死の先にある慈悲


 空からは温い雨がたたき付ける程に激しく降り注いでおりました。
 正午過ぎにはまだ曇り空だったかと記憶しておりますから、降り始めたのは夕暮れをすこし過ぎた頃でしょう。
 土砂降りの中で馬を駆り荒野をかけ抜ける最中に浴びた雨は周囲に吹きすさぶ冷えた風をいっぱいに吸い込んで身体の芯まで凍えさせるか切り裂くほどに冷たく感じていたのですが今は温いように思えるのは雨が幾分か暖かくなってきたからでしょうか。それとも私の身体がすでに冷たさや暖かさもの区別も曖昧になるほどすっかり壊れてしまったからでしょうか。あるいは私の身体より流れ出る血が生ぬるさを感じさせているのかもしれません。
 手足は重く、思うように動きませんでした。
 空を見上げれば暗く深い闇の帳に包まれているかのように思えたのですが、それが実際に月の無い夜で雨空に覆われていたからなのか、それともすでに私の目に世界をうつす程の力も残されていなかったからでしょうか。
 それはもうわかりませんがわかった所でどうしようもないのでしょう。
 私はもうすぐ死ぬのですから。
 元より私は裏の仕事を任されて多くを殺し闇へと葬ってきた身です。これまで幾度も命のやりとりを伴う戦いをしてきて、たまたま私のほうが生き残ってきただけ。戦いに敗れれば死ぬのが道理というものです。
 その事について私は誰も恨んでいない。私が油断し力も弱かった、淘汰される側だったというだけなのですから。
 敗因は一体何だったのでしょう。
 意識が途切れるその前にも、私はそんな事を考えておりました。
 伝書鳩の様子がおかしかった時から私の予測は大きく外れていなかったと思います。マウンテン・ティム連邦保安官を断罪した時も間違ってはいなかった。一時はこの手に清らかな輝きを抱く事すらできていたのにいったいどこで歯車が食い違ってしまったのでしょう。
 私は、うまくやれていたはずだったのです。
 過ちは僅かだったはず、それなのなぜ、どうして。
 弁当が二つ届けられた時にその異変を察知するのが普段よりも遅かった事が敗因に繋がったのでしょうかょうか。それとも、マウンテン・ティムから裏切り者の名を聞く事が出来なかったせいでしょうか。それともルーシー・スティールを何も出来ないただの小娘だと侮ったせいからでしょうか。それとも私自身があの方を前に独占欲に駆られた罪からでしょうか。
 ……それとも……それとも……。
 傲慢。
 いや、そうなのです、私は最初から分かっていたはずじゃないですか。
 全ての過ちは私の傲慢から始まっているのです。私の人生はいつだってそうだったじゃないですか。自分が何かを成せるものだと勘違いし、他者を救済しよう等といった思い上がった愚かなこの心持ちから全ての過ちは始まっていたのです。
 小さい頃は神様が全てを救って下さるものだと信じて友人たちにも清らかな信仰を得るよう熱心に教えを説いていたのは例え世界が滅びを迎えようとも清らかな信仰さえ抱いていればいずれ救いの手が差し伸べられ、幸福になれると。天国へ向かう事が出来ると、そう信じておりました。
 だけど実際はどうでしょう? 信じて祈ることだけで何が救われたというのでしょうか。私の目の前で無惨な骸を晒した親子らに一体どのような詰みがあったというのでしょうか。あれほど慎ましくも清らかに生きていた家族にどうしてあれほどまでに暴力的な死が訪れなければならなかったのでしょうか。それとも、それこそが救いだったとでも言うのでしょうか。
 神が清らかな子たちを救ってくれるというのであれば。
『水を、水をくれ……一口だけでいいんだ……』
 日照りのなかうずくまり水を乞うたまま、どうして彼は死ななければならなかったのでしょう。故郷でまつ幼馴染みが彼にはいたはずなのです。地味で野暮ったく口下手で面白みのない男でしたが、堅実な仕事が出来る男でした。
 故郷に戻れば決して裕福ではないでしょうが、街の人々に愛され、故郷の幼馴染みと思い出を育み、小さいながらささやかな家庭をもって子供たちに囲まれながら暖炉を囲む幸福を得るのが、本来の彼の生き方だったはずなのです。
 ですが神は彼にそれを許しはしませんでした。彼は一杯の水を飲む暇さえ与えられず、自分が死んだ事にも気付かぬまま倒れたのですから。
『……怖い、怖い。怖いよ……ぼく……怖いんだ……』
 どうしてあんな幼い命まで摘まれなければならなかったのでしょう。
 震える指先は折れそうな程にか細いあの少年は、まだ振り返る思い出も少ない程幼かったはずです。まだ生きて多くのものを見聞きし、多くの人と触れあい、沢山の思い出を抱いてから貴方の御許へ赴くべきだったはずなのです。
 それなのにどうして疫病という越える事の出来ない苦難を彼に与えたたりしたのでしょうか。誰しもいずれ貴方の御許に向かうとはいえ、あのように幼き命まで刈り取るのはあまりに残酷だったのではないでしょうか。
『帰る所が欲しかっただけさ……旅に出たら帰る所がな……』
 そして、どうして彼は私に殺されなければならなかったのでしょう。彼は私なんかよりずっと、生きる価値があったはずなのです。
 例え自分の傍らにいなくとも何処からか彼女が幸福である事を見守ることさえ出来るのならばそれを幸福だと思える。彼こそが救済されるべき清らかな心を抱いていたのではないでしょうか。
 それなのに、どうしてあなたは私にいつでも清らかな命ばかりを奪わせるというのでしょうか。
「……馬鹿馬鹿しい話です」
 ほとんど力を失った身体から、声が零れていました。いや、声が出ていると自分で思っただけで実際は僅かに唇が動いたにすぎないのでしょう。口からはひゅうひゅうと風が抜けていったような気します。ました。
 私だって最初から分かっていたはずなのです。あの忌まわしい戦争がおこった時から。いいえ、それよりずっと以前から。
 神は誰も救えないと……そして、それは私も同じ事だ、と。
 神が誰も救えない……。
 両親から聖書を信じるようにと教え込まれいずれ天国で救われると信じていた私は、神によって救いがもたらされるという信仰を少なからず抱いておりました。ですがそれは、成長するにつれうち砕かれていったのです。
 貧困、飢え、疫病。
 恵みを持たない人々は常にその恐怖にさらされ、若かろうが老いていようが、女性だろうが男性だろうが、信仰をもっていようがいまいが、偉人であろうが愚者であろうが、それらは突如現れては暴君のように振る舞い、強引にその魂を刈り取っていく。
 現実は私が思っている以上に理不尽で不条理に充ちていたというのに、私はとんだ愚か者だったのでしょう。それでもいつかは神の奇跡が訪れるものと信じていたのです。
 清らかであれば救われると……耐えていれば恵みがくると、あり得るはずもない奇跡を信じて。
 ですが現実に救いなど何処にもありませんでした。
 例えそれが略奪でも、自らの手でつかみ取ろうとしない限り貧民は永遠に搾取されつづけ、豊かなものはずっと豊かであり続ける。
 神は何も救わない。教えも信仰も現実に抗えない。それを痛感した時、私は思ったのです。
 神が誰も救わないのなら、私が誰かを救おうと。全ての人が救われなくとも、せめて傍らにある誰かの助けに、こたえてみせようと。
 現実がこんなにも理不尽であっても私ならば誰か救えるのではないかと、そう思ったのです。
 私はそれだけの機知を持ち、知性を育てているはずだと心のどこかでそう信じて。
 ですが、それこそが私の傲慢だったのです。
 伸ばした手は誰にも届く事はありませんでした。
 本当に救いが必要な人こそ影で倒れ、強欲に利益を求めるものが子羊のふりをしてすり寄ってくる。そういう事も、いくらあったか数え切れない程です。
 誰かに与える事は逆に誰かから奪う事になり、本当に救いたいと思った相手こそが私の手から滑り落ちていく。
 この現実に打ちひしがれた私は何時しか手を差し伸べる事をやめておりました。そうして、この理不尽な現実に押しつぶされまいと生きていく事だけに精一杯になっていったのです。
 ……あの方の遺体、その存在を聞いたのはちょうどその頃だったと思います。
 その話を聞いた私は、今度こそ救えると思ったのです。
 それも一人や二人ではない。この国にこれまであった、清らかな思いが踏みにじられどす黒い悪意ばかり育まれた大理不尽の世界から、全てが脱却できる。これで全てが救われるのだ、と……。
 その計画に私が携われるという事は、私が皆を救える事に等しいのではないか。これまでの私の悲願が、達成されるのではないか。その思いは私を突き動かし、この身全てをなげうって忠実に任務をこなしてきました。
 ですが、実際私がしてきたのは何だったというのでしょうか。
 命令だから、任務だから、望まれているから、必要だから……。
 万人を救うため、誰かの幸福のため。その文句に踊らされた私がしてきた事は、ただの人殺しにすぎなかったのです。
 今思えば私が追い立て手にかけた人間にも、幸福になる価値のある人が幾人もいた事でしょう。そう、私は清らかな存在を救えると信じて、忠実に人を死に追いやってきましたが私が追い立てていた存在こそが私が守るべき存在だったのではないでしょうか。
 傲慢。
 そう、全ては私の傲慢が生み出した罪なのです。
 神になり代われると思ったサタンよりも激しい驕り、ただの人の子でありながら救い主になれると思った傲慢さが私の罪の始まりだったといえるのでしょう。
 私は最初から人生に敗北していたのです。
 それでもこの愚かな私は、誰かを救いたかったのです。愚者と罵られようとも、犬と陰口をたたかれようとも、道化と嘲られようとも。
 そして遺体を抱いた時その一瞬あの方の姿をかいま見た時に、私は思ったのです。
 あの方は自分を選んでくれたのだと。私もあの方のように、万人を救える主となれると。
 ……本当に、傲慢でした。
 戦争で倒れるものを一人として救えなかったこの手が、万人を救おうなどと烏滸がましいにも程があるというのもです。
 ですが、それでも私は……。
「それでも私は救いたかった! 私は目の前にある命を一つだって取りこぼしたくなかったのに、どうして貴方手を差し伸べては下さらなかったのですか」
 唇からひゅうひゅうと風の音がした気がしますが、もうその音すら私には聞こえませんでした。
 そう、最初から私もわかっていたのです。
 今あるこの飢えも、戦争も暴力も全てはこの時代にある人が生み出した罪悪。
 原罪を背負い行くべき道へと向かった貴方に、この時代にある人の過ちまで償わせようというのは虫が良すぎる話だということくらい、当然わかっていたのです。
 そして、神さえ出来ぬ事を行おうとする私はあまりに傲慢だと知りながら私は現実からひたすらに目をそらしていたのです。
 私のようなちっぽけな人間が、何か出来ると思っていた。その傲慢さを隠す為に、国のためという大義名分を得て従順な手駒を演じていたのです。
 全てを救う為と、この手を血に染める事すら躊躇わず生きてきました。
 ですがもうそれが罪だったのです。きっと私は、貴方の御許に赴くにはあまりにも重すぎる魂の罪業を背負ってしまったのでしょう。
 この雨のなか、誰にも知られる事もなくひっそりと朽ち果てるのが私には似合いの後なのです。こうして風に吹かれ畜生に貪られて土へとかえるのが、私に似合いの姿なのです。
 私は自分の過ちを認めるのが随分と遅くなってしまいましたが。
 どうかこのまま土と帰す私を、笑ってやってくださいませ。サタンに勝る傲慢さから朽ち果てようとするこの道化を笑ってくれなければ、いよいよ私は行き場の無い気持ちをどこにぶつけて良いのかさえ分からなくなってしまいますから。
「いや、あんたは良くやったと思うぜ」
 その時柔らかな風が何処からか吹きつけてきような気がしました。身体全体を包むあの焼けるような痛みも知らない間に消え失せております。
 世界は相変わらず暗く、一寸先も見通せない有様でしたがその風は暖かく、何処からか聞こえてくる声はくすぐったくなるほどに柔らかかったのです。
「……貴方は」
 気がつけば傍らには見覚えのある男が立っておりました。
 彼はもうここにあるはずのない存在だというのにいったいどうした事でしょう。私が撃ち抜いた弾丸の傷など最早なく、穏やかな笑顔を浮かべております。
「俺たちは、生きる方法が違ったよな」
「はい……そうですね、スイマセェン……」
 彼は優しく、そして親しげに声をかけてくれましたが、あり得ない彼の存在に私はただ困惑しうまく言葉を紡ぐ事など出来ませんでした。
 何故彼がここにいるのでしょう。彼が行くべき場所は私の所ではないはずなのです。清らかな彼の精神は、私がこの手で血に沈めたのですから。
「方法が同じなら俺たちは、もっと分かり合えたと思わないか?」
「そうでしょうか、マウンテン・ティム……連邦保安官」
「連邦保安官の肩書きは、もうないぞ。ミスター・ブラックモア」
 悪戯っぽく笑う仕草は、私の知らない彼の笑顔でした。
 私と対峙した彼は終始、緊張を抱いておりましたから。
「方法が違えば同じ道を歩けたかもしれない……ミスター・ブラックモア。どうだ、この道を……俺と一緒に、歩んでみないか?」
 ゆっくりと差し伸べられる彼の手は、ぼんやりと光に溢れていて……。
「あぁ……」
 その場で跪く私は溢れる涙が止められませんでした。
 神よ、貴方はこんなにも愚かな間違いを繰り返しつづけた傲慢な男にさえその手を差し伸べてくれようというのでしょうか……貴方は自分の救い方すら知らずに誰かを救おうとした愚か者の私にさえ、慈悲を下さるというのですね。
「行くぞ、ミスター・ブラックモア」
「はい、はい……」
 淡い光を頼りに、私はゆらゆら立ち上がりました。
 どこからかあまい匂いのする心地よい風が吹いて参ります。
 雨はもう、やんだようでした。