>> かえずにいること
ガスコインは感情を制御するという事をしない性質(タチ)だった。
だからだろう。
ガスコインの喧嘩はいつでも突然で、その切っ掛けは大概些細な事だった。
やれ道に歩いて肩がぶつかったが相手が誤らなかっただの、自分が掃除したばかりの道に酔っ払いが唾を吐いて行っただの、自分がキープしたはずのボトルを誰かが勝手に空にしただの、どれも少し冷静になるか紳士的に話し合えば解決するような事なのに、いつだって彼は子供のように癇癪をおこし最終的には暴力に訴えるのだ。
そしてそれは、相棒であるヘンリックに対してでも例外ではなかった。
「ヘンリックお前今何て言いやがった!」
口論の内容など、今となっては詳しく覚えてはいない。
酔って少し口が軽くなっていた事もあるし、そもそも酒場の歓談をいちいちすべて覚えておくほどヘンリックも暇な人間ではなかった。
だがその日、ヘンリックの放った一言がガスコインの逆鱗に触れたのは確かだったのだろう。 罵声とともに飛んできたのは、ガスコインの巨大な拳だった。
ヘンリックは狩人として恵まれた体躯こそ持ち合わせていなかったが、それでも一般人と比べれば決して脆弱な身体ではない。
むしろかなり頑健な身体であると言えるあろう。それでもガスコインほどの巨体に勢いよく殴られればひとたまりもない。
ガスコインが動き出すより一瞬早く 「来る」 と察知して椅子をはねのけ背後に下がった分ダメージは軽くなってるはずだが、それでもガスコインが放った拳はすぐに起きて反撃に出られる程生やさしいものではなかった。
(……ひでぇもんだ、腹に本気で一撃くれやがって……コレ、しばらく飯食えないな……)
倒れて天井を仰ぎながら、ヘンリックは漠然とそんな事を考える。
酒場は夕食時で、食事を楽しむため随分の人々が集まっていたのだが周囲の人間はとばっちりを恐れ逃げるように席を移動していた。
実に懸命な判断だと、ヘンリックは密かに思う。この状態のガスコインを仲裁しようとしたところで、けが人が増える一方だという事をヘンリックはよく心得ていたのだ。
早くガスコインを冷静にさせ見せに誤らなければ、弁償金で最近の稼ぎが全部飛ぶ事だろう。ガスコインに謝ってこの場を抑えるのが一番の得策だ。
頭ではそう理解しているが、それがひどく理不尽に思えたのもまた事実だった。
今日は酒が入りヘンリックも普段より軽率だったかもしれないが、少なくともガスコインに対して「間違った事」は言ってなかったはずだ。
だが自分が「間違いではない」そう思った事にガスコインとの価値観の相違はあったのかもしれないが……ヘンリックは自分なりの考えで、自分なりの言葉で自分なりに「情勢」について話して聞かせたつもりではあった。
……医療教会について、デリケートな噂にも触れたのも事実だ。
噂は噂、真実ではない……頭でそう分かっていても 曲がりなりにも「教会側の人間」であるガスコインにはそれが気に入らなかったのだろう。
だが、だからって殴られる筋合いはない。
頭にきたのならそれを告げればいいし、反論があるならそう話せばいい事だ。
ましてや自分が謝る筋合いが何処にあるというのだろう。
考えれば考える程怒りが沸々と湧き上がり、その怒りを糧にして ヘンリックは痛む腹を押さえながら立ち上がった。
「お、どうだ。謝る気になったか?」
いつでもこういった「言い合い」は今のような拳で黙らせてきたのだろう。
もう全てが終ったように笑うガスコインの顔に近くにあったグラスの水を思いっきりひっかけてやった。
「うわっ、冷てぇ! ……何しやがるヘンリックゥ!」
「こちらの台詞だ、ガスコイン……話せば解る事を拳で黙らせるお前の浅はかさ……反吐がでる!」
ヘンリックは血の唾を吐くと、きつい視線でガスコインを捉えた。
「今まで暴力で相手を納得させていたのなら、それは真実を見失う……お前のその性格、悪いが躾治してもらうぞ!」
「躾とか……俺の事を犬っころみてぇに言うんじゃねぇヘンリック!」
怒鳴りあいが殴り合いに変化するのに、そう時間はかからなかった。
ヘンリックは大振りの攻撃が多いガスコインの軌道をギリギリの所で見極め距離を詰めると、その腕を、足を、獣を狙うように的確に拳で打ち抜いていく。
だがヘンリックが思っている以上にガスコインもまた強い男だった。
「小バエみたいにチョロチョロとうるせぇんだよ!」
勢いだけの大振りでも、当たれば身体が宙に浮く。
とにかく殴られず、手数で勝負するしかない……ポケットに常に携帯しているスローイングナイフを使えば完全に黙らせる事も出来るのだろうが、それだとガスコインを本気で壊してしまう可能性がある、絶対に使うワケにはいかない。
何を言っても通じない相手であっても、それでもガスコインはヘンリックにとって大事な相棒であったのだ。
「俺はお前が人の話を聞かず、蛮行で物事を押し通そうとする、その態度が許せないと言っているんだガスコイン」
殴られまた床に尻餅をつく。
その痛みは見せず、何事もなかったように服の裾を払いながらヘンリックはよろめく足でガスコインへと近づいた。
そして一発、拳をガスコインの頬に入れると。
「喧嘩する場所も選べない愚か者が! 狩りの時にそんなすぐ沸騰する頭で判断を違え早死にでもするつもりか! いいか、もっと冷静になれと俺は言ってるんだ! お前の愚行でこの場を見ろ、みんなお前を怖がっている……お前はいつまでそんな獣のような狩りを続けるつもりなんだガスコイン! なぁ!」
彼らしくなく声を張り、ガスコインを見据える。
ガスコインは少し顔を背け舌打ちすると、一発仕返しにとばかりにヘンリックの腰を強かに蹴り倒し、騒然となる店から出て行った。
一人、残されたヘンリックは蹴り倒されてしばらく寝転がっていたが、やがてゆっくりと起き上がり近くに倒れていた椅子をなおしてそこへと腰掛ける。
店にいた客は数人が興味半分で柱の陰や暖炉の脇など遠巻きに見ていたが、後は閑散としていた。
「……すまん、女将。氷を……くれ」
ヘンリックは財布に入っている紙幣全部取り出して、それを女将に渡す。
「修理費込みだ。足りなかったら言ってくれ……普段は紅目の黒猫亭という宿を拠点にしている、狩人ヘンリック……と呼べば繋いでくれるだろう、悪かったな。こんな場所で客を前に」
静かな言葉で淡々と告げるヘンリックを、女将は目を丸くしながら見ていた。
顔もかなり殴られたのだろう、口の中が切れ錆のような血の味がした。
「氷……今お持ちしますんで」
女将は紙幣を受け取ると、慌てて氷を取り出してきた。
冷たい濡れタオルもだ。
冬でもない今の時期貴重な氷だろう。
「悪いな……もう少しここで休ませてくれ」
ヘンリックは張れた額に氷を当てると、一つ大きくため息をついた。
ガスコインは悪い奴ではない。だがどうしても思慮に欠ける部分がある。
強さも、勘の良さも、立ち回りも、恵まれた体躯も他の狩人に全てないガスコインの良さだが、この短気さ、短絡さは少しでも注意してやらないといつ、獣に殺されるかわからない。
狩人にあるのは獣に殺される恐怖、それだけではない。
獣に落ちる恐怖もあるのだ ……。
ガスコインには死んでほしくない。
もちろん、獣にだって落ちてほしくない。
自分はただそれを伝えたいだけなのだが……。
(やり方がスマートではないな……あるいは俺も知らん間に、ガスコインに感化されたのかもしれん……)
疼くような痛みは氷で冷やしてもやむ様子は見せない。
ヘンリックと違いガスコインは手加減なんて出来る性分ではない。きっと本気で殴りかかってきたのだろう。
それでも殺されてない事を見ると、それなりに手加減はしていたのかもしれないが……。
(いや、俺がガスコインの性格をどうこうしようなんて烏滸がましい事だったな。俺は……俺は変わる事が出来ても、ガスコインを変える事は出来ない……他人はかえられない、当たり前の事なのに……)
ガスコインに対して厳しい事を言い過ぎたか、そんな後悔が今になって押し寄せる。
自分はガスコインの相棒だが、ガスコイン自身ではないのだ。彼の気持ちを変えようというのは、あまりにも出過ぎた真似だった。
……自分も反省すべき点があったのだろう。
あるいは、ガスコインは自分の思うように動いてほしい……そんな願望を勝手にぶつけていたのかもしれない。
(謝らなくちゃならんな……)
虚空を見ながら己を省みるヘンリックの前に、ゆっくりと黒い影が現れる。
子牛でも現れたのかと思うほど大きな身体は、ガスコインのものに間違いなかった。
「……ガスコイン」
思わず驚きの言葉が零れる。
今日はもうここには返ってこないと思って居たからだ。
一方ガスコインはその巨体の手の中に大事そうに小さな薬箱をかかえている。
そしてヘンリックの隣に座ると彼の手を取り、傷だらけになったその手の治療を勝手にやりはじめるのだった。
「おい、ガスコイン! 何をしているんだお前っ……」
「……悪かったよ」
「いや、ガスコイン、あのな……」
「お前の言う通り、よく考えもしねぇし相手の言葉も聞きもしねぇ態度で、頭脳労働はいつもヘンリック、お前に任せて好きなように暴れて……確かにこれじゃぁな、ガキたちに獣みたいに怯えられるのも無理はねぇんだ」
殆ど目が見えてないガスコインは包帯を巻くにしても何処に巻いたらいいのか分からないのだろう。
不器用に包帯を巻きながら、ガスコインはぼそぼそ語る。
「……わかってんだ。自分でもよ……でも……甘えちまうんだろな、お前にさ。でも、お前に叱られて……そうなると、やっぱ困るんだよ。俺、バカだからどーやって考えてたらいいのかとか、そういうのわかんなくなっちまって、道に迷っちまう……」
そしてぎゅっとヘンリックの手を握ると。
「……呆れないでくれよな? こんな奴だけど……悪かった、本当にそう思ってるから……俺の、相棒でいてくれ……頼む……」
ガスコインの大きな身体が、いつもよりずっと小さく見える。
こんなにも彼は子犬のように怯えて小さくなれるものだったのか……それを見てヘンリックは、何故か怒っているのも馬鹿らしくなり、自然と笑顔になっていた。
「馬鹿が……最初からお前との相棒を解消する気なんて俺には無いな」
「な、本当か!?」
「最初から相棒やめるつもりなら、お前を壊さないよう手加減して喧嘩なんかしないだろうさ……こっちは毒メスでも何でも、お前を動け無くする方法をいくらでも知ってるんだからな」
「そ、そうだったのか……何だ俺、結局おまえの手のひらで転がされてるばっかりだな」
ガスコインはそこで、深く安堵の息を吐く。
「……でも、よかった」
そして本当に、心の底から安心したように笑うのだった。
それは大柄な男なのに子供のようで少年のようでいつでもヘンリックの心を解きほぐす。
「……もう無茶すんじゃないぞ」
ヘンリックは笑顔になるガスコインの頭をくしゃくしゃと撫でれば、ガスコインは 「やめろ、やめろよ!」 といいながらもまんざらでもない様子で笑顔になる。
ガスコインには、死んでほしくない。
獣に落ちてもほしくない。
だがこの笑顔を変えようなんて、自分は何て烏滸がましい事を考えていたのだろうと、改めてヘンリックは己の愚かさを悟った。
彼を変える訳にはいかない。 ならば自分が出来る事は、傍にいる事だけだ。
安堵で崩れる笑みを眺めながら、ヘンリックは心に誓った。
少しでも長く、彼の傍らにあるように。
いつかくる別れの事を密かに憂いながら。