ長いため息をついていた。
死にたがりといわれたが、荒井だって選ぶ権利はある。どうせ一緒に死ぬのなら自分と似た相手がいいと思っていたし、どうせ殺すなら生きる意味が見いだせず絶望し死にとりつかれ渇望しながらそれでも生にしがみつく矛盾した心を抱く相手がいいといつも思っていた。
そのような心持ちを抱く相手はまるで自分の合わせ鏡のように思えてたまらなく愛しいのだ。
だから一緒に死ぬ相手はいつもそのように無様に足掻こうとする人間と決めていた。
荒井の基準からすると新堂は今の生に満足し絶望など感じた事はない、陽気で恵まれた人間だと言えるだろう。渇望とは無縁のまま至らない現状にもそれなりに満足し日々を楽しんで生活しているのだ。
もし新堂が絶望を知り狂う程に何かを求め悶え苦しんでくれるのなら心中するのも悪くないとは思うが、新堂の性分ではそのような湿っぽい考えなど一生抱くこともないだろう。
それに新堂には、可能なら別の思いを抱いて狂って欲しい。
「今の新堂さんには殺されたくないですね。貴方は本当の絶望も知らない恵まれた人生を送っているじゃぁないですか。愛されて不自由しない、恵まれた子供ですよ」
「はぁ? テメェ、俺を舐めてんのか。テメェの方が年下じゃ無ぇか」
「高校生が学年通りの年齢とは限りませんよ、何でも見たまま受け取るのは貴方の悪い癖です。あぁ、でもそうですね。もし僕を殺してみたいと思ったのなら……」
荒井は自分の血で汚れた手で新堂の頬を撫でると妖艶な笑みを浮かべる。
「僕を愛してください。僕のことを愛して、僕がいない世界の事など想像できないほどになってくれたのなら……貴方に殺されること、真剣に考えてもいいですよ」
そう言い終わるより先に隣にいる新堂と唇を重ねた。
突然のキスに戸惑いながら新堂は力一杯に荒井の身体を突き放す。
「てっ、テメェ、いま何しやがった!?」
「キスくらいで大げさですよ新堂さん。それとも、初めてでしたか?」
「くっ、な、わけねぇだろッ。クソ、さっさと日野んトコ行くぞ。坂上の死体も運ばなきゃいけねぇし、テメェが汚した和室の掃除もあるんだからな」
新堂は怒りながら床に転がる死体を再び蹴飛ばしてから日野が待つ正門へと向かう。
あんなに怒って狼狽えるとは、随分とウブな反応だ。やはりまだ17歳の少年なのだろう。そんな事を思いながら新堂の後ろ姿を眺め、荒井は静かに目を閉じる。
生きる事も死ぬ事も他人と共有できるものではない。近しい感情を抱くことが出来ても、人間は自分の人生を一人で行き、そして死ぬものなのだ。
わかっていても、荒井は一人で死にたくはなかった。
死ぬ時は誰かが傍らにいてほしかったし、その相手は化け物ではなく普通の人間がいいとも思っていた。生きる事に絶望し死を渇望しながらそれでも生にすがりつく人間ならなお幸福だろうとも思うし、そういう相手との心中が彼にとって理想の死でもある。
だがもし新堂が自分を愛し自分のいない世界に絶望を感じる程に荒井へと感情を注いでくれるというのなら、一人で死ぬのも悪くない。
自分のいない世界で新堂がどのように生きるのか、自分の手で愛したものを殺した人間がどのような絶望を引きずり自分のいない世界で生きて、そしてどのように死んでいくのか。そんな思いに抱かれて死へと迎えるのなら、きっとそれも幸福だろう。
理想の死を求め、自分に似た素養をもつ相手を選んで誘ってきたがこの分だと死ねるのはまだ当分先だろう。それならまだ絶望を知らない新堂の身体に種をまき愛することが絶望になるよう育てていくのも面白い。
「新堂さん、貴方が僕を愛してくれるのなら、僕は本当に貴方に殺されてもいいですよ」
誰に聞かせるともなく、荒井は密かに呟く。その顔には心から幸せそうな笑みが浮かんでいた。