かわいくないってわかってる


 日中こそまだ日の光が刺すほどに強く夏の勢いを肌で感じるが夜ともなればたちまち寒くなりそろそろ半袖で過ごすのが心許なくなる、そんな秋の初め頃、風呂上がりの濡れた髪を乾かしながら灯野あやめはテーブルにおかれた封筒を手に取った。
 一昨日ポストに入っていたもので、中身はおそらくあやめの写真だろう。
『部下がカメラを趣味で始めたみたいでなァ。何かいいモデルはいないか、ってうるせぇんだよ。悪いがお前、頼めねぇか。ちゃんとバイト代は出すからよ』
 父である津詰徹生から頼まれたのは半月ほど前だったろう。しばらく世間話をした後、申し訳なさそうにそう切り出したのはよく覚えている。母と不仲で決別した津詰はあやめとの関係も当然のように悪く、今は用事が無いと電話などしてこないしあやめもよっぽどの理由がないと会おうとは思わないのだが、その時はいかにも大事な用事があるといった様子だったので億劫だが食事に付き合うことにしたのだ。
 だがまさか、その大事な用事が部下の被写体になってほしいだったとは、呆れて物も言えない。
 もちろん、部下の趣味を口実に娘に会いに来たのだろう。あやめの性格なら断るだろうと思った上で、自分と食事をするために会うための用事を無理矢理にでっち上げたのだ。
 当然、断るつもりだった。しかし、津詰の話を聞くうちに段々と気が変わってくる。
 カメラを始めたというのは津詰が今一番に信頼している部下で、襟尾純という男らしい。まだ二十代でそろそろ結婚を考えてもいい年だろうが未だ浮いた話もなくいつも事件を追いかけている真面目な男なのだそうだ。今でも出会いなんて無いだろうに趣味でカメラなんて始めたらますます結婚と縁遠くなるんじゃないか、等と津詰はぼやいている。
 そんな話を聞いてるうちに、あやめは段々と引き受けてみたい気持ちになっていた。
 もし引き受けたら津詰はどんな顔をするのだろうか。自分の部下とはいえ娘であるあやめが知らない男に写真をとられるなど、お堅い父親からすれば気が気ではないかもしれない。
 それに相手は父親が一番に信頼している部下だという。歳を聞くとあやめとそこまで離れていないし、恋人もいないというのだ。あやめにも特に恋人と呼べる相手はいないから、親しくしても何ら問題はないだろう。恋人になるかもしれないという男女二人を休日に送り出した、その張本人が自分である。そんな思いを抱え悶々とする父親がいるのだとしたらどれだけ面白いだろう。
『いいわよ、襟尾さんだっけ。写真のモデルをするから、良い日を伝えてくれる。お父さんの部下なら心配ないでしょうし、私もそろそろ恋してみたいしね』
 最後の言葉は父親への揺さぶりではあったが、津詰には絶大な効果があったようだ。まさか引き受けるとは思っていなかったらしく驚いたように目を見開いてからは急に大人しくなって、無理をしなくていいとかやはり無かった事にしていいかと小声で呟いている姿は今思い出しても滑稽だった。
 そうして約束の日を迎える公園に現れたのはあやめがイメージする刑事とは違う柔和な雰囲気の青年だったのは少し意外に思えた。あやめにとって刑事といえば父であり、もっとお堅くて無頓着で誰でも疑うような眼差しを向ける嫌な顔をしていると思っていたからだ。
 襟尾はその点で言えばあやめの思う刑事像と随分かけ離れた人物だったろう。気取った様子も見せなければこちらを値踏みするような視線を向ける事もなく、服装も髪型も実に今風だ。あやめと会った時も不躾な物言いはせず、自分の自慢話やどれだけ立派なカメラを買ったのかなんて得意げに語ることもない点は女子大生という肩書きに惹かれあやめに声をかけるような他の男連中より随分とマシに思えた。『何処がよさそうかな』とか『キミはこの公園で好きな場所とかある? オレはあんまりこういうの疎くって、ほら、素人だから』と答えやすい質問を投げかけてくれるのもありがたい。こういう場では女が男に話しかけ男をもちあげるのが当然といった様子で褒められるのを待つ男たちが多い中、彼はずいぶん誠実といっていいだろう。
 二人で並んで歩きながら、あやめは彼にどうしてカメラを始めたのか聞いてみた。
『最近、同期の連中も学生時代の友人もだいたい所帯をもっちゃってね。家庭を持って子供もいるって相手を遊びに誘うのは奥さんにも悪いだろ。だから一人でもできる趣味でも増やそうかと思って、それでカメラを買ったってわけ。はは、安易だろ? でもオレくらいの歳になると一緒に連んで遊べる仲間って段々減ってきちゃうんだよ』
 首から提げていたのはピカピカの一眼レフカメラだ。ファインダーを覗く姿も覚束なく、カメラを構えるのには余計な力が入っているのがよくわかる。最初のフィルムを入れる時はあやめが横から指示しないときちんと入れられない程だったから、本当に始めたばかりだったのだろう。
『カメラに使われているみたいですよ』
 あまりにへっぴり腰でファインダーを覗くものだからチクリと嫌味を言ってみても、彼は怒る様子は見せず変わらぬ笑顔を向けていた。
『まず形からって言うだろ。それに最初、しっかり投資しておけばあんなにお金かけたんだからやらなきゃ損だろって気持ちになるし。オレの場合、そうでもしないと趣味で何かやろうって気持ちにならないんだよ。はは、へっぴり腰でかっこ悪いオレが見られるのは今だけだと思うと得した気持ちにならないかい』
 大抵の男は女である自分が少し嫌な事を言えば気を使えないとか鼻につくといって嫌がるものだが、彼は随分とおおらかな事だ。あるいは嫌味が通じないほど鈍感なのかもしれないが、それでも無闇に怒らない相手は一緒にいて苦痛ではない。
 写真を撮る合間もこちらを気遣うように色々と話しをしてくれた。詳しい内容は覚えてないが、退屈ではなかったのだけは何となく覚えている。
『結婚はしないんですか』
 ふと気になってそんな事を聞いたのは、それでも何とか覚えていた。津詰の話だとそろそろ結婚してもいい歳だというし、本当は自分なんかではなく彼女と出かけたかったのではと不意に思ったからだ。
 これだけ気の回る相手がフリーであるのはにわかに信じがたいというのもある。すると襟尾は困ったように笑いカメラの背を撫でてみせた。
『周りの人間は結婚しろって言うけど、いまは考えてないかなぁ。恋人もいないし仕事も忙しいしね。ほら、結婚ってやっぱり好きな相手を幸せにしたいからするもんだろ? そうなると、今の仕事で家族まで幸せにする自信なんてとてもないからさ』
 よどみなく答える姿に嘘は見られない。
 正直なところ、父の部下で恋人もないというのだから嫌らしい目を向けられたりしつこく口説かれたりするのではと多少は警戒していたのだが、襟尾は本当にその気がなくひたすらに写真を撮り続けていた。
 撮影中も下心が透けて見えるような発言もなく、わざとらしくスカートをめくって見せろとか極端に胸ばかりを撮りたがるといった行動も一切無かったのだから驚きの気持ちすら抱いていた。
 結婚は自分の立場を守るためでもなければ義務でもなく、家庭を顧みる暇がないのならやたらにするべきではないと言うのもあがなち嘘ではないのだろう。あるいは襟尾の上司でありあやめの父でもある津詰が結婚生活に失敗しているからというのも幾分か彼を考えさせているのかもしれない。
 たとえ周囲が結婚しろとせっついても目の前に家庭を作れなかった男がいたら二の足を踏むのも当然だろう。少なくともあやめはそうだ。家庭を顧みない父とその姿を嫌悪していた母をずっと見ていた彼女は自分が結婚したいなどあまり思わなかったのである。
 実際、津詰徹生という男はあやめにとっていい父親ではなかった。
 遊園地や動物園などに連れて行ってもらった記憶もなければ当然、家族旅行など一度だってしたことがない。
 そもそも日曜日に津詰が家にいた事がないのだから家族サービスなど無くて当たり前でどこかに行くのは殆ど母と一緒だった。
 運動会も授業参観も進路指導もすべて母が出ており、幼少期のあやめが記憶している父の姿は蒲団で寝転ぶ姿ばかりだ。しかもたまに起きていると自分は昼までダラダラ寝ているくせに、やれアレはするなコレはするな真面目に生きろと説教してくるのだから面倒くさい。
 忙しすぎて家族にかまける暇がないのなら、家庭なんて作るものじゃない。
 子供に寂しい思いをさせておいて父親面をするんじゃない。
 小さい頃から何度もそう思ってきた愛憎は今でもあやめの胸に渦巻いて消える事はなかった。
 もし襟尾が「刑事は家庭などもつものではない」と考えているのなら、勢いで家庭をもちそれを守れず壊した津詰より立派な男なのだろう。
「あの時の写真かぁ」
 不器用なカメラマンの素人撮影会に付き合った日をぼんやりと思い出しながらあやめ髪にタオルを巻き封筒を開ける。薄手のシートに包まれた写真は10枚程あっただろう。公園を背景に笑顔をみせるあやめ。噴水をまえに手を広げてみせたり、まわりにあつまる鳩とはしゃぐように笑うあやめ。鞄を持ちアイドルのよなポーズをとるあやめ。どれもこれも素人がぎこちないポーズで撮ったにしては綺麗に写っている方だろう。初めてカメラを扱ったのなら上出来だ。
 だが面白い写真ではない。どれも似たり寄ったりの構図でありきたりの写真にしか思えなかったのはあやめが美大生であり芸術に対しては厳しめの目をもっていたのもあっただろう。
 あやめはこれまでも何度かカメラのモデルを務めてきた。
 新しくカメラをかったから被写体になってほしいと頼んでくる男は襟尾の他にも過去に何人か会った事があるし、食事やプレゼントほしさに一日付き合ってあげた事もあるのだが、殆どの男は皆が一様に可愛くて無邪気なイマドキの女子大生を撮りたがっているのがわかったからあやめも意図してそのように振る舞っていた。
 時にはカメラを理由にホテルに誘おうという下心丸出しの男もいたし、本音では趣味云々ではなくカメラを買えるくらい余裕のある自分と付き合ってほしい気持ちだけであやめに接していたのだろう。
 襟尾はその点で誠実であったが、撮る写真は他の男とそれほど代わりない。つまるところ、みんな同じなのだ。女に求めるのは愛嬌ばかりで、女子大生らしく、女らしく振る舞うあやめにしか興味なかったのだろう。
 女性の社会進出だとか強い女性の時代が来るとか世間ではそう言っていても、男がほしがるのは可愛くて男を甘えさせる優しい女なのだから仕方ない。それがわかっていたから、あやめも期待にこたえるよう笑顔を見せて過度なくらいに可愛いポーズをとって愛嬌をふりまいた。服だって自分が好きだから選んだものではない。女子大生ってこうなんだろう、と言われる服を選んだものだ。
 そうしないと相手が不満そうな顔をするのだから、相手のイメージ通りの自分を装うのはもはや必然だろう。そしてそれを待ってましたという風にシャッターを押すのだからどの写真も似たりよったりになるのも当然だ、面白い写真など撮れるはずもないのだ。そんな事を思い写真を眺めていたあやめの手が止まったのは、ベンチに座る自分を見た時だった。
 ふてくされたように頬杖をつき、枯れ葉が舞い散る公園の向こうを見る写真はいつ撮られたものだか分からない。おそらく、休憩中に襟尾が撮った写真だろう。おおよそ可愛い女子大生とは言い難い不機嫌そうな横顔は、可愛くない顔だというのに嫌味なくらいに綺麗に撮れていた。
「やだ、いつの間にとったのこんな写真」
 つまらなそうにしてる。愛想もよくないし、性格も悪そうだ。他人、とくに男を見下してるし男という生き物に心底呆れている、その癖にまだ期待を捨てきれないから何度でも落胆している。下心満載で近づいてくる男は辟易しているくせに下心満載の男が好きそうな服ばかり選んで愛嬌を振りまいてしまうのは、今どきの女子大生がみんなそうだからそれに習っているだけだ。
 口うるさくアレをしろ、これをしろという男はますます好きではない。だけど大嫌いだからこそ、簡単に利用できる。 だから面倒くさいけど連んでやる価値はある。
 打算ばかりで本心を見せない癖にそれを不満に思っている、嫌な女の顔をしていた。
 実際、襟尾に付き合って写真を撮らせたのも大嫌いな父親をからかう気持ちがあったからだ。父親の部下もまた自分が津詰の娘だから、女性だから、女子大生だからという理由で可愛い写真を求め多少綺麗にとれた写真を送ってくるようなつまらない人間なのだろうと思い、実際届いた写真がつまらないものだったらやはりその程度の男しか父には従わないのだと馬鹿にしたい気持ちがあったからなのだ。
 それだというのにこの写真は、ちゃんとあやめを撮っている。彼女と向き合い彼女をとらえた立派なポートレートだ。
 本音を見せるのが怖くて、だからつまらない事をして気を引いて、相手に幻滅することで自分を守ろうとするつまらないあやめを襟尾はちゃんと見ていたのだ。
「あいつ、最低。全然可愛くない写真までおくってくるとか、本当に腹立つ」
 あやめはそう呟いて、写真を部屋の電灯に照らす。
 可愛げはない、だが悪くない自分の写真だ。
 襟尾はどんなつもりでこの写真を撮ったのだろう。彼は何を思ってファインダーを覗き、こんなふてくされたあやめの顔を残そうと思ったのだろうか。
 心がざわつく。会って話をし、実際聞いてみたい。写真を見てそう思ったのは初めてのことだった。
「バカみたい」
 写真を手にしたままあやめはベッドへ寝転がる。
 何を考えているのだろう、たまたま一枚だけ可愛くない写真があっただけだ。襟尾は話した印象だと楽観的であまり深く物事を考えていない風に見えたから、ただノリと雰囲気で撮っただけに違いない。
 そう思っても、何故か気になる。
 あやめはベッドに寝転んだまま手にした写真をもう一度眺める。写真のなかにいるあやめは相変わらずつまらなそうにベンチの向こうから薄曇りの秋空を眺めていた。