雨嫌いのブラックモア
秋の天気はとかく移ろいやすいとは良く言われる事だがその日の空もまた例外ではなかった。
正午過ぎまでは雲一つない空は心地よい風を運んでいたのだがその頃から空模様は一変し何処からともなく鉛色の雲が立ちこめたかと思えば、日の入りの迫った今はまるでバケツをひっくり返したような大雨が煉瓦の壁や石畳に激しく打ち据える。
空一面に重く垂れ込めた雲の帳が下り星の光は勿論のこと月光さえも届かぬ闇が広がるなか、ブラックモアは狭い室内にランプを灯して外の様子伺っていた。
切れ間なく聞こえる雨音から、雨は当分止みそうにはない。
掲げたランプは橙色の炎を輝かせ、薄暗い部屋に暖かな光を届ける。炎は時々気まぐれに揺らめき、ブラックモアの影を揺らした。
彼はそんな気まぐれの灯りを頼りに、最近出版されたばかりのポォの新作に手を伸ばす。誰もいない夜、一人で過ごせば余計な事ばかり考えてしまう。読書というのは彼にとって数少ない安らげる手段の一つでもあった。
そうして本のページを捲りはじれば、彼の耳に激しく打ち付ける雨音が響く。鎧戸の上で激しく踊る雨粒から、外の風が一層強くなっているのが感じられた。
「嵐になりそうですね」
本から目を離し唯一鎧戸の降りない小窓へと視線を送れば大粒の雨がガラス窓へ張り付くのが見てとれる。鉛のような黒い雲は絶え間なく雨粒を落とし、その雨粒を激しい風が煉瓦や木々を揺らしていた。
月の光も届かぬ日の嵐のような夜は否応なく陰鬱な気分にさせられる。自分の心にある深淵が広がっていき、いずれはこの自我の全てを支配されてりまうような錯覚に陥って、不安で脳髄がかき回されるのだ。こんな感慨を抱くようになったのは、今し方まで読んでいたポォの文節がやたらと気怠げで陰鬱で退廃的だったせいだけではないだろう。
雨は、よくない。
ブラックモアは自らの身体を抱くと、一つ小さく身震いした。この良くない予感が取り越し苦労に終わればよいと小さく祈りながら。
だが、神というのは多忙で怠慢で、大概の祈りなど聞き届けたりはしないものである。
ブラックモアが泊まる宿の扉がノックされたのはランプの油も乏しくなり、そろそろベッドに潜り込もうかと考え始めた頃だった。
ノックの音は、最初は遠慮がちに、だが次第に無粋な程勢いよく自己主張を始める。
このノックの癖は、恐らくディ・ス・コのものだろう。大統領から直々に与えられる仕事に関しては自分と同等かそれ以上に冷静に、かつ的確に処理が出来る事から自分と同様の特殊なケースの事件を多く扱っている男だ。
お世辞にも人付き合いのいい男とは言えず、会話も常に必要最小限しか行わないような男だ。こんな時間にちょっと無駄口を叩きにきた訳ではないだろう。おそらくは自分に言付けがあって来たに違いない。そしてその言付けは大概が火急のろくでもない事なのだ。
「……あいてますよ、どうぞ」
ブラックモアは本にしおりを挟んで閉じると、自らの髪を弄ぶ。
外は雨足が強くなり、声がよく聞こえなかったのか。扉の向こうにいる男は少し躊躇いながら扉を開け、ゆるゆるとその姿を現した。
非道い癖毛に不精髭を生やした姿は整った顔を地味で野暮ったく見せる。服装も何処か地味なのは暗殺者として目立たないためという理由もあるだろうがそれ以上に彼自身が流行りの服といったものには無頓着だからだろう。
一見すれば地味で物静かで大人しそうな男だが、その手でつみ取った命の芽は決して少なくはないはずだ。このまだ年若く見える男が大統領の裏を請け負う始末屋のディ・ス・コという訳だ。
「やぁ、いらっしゃい。誰かと思えばディ・ス・コさんじゃないですか。どうしたんですか、このような時間に」
本当はとっくに誰が来たのかなどわかっていたのだが、ブラックモアはあえて鈍感に振る舞う。その方がディ・ス・コは話しやすいと思ったのもあるが、こんな冷たい雨が降る日にあまり聞きたい話でもないだろうと思っていたほうが大きいだろう。
よほど急いでいたのか、ディ・ス・コは雨傘も持たずに走ってやってきたようでブラックモアがゆったりと語る合間も肩で呼吸を整えているようだった。癖のある髪から雫が滴り落ち厚手のコートは雨粒ですっかり濡れて玄関には小さな水たまりができている。
「あぁ、びしょぬれじゃないですか、スイませぇん……私としたことが、今タオルをおもちしましょう。コートをとって椅子にでもおかけください。今、温かい珈琲でも入れて差し上げますよ」
ブラックモアは、穏やかな笑顔を浮かべ席に着くよう促す。だがディ・ス・コは小さく手を広げると、必要ないとジェスチャーだけでそれを拒否した。
「ミスター・ブラックモア……大統領から、言付け」
抑揚のない声で告げる姿に無駄はなく、ただそれだけを語りにきたといった様子がうかがえる。
ブラックモアはわざと面倒臭そうに髪を弄ぶと興味なさげなそぶりで閉じた本の表紙をなぞっていた。今晩はもうこの続きを読む事は出来そうにもない。雨音を聞きながらどうでも良い事ばかりを考えていた。
大統領がブラックモアのようなスタンド使いに何を望んでいるのかなどもうわかりきっている。同じような能力をもつ存在の捕獲か処刑であり、時には拷問じみたやり方で相手をいたぶる必用もある。それが国のためであり未来を生きる誰かのためなのはわかっているし清い行為だちうのも心得ているがブラックモアも人間だ。全く良心の呵責がないという訳でもない。気乗りのしない日だってあるのだ。
一方のディ・ス・コはそんなブラックモアの様子に気付いていないのか相変わらず眉一つ動かぬまま鞄の中から封書をとりだすとそれらをブラックモアの前へと差し出した。
ディ・ス・コの身体はすでにびっしょりと濡れていたが、封書は中に入った紙も含め、殆ど濡れても汚れてもいない。彼にとって大統領の言葉とは、それほどに大事な守るに値すべきものなのだろう。
封書に入っていたのは、一枚の紙と女の写真だった。見たこともない女性だが、美人と言っても差し支えのない顔立ちといえよう。物憂げな表情で俯きながら、豪奢なドレスで着飾っている。年齢はまだ20代半ば程度か、ひょっとしたら10代の後半くらいかもしれない。やたらと白く映った顔には僅かだがそばかすが浮かんでいた。
「名前は……この書類に。顔は、この写真の通り……」
ディ・ス・コはそう言いながら、写真と書類とをこちらへと押しやる。写真はともかく、書類には彼女の名前と年齢といった簡単な経歴しか書かれていなかった。経歴をあまり探られたくないような後ろ暗い所があるのだろうか。だとしたら高級娼婦かあるいは資産家の愛人か何かなのだろう。
ブラックモアは再度、女性の顔を見る。やはり、派手めの化粧を施している故に大人びて見えるがまだ若い。資料に書いてある年齢が正しければまだ子供といっても良いようなあどけなさが残っているように思えた。
こんな街にこなければ羊と暮らし笛でも吹いて年相応の笑顔を浮かべて暮らしていただろうが、豪奢なドレスを着た少女の笑顔は実際の年齢よりずっと大人びており、憂いあるうつむき顔は若さにそぐわぬ色香を振りまいている。
豪奢なドレスを身にまとうまで、どれほど多くの花を売り色を振りまいて生活していたのだろうか。そうして行き着く場所が自分の所なのだから彼女の一生とは何だったのだろう。
冷たい雨はブラックモアに暗澹たる思いばかり掻き立てた。
「私の所にいらっしゃるという事は、彼女はスタンド使い、そういう事ですか」
ディ・ス・コは何も応えなかったが、沈んだ目の奥には肯定の色が伺える。
やはり、か。ブラックモアは唇だけでそう呟くと、一度大きくため息をついた。
大統領の立場もよくわかっているつもりだ。
スタンド使いの仕事は自分たちの管轄だというのもそれも心得ている。それでもブラックモアの心を陰鬱にさせたのは、雨のせいだけではなかっただろう。
「それで、彼女の能力は? 何かわかっていないんですか? ……資料を見る限りですと、名前と年齢と体格と、髪の色、目の色……そんな事しかわからないのですが」
「……それ以上詳しい事は言えない。……だが、大きな問題じゃぁない」
「事前情報がないのに仕事を回してくるとは随分あせってらっしゃるようですが……ご存知の通り、スタンド能力というのは特殊な存在です。相手の能力もわからず戦うというのは……」
「相手のスタンド能力の情報は……今夜であれば、意味は無い」
風が強くなってきたのか、鎧戸に打ち付ける雨音がさらに激しくなり元々あまり大きな声では話さないディ・ス・コの声がより小さく聞こえる。だがディ・ス・コは小声でも妙に耳に残る声で彼に告げた。
「今日は雨。貴方なら……誰よりも早く、そして何の問題もなく出きる……だから貴方が選ばれた。ただそれだけ、それしか言わない……」
雷鳴が轟き、唯一鎧戸がなされていない小窓から瞬閃光が瞬く。それは断る事の許されない、断罪への誘いであった。
「了解いたしました」
ブラックモアは写真と書類を眺め頭にたたき込むと全てをランプの炎で燃やしつくす。
「全ては大統領のご意志のままに」
ディ・ス・コの前で恭しく礼をしてみせるブラックモアの前で、手渡された書類も写真も全て灰となって消えたていた。
鉛のように重く垂れ込めた雲からはタールのような雨が絶えず降り注いでいる。
風もますます激しくなり、日中であれば往来の多い繁華街も今は人影が殆ど見られなかった。
この雨では商売にさえならないと思ったのだろう。平時であれば今頃が最も稼ぎ時である酒場でさえも扉を閉ざし街の灯りはほとんどが消え失せている。
そんな夜の街のはるか上を、ブラックモアは雨粒を蹴りながら歩んでいた。
雨粒を踏みしめれば、そこは彼の領域となりまた猟場にも成り得る。
平時であれば目立つのを避け移動は馬車に頼るのだが、今日のような雨空に、しかもこのような宵闇の中で空を見上げるモノなどいないだろう。そう思った彼は嵐に任せ自分の能力を使って追跡する事を決めた。
これならいつもより静かに潜み、駆ける事が出来る。つま先で雨粒の感覚を確かめながらブラックモアは歩み続けた。
しかしこの街は人を探すには広すぎる。行き先は限られているとはいえ女一人を探すのは難儀なことになるだろうと予測していたのだが、街に人の気配が消えていた事や女の行動がブラックモアの推測よりおおよそ外れたものではなかったという事から思いの外簡単に目標を捉える事に成功した。
一つのか細い影がこの雨の中、傘もささずに転がるよう走る女の姿というのはそれだけで目を引く。今は淑女が一人で出歩く時間ではないから尚更だ。
馬車も頼らず自分の足で、ただ外へ。外へ……街から逃れようとひた走る姿は、明らかに異質でありまた異常でもあった。
ディ・ス・コは彼女の素性その一切を語ろうとはしなかったし、渡された資料にもまた何も語られてはいなかった。だが語られていない事でブラックモアはかえって事態を冷静に飲み込み、昨今の情勢や政治のしがらみ、上流階級の人脈など、もてる情報をもって彼女が何者で有るかを推測する。
まだ年若いというのに熟れた風貌を身につけているのは彼女が幼い頃から働き手にされたか、あるいは肉の玩具として扱われていた故のことだろう。あの美貌からすると、後者の可能性が圧倒的に高い。そういう仕事を請け負う娘は咲き誇るのが早くまた枯れ果てるのも早いものだ。血なまぐさい終わりを求められてもさして不思議なことでもあるまい。
事件があったのはそういった娼婦の館かと思ったが、写真で憂う女性の衣服は一娼婦が着るにはあまりに豪奢である。流行りの仕立屋によって手がけられたオーダーメイドのドレスを着ていたのを見れば彼女はおそらく何処かの豪邸で囲われていた愛人か何かだろう。
乙女である事を望まれ花を売り、街娼から娼婦街へ。そこで一級の娼婦として名を馳せるか、何の因果か好色な資本家のお手つきとなりすっかり男が熱を上げ囲われるようになった、という所か。
そもそも、そうでなければ、あんなに綺麗な写真がすぐに準備出来るはずもない。今の時世、穏やかで慎ましい清貧な生活では写真なんて高価な趣味に手をそうとも思わないからだ。
さて、写真を趣味にしていてなおかつは愛人を囲うような女好きといえば誰か。そう考えたブラックモアの脳裏にでっぷりと越えた禿頭の男が浮かんだ。
「あの富豪が寵愛していた愛人が、スタンド使いだったと。そういう事でしょうか……」
大統領の周りにいるスタンド使いは悪魔のてのひらで強引に覚醒させられたものが多いが、それとは別に生まれもっての性質か何かからか本人の意思に反して芽生える人間もいる。
だがよほど強い意志をもたなければ発動した事さえ気づかず、才能があってもその能力に押しつぶされて死ぬ事すらある危険なものだ。時に周囲を巻き込んで凄惨な事件に発展する事もある。
それほどに制御の難しいスタンド能力であってもそれに目覚めた事に気付き、強靱な意志で操る事で何かを願ったのだとしたらきっと彼女は確固たる意志をもち祈ったのだろう、愛欲の道具でしかないこの支配からの脱却を。
件の富豪は金回りこそ良かったが、自分本位の行為を望み夜の趣味も極めて奔放で自己中心的だと聞く。その境遇から抜け出したい一心でスタンドが形になったとしたのなら、それが何かしら男に害を及ぼした可能性があるのは想像に難くはない。
同時に、ろくな資料も作られないうちからスタンド事件として自分の所に仕事が回ってきた理由も飲み込めた。あの富豪はスタンド使いではないただの一市民ではあるが、その資本や人脈は決して無視出来ないほど大きいのだ。
そんな彼に不幸な傷を負わせたものがあったとしたら、それが死に至る程の深手であろうものなら、すぐさま報復に出なければならないのは当然である。
下らない面子を立てるためだ。
だがその下らない面子こそが何より大事な人間が、この世界には多い。
つまるところ、ブラックモアはそういう始末を請け負うための役人であったのだ。
雨粒を蹴り、逃げまどう女の背後にまで迫る。躓いても立ち上がりただ必死に走る女の吐息まで感じられる程の距離となったが、彼女はまだブラックモアの接近に気付いていないようだった。最もこの雨のなか、傘がないかわりにフードを深めにかぶって走っているのだ。周囲に気を配る余裕なんて、なくて当たり前だろう。
ブラックモアは彼女の頭上を悠然と通り過ぎると、身を翻しその前へと姿を現した。
突如現れたブラックモアの姿を見て、彼女は立ち止まり息をのむ。それまで何ら気配もなかった所に影のような男が現れれば怯えない方が無理があるというものだ。
ましてやブラックモアは黒衣のレインコートに身を包んでいるのだから宵闇に紛れ舞い降りた姿はさながら伝承にある死神のように見えた事だろう。
彼女は僅かに後ずさり細い指で顔を覆うと美しい顔を恐怖に歪めた。
「誰、誰なのあなたは。そんな恐ろしい仮面をつけて。あぁ、なんて恐ろしくいやな仮面……」
雨音の中で微かに呟く。口の動きは見えなかった。雨も強く風は一層激しさをまして彼女の言葉をかきけそうとしていた。
だが、どのような状況にあろうとも「スタンド使い」である事を示す言葉を聞き逃す程、ブラックモアは愚鈍でもなければまた慈悲深くもなかったのだ。
「あぁ……やっぱり、貴方は見えるのですね。この仮面が……それでしたら……」
やはり、貴方の管轄は私のようで……。
その台詞は声にせず、ただ唇だけで呟いて。黒い雨の中、ブラックモアは傘を広げる。
「……雨は、降り注いでいるだけとは……限らない。そう、限らないのです、お嬢さん」
突如現れた黒衣の姿、そしてその言葉から彼女はブラックモアを少なくても自分にとって有益な人間ではないと思ったのだろう。実際の所、彼女の想像通りブラックモアは彼女にとって不吉な死神そのものとも言って良い存在でもある。慌ててその身を翻し彼の前から逃げ出そうと走り出したその刹那、鉛のような雨の下世界が灰色に染まる中、ただ一つ鮮やか赤が冷たい石畳の上を彩った。
固定させた雨粒は刃のように鋭く輝き、逃げようと走る女性の身体をちょうど美しいケーキにナイフを入れるかのように、鮮やかに切り裂いたのだ。
吹き出た赤い血はバラの花弁のように広がり、あたりを血で濡らしていく。
それは皮肉な程に美しく、まさに優美なうちに手折られる薔薇の花を思わす程艶やかな死であった。
冷たい雨の中で、彼女の白い肌がやたらと浮き出るように見える。広がる赤を指先で確かめ、ブラックモアは自分が笑っている事に気付いた。
使命を嫌悪しながら、それでも他者に与える死を喜ぶ自分がいる。
国のため奉仕できる事に大義を感じそれを尊び清らかなところにあることを悦んでいる自分が。
「……任務、完了です。大統領、全ては貴方の御心のままに」
ブラックモアは誰に聞かせるでもなくそう独りごちる。あるいはそう呟く事で目の前で咲いた薔薇の躯を生み出した罪から逃れたかったのかもしれない。
天を仰げば相変わらず、黒い雨が降り続ける。
「雨なんて降らなければ……」
その滴を身体いっぱいに受けながら、彼は無意識につぶやいていた。
「雨なんて降らなければ、あなたは死なずにすんでいたのかもしれないですね……」
か細い声もまた、すべて雨音で消える。
それは暗く重い雨の続く、ある夜の事だった。