>> 摩耗
周囲からは「洒落者」だの「伊達男」だの揶揄されているが、普段から香水を付けているのは別に洒落者を気取っているからではない。
獣の罹患者から立ち上る血と脂の臭いが、吐き気を催すほどに不愉快だからだ。
香水なんて強い香りをつけていれば、獣に気付かれるんじゃないかと心配する狩人もいた。
だが俺の仕事は獣狩り、隠れた奴らに居場所を知られおびき出せるのなら逆に手間が省けるというものだ。
甘ったるい匂いをつけて娼婦じゃあるまいしと陰口をたたく奴もいたが、そういう奴らはこぞって風呂にも入らない血と垢にまみれた獣のような連中だ。
身の回り、最低限の清潔も保てないような人間に何をいわれても気にならなかったし、大概そうして陰で噂を流す連中は俺よりずっと弱い奴らだったからなおさら気にはならなかった。
そう……最初はただ獣の臭いがイヤだから、そんな理由で香水をつけていた。
だが香水の瓶というのは女性の目を喜ばせるためにあるためか、色とりどりのガラスや中には瓶の蓋に鉱石をあしらった美しいものが多い事に気付き、俺はいつしかその香りだけでなく、瓶の美しさも愛でるようになっていた。
……その仕事は、ガスコインの相棒になってしばらくたってから。
俺がいくつかの香水を使い分けるようになった頃だった。
「さぁって、そろそろ出かけるとするか……今から出ると晩飯には間に合うかねェ」
人より大きな身体をさらに伸ばしながら、ガスコインはそんな悠長な事をいう。
時刻は正午を回っている。他の狩人たちと比べれば遅い出勤といえよう。
「バカ言うな、今から出たら野宿だ。野営の準備を怠るなよ」
カバンに寝袋や毛布をつめながらそう言えば、ガスコインは億劫そうに準備をはじめる。
「今日は雨なんか降らねぇだろ? ……テントはなくてもいいよな」
「いや、いるな。今日は山に入る……山の気候が変わりやすいのはお前も知っているだろう? テントはお前がもってくれよ……俺より身体が大きいんだからな」
「あー、はいはい……デカい方が重い荷物を持つってね」
ガスコインは面倒臭そうな顔をしながらも、いつも俺の言う事に従ってくれた。
……ガスコインとコンビを組むようになったのはいつ頃からなのか、正直俺もよく覚えていない。
ただ、気付いた時に俺の背中はガスコインが護るようになり、俺はガスコインの頭脳として彼をサポートするようになっていた。
大柄で猪突猛進。
気性が荒く自分の思い通りにならない事があれば蛮行で押し通そうとするガスコインは実績のある狩人だったが、その気性から多くの狩人に嫌われ、いつも一人で取り残されるように狩りを行っていた。
一方の俺は、決して身体に恵まれてない……。
街を歩く市井の者たちと比べれば「並」の身体だったろうが、狩人として大柄でもなく、目立った筋肉もない痩躯の狩人だ。
身体が小さいぶん手数で獣と対峙していたが、大型の獣となると相手をひるますに至らず大きな怪我をする事も多く、その治療に時間がかかる事もあった。
……ガスコインのように大柄であればもっと楽に狩りが出来るのにと、そう思って彼に近づいたのは腕の骨を折り療養中の事だったろう。
自分勝手で扱いづらい暴君だと聞いていたガスコインだったが、俺がたてた作戦には存外乗り気になってくれた。
御しがたいと言われていたがその実、順序立てて話せばきちんと納得する程度にガスコインは物わかりのよい男だったのだ。
これなら、うまく「操縦」できる。
俺は最初そんな気持ちでガスコインと連むようになっていた。
だがいつしか俺の中から打算が消え、俺はただ「楽しいから」ガスコインの隣にいるようになっていたのだ。
自分の立てた作戦通りにガスコインが動いてくれるのが楽しかった。うまく行かない時も「次があるだろ、次が」と平然と笑うガスコインの笑い声が好きになっていた。気落ちしている時でも酒を浴びるほど飲んで違い愚痴をもらす時間が幸福だった。
だからその日もガスコインとともに、狩りに出かける予定だったのだ。
「さぁ、そろそろ出るぞ。準備はいいかガスコイン?」
俺が問いかければ、ガスコインは慌ててリュックを背負う。
「あぁ、大丈夫だヘンリック……」
慌ててリュックを背負ったからか、ガスコインのマフラーは床に落ちそうなほどひどくずれていた。
ガスコインはあまり目がよくないようで、自分の外見にはとんと無頓着だ。コートにしてもシャツにしても気に入ったものはすり切れるまで着るタイプなのだ。
「おい、ガスコイン」
俺は彼の名を呼び、トントンと喉を叩くジェスチャーをする。
マフラーが曲がっている事を伝えたかったのだ。
「何だよヘンリック? 喉が痛ぇのか?」
だがもとより何かを察する事が苦手なガスコインに、ジェスチャーなんて通じるはずがない。
俺はやむを得ずガスコインの前に立つと、ずれたマフラーを直してやった。
「マフラーが曲がっているって言いたかったんだ……ほら、これで大丈夫だ」
そしてマフラーをなおすと、ポンとその胸を軽く叩く。
そんな俺の身体を、ガスコインは物珍しそうに見ていた。いや、嗅いでいたというのが正しいだろう。しきりに鼻を動かして、俺の身体を確かめているように見えた。
「……ヘンリック、おまえ、香水かえたか?」
そしてしばらく鼻をひくつかせた後、そしてそんな事を言う。
目はあまり良くないガスコインだが、嗅覚は優れている。俺の香水がいつもと違うのなんてすぐわかったのだろう。
「あぁ……敏いな。露天で魔女が作ったという胡散臭い香水を売っていたから、それをな。獣狩りの加護があるらしい。嘘かどうかわからないが、面白いだろう?」
俺の説明もろくすっぽ聞かずに、ガスコインはその臭いを珍しそうに嗅ぐ。
そして。
「……前の匂いよりいいな、気に入った」
そういって俺の肩をポンと叩くのだった。
その言葉に、俺はただ意外そうにガスコインの顔を見る。いちいち俺の香水の匂いを記憶しているなんて、思ってもみなかったからだ。
「香水の匂いをお前が気にしているとは思わなかった」
素直にそう告げれば、ガスコインはやれやれと首をかしげ笑う。
「言ってなかっただけだぜ? そんなに気にする程でもねーと思ってたし……時々えらい甘ったるい匂いの時は焼き菓子が歩いてきたのかと思ったりもしたもんだがな。しかし、どうしてまた香水なんかつけるんだ?」
ガスコインの問いかけに、俺は獣を狩る時の事を思い返していた。
血濡れた武器で獣の皮を剥ぎ、血と脂にまみれて、吐き気を催すような腐臭に包まれて……放っておけば自分も獣の匂いが染みついて、やがて獣になるのではないか。それがただ怖くて、まじない代わりに香水をつけてごまかしていたのだ。
自分はまだ、人間だと。
この香りを自分の人間性、その象徴にしていた所があったのだろう。ちょうど狩人が様式美でシルクハットを被り、仕込み杖で戦うように。
「……嫌いなんだよ、獣の血と脂のにおいが」
吐き捨てるように呟く私を見て、ガスコインは 「ふぅん」 と呟くと、不意に私の身体を抱いてその肩口に鼻を押しつけた。
「なぁっ! 何するんだガスコイン!」
肩を、胸を、腹を……その鼻を押しつけて服の上から匂いを嗅ぐと、ガスコインは笑って顔をあげ。
「……うん、やっぱりそうだ。俺は香水をつけてないお前の匂い、そんなに嫌いじゃないぜ」
事もなげにそう言うものだから。
「……君は、時々……何というか……とんでもない事をするんだな」
身体全体の匂いを嗅がれた俺は、何とも言えない気分となり耳まで赤くなるのが解る。
俺は、ガスコインの相棒だがガスコインが唐突に俺の領域に入ってくるのは、今だ慣れないでいた。
慣れないでいたが……平気で俺の領域に入り、笑って肩を並べるこの男が、決して嫌いではなかった。
嫌いでは、なかったのだ。
・
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結局、目的の狩りが終ったのは日が暮れた頃だったろう。
「あぁー、もう一歩も動けねぇぞ!」
傷だらけになったガスコインは斧ごと横になる。
かなりの「大物」だった。水銀銃も輸血液もあるだけ使い果たし、やっと倒したような相手は久しぶりだろう。
あれはおそらく、獣の病になる以前から輸血液を常習していた罹患者が獣になったものだろう。
そういう獣は、すでに脳が死んでいても心臓が動く限り反射で動き続け、近づく相手を全部淘汰していく。
今回の獣は、そういう獣だった。
無尽蔵の体力で巨大な武器を取り込み縦横無尽に辺りを蹴散らしていく……。
ガスコインがいたからあの巨大な化け物相手に踏ん張る事が出来たが、俺だけだったらきっと太刀打ちできなかっただろう。
改めてガスコインのタフさに感謝しながら、俺は寝転がるガスコインに声をかけた。
「……起きれるか、ガスコイン」
「いや、無理だ。俺はもう一歩も動けねぇぞ」
散り散りになった化け物の残骸を前に、ガスコインは大の字になる。
ひどい戦いだった。ガスコインの身体も傷だらけですぐには動けないのは目に見えていた。
「……輸血液は残ってるか?」
「いや、もう無ぇ……おまえは?」
「俺もないな。残念だが……今日はここで一晩開かそう。今日休めばまた動けるようになるだろう」
不思議な事に、輸血液を使った事のある狩人は常人より早く傷が回復する傾向にある。
ここまで来るのに獣や罹患者は一通り屠ってきた、この場所なら安全だろう。
俺はガスコインよりまだ身体が動くと思い、手際よくテントの準備をした。
「よし、テントの準備が出来たぞ。ガスコイン、寝るなら中で寝ろ……今日の見張りは俺がやる。お前より幾分か体力が残ってるみたいだしな」
ガスコインに声をかけると、返事のかわりに高いびきが聞こえた。
どうやらもう眠ってしまっているようだ。
「……何だ寝るのが早いなお前は! ……そんな所で寝て、雨が降ったらどうするんだ? というか床、おまえ土の上で寝るのか!」
何を言っても叫んでも起きる気配がなかったので、俺は仕方なく眠るガスコインの上へと毛布をかけた。折角テントを作ったが、これは無駄になるだろう。
俺はガスコインの身体が冷えないよう彼の近くで火を焚いて、眠る彼の傍らに座る。
「……見張りは俺がやってやるから……今だけはそう、俺のモノであってくれ」
無意識に、そんな言葉がこぼれた事に自分自身驚いていた。
……ガスコインは、俺の相棒だ。誰のものでもない、俺の相棒。
その意識に縛られて、知らないうちに独占欲、あるいは執着のようなものが生まれていたか……。
「……いかんなぁ、勘違いでガスコインを縛ろうなんて図々しいにも程がある」
俺は自分で自分をいさめた。
ガスコインは誰のものでもない……下手な執着は捨てなければ。
ガスコインは異邦の地からやってきて、そこでは「神父」の立場であったらしい。
そのような立場ならいずれ医療教会から声がかかり、そこの狩人として出世する事もあるだろう。
俺は組織のしがらみは御免だから、医療教会はじめとした大規模な組織の傘下に入るつもりはない。
そうなれば、ガスコインとの相棒も解消しなければならないだろう。
それ以外でも、ガスコインは自分の望む相棒や自分の望む狩りを見つけいずれ別れなければいけなくなる。
……執着するのはよくない。
それに俺は、今のままで幸せなのだ。
ただこうして隣でともに、強敵と戦う。ただそれだけで幸せなのだから。
だから決して執着などするなよ、ヘンリック。
俺は自分にそう言い聞かせた。
それは、自分自身の内にある執着心や独占欲が制御できない事に薄々気付いていたからだろう。
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ガスコインが結婚するというのを聞いたのは、彼と組むようになり幾度も仕事をして……。
それから何年たったのか、数えるのも億劫になってた頃だった。
「ヘンリック、聞いてくれ。俺、結婚するんだ」
テラス席のあるカフェで大柄な身体を小さくし、照れたようにそう語るガスコインは端から見たら滑稽だったろう。
だが俺にとってその報告はまさに青天の霹靂だった。
……その時、俺自身どんな受け答えをしたのかはよく覚えていない。
ただ、そう「おめでとう」とか「良かったな」とか当たり障りのない言葉を伝え……照れた様子で花嫁になる相手がいかに器量よしで気立てがいいか、そんな惚気をただ呆然と聞いていた。
心臓が早鐘のようになり、目の前は緞帳が下りたように真っ暗になる。
そんな中でも俺はただ「冷静なヘンリック」を演じ続けていた。
何を話していたのか全く覚えていないが、一つだけ覚えていた事がある。
それはガスコインが花嫁となる女性と出会った時のエピソードだ。
人混みのなか、彼女はガスコインとぶつかり赤いブローチを落としていった。
ガスコインはそれを広い慌てて彼女を追いかけた……その時に頼りにしたのが、俺の匂いだったという。
何の因果か偶然か、彼女は普段俺が愛用している香水と同じものをつけていたのだ。
「おまえの匂いがしたから、彼女に追いつく事が出来たんだ……はは、お前がいなかったらヴィオラとは出会えなかったかもしれないな」
幸せそうに語るガスコインを前に、俺は笑っていた。
何故、俺は香水なんかつける癖があったんだろう。
何故俺は数ある香水の中から、ヴィオラという女性と同じ香水を選んでいたのだろう。
何故俺は、獣の匂いをガマンできなかったのだろう。
そんな自分をただただ恨み、呪いながら。
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家に帰ってすぐ俺は便所にかけこんだ。
食べたものを吐いて、吐いて、吐いて、ありったけの涙を流し、また吐いた。
幾度も幾度も吐き戻し、すでに吐くものが無いとわかると口から血と小便が混じった液体が流れ出る。
限界まで吐いた後、俺は部屋にある香水の瓶すべてたたき割った。
甘ったるい匂いが室内を包み込み、相容れない香水のかおりが互い刺激しあってまた吐き気を催した俺は、すでに何も吐くものがないのに便所で俯き吐き続けた。
何でこんなに気持ちが悪いのかわからなかった。
何が不愉快で香水の瓶を割ってしまったのかも。
何でこんなに泣いているのかも、その理由がわからなかった。
……とにかく、辛かった。
そう、あの時の感情を一言で表現するのなら「辛い」というのが一番しっくり来るだろう。
俺はとにかく辛かったのだ。
ずっと隣を歩んでいけると、どこかでそう信じて慢心していた相棒が突然奪われてしまったようで……そして二度と同じ道を歩く事が出来なくなるようで……。
ただ、俺は辛かったのだ。
そしてきっと悲しかったのだ。
だから俺はそれらの感情を封じようとした。
封じてしまえば二度と感じなくて済むから……。
自分にそう暗示をかけたからだろうか。
あれから俺は本当に、悲しいとか、苦しいとか、そういう感情に縛られた事はない。
あるいはあの時俺は完全にその感情を、摩耗させ失ってしまったのかもしれない……。
あれから俺は、何があっても泣く事も、苦しむ事も完全に泣くなっていた。
「寡黙なヘンリック」と呼ばれるようになったのは、丁度その頃だったろう。
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ガスコインは結婚しても、なお俺と組み獣を狩る事を好んだ。
仕事の最中も妻であるヴィオラの話をよくしたが、不思議な事に俺はそれに対して何も感じないようになっていた。
ただ「そうか」「よかったな」概ねその言葉をかえせばガスコインは嬉しそうだったから、俺はいつでもそうしていた。
一緒に戦っていて、時々ガスコインの結婚式を思い出す事があった。
特注で誂えた白い燕尾服、隣には金髪の美しい女性がウェディングドレスを着て幸福そうに笑う。ガスコインは彼女の背丈に合わせるよう猫背になって、そっと手をとるのが印象的だった。
……俺では絶対に作る事の出来ないガスコインの笑顔がそこにあった。
そのシーンを思い出すと胸をかきむしるほど痛くなるのだ。
この痛みが悔しさからなのか、悲しさからなのか、むなしさからなのか、俺にもよくわからなかった。ただ、苦しかった。苦しくてどうしようもなく、息をするのも億劫な程だった。
……俺の変貌に、ガスコインは気付いていただろうか。
時々うなされる俺に気付いて 「身体は大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか……?」 そんな事を聞く事があった。
その時俺は決まって、こうこたえていた。
「おまえこそ、こんな阿漕な商売から早く足を洗え……ヤーナムで墓守の仕事を斡旋されていると聞いたぞ。獣を狩らない仕事をして、奥さんを安心させたらどうだ……」
欺瞞だった。
ただ仕事でガスコインと顔を合わすのが怖かったから、そんな甘い言葉で彼を獣から遠ざけようとしたのだ。
だが獣と戦いが命がけであり、またいつ獣の罹患者になるかわからないという恐ろしさをもつのは事実だった。
俺の説得もあってか、ガスコインという狩人の猛者は自然とその仕事から離れ、専らオドン墓地の墓守としての仕事に精を出すようになり……。
俺は狩りの仕事をヤーナム付近からもっと郊外へと変えた。
こうして俺たちは自然と会わないようになり、自然と決別していったのだ。それぞれの人生を歩むという形で。
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もう二度と会うまいと誓ったのは、一度手紙で「会いたい」と言われた時の事だ。
何か火急の用でもあるのかと思い急いで出かけたのは今でも覚えている。
その内心にどこかで、妻と不仲があれば……。
そんな期待をしている自分がいたのは事実だったが、そんな風に考えてしまう自分が本当に卑しい男に思えた。
例えガスコインが妻と不仲になっても、だから何だというのだ。
それで彼が以前のように自分の元へと戻ってきて、以前と同じように狩りをするという訳でもないというのに……。
ガスコインは以前俺たちが良く使っていたテラス席のある喫茶店で俺をまっていた。
懐かしいだの久しぶりだのよくある社交辞令を並べ、お互いの近状を語った後、ガスコインは照れたような笑顔を俺に向けてこう言ったのだ。
「もうすぐ子供が生まれるんだ、娘か息子かわからないんだが……良かったら名付け親になってくれないか?」
冷や水をぶっかけられたような気持ち、というのはきっとああいう時の事を言うのだろう。
その言葉で俺の思考は一気に冷え、まともな考えが出来ない程狼狽えたのだけは覚えている。
「男の子と女の子の名前、どちらでも……どちらでも使える名前でもいいな、なぁ、考えてくれよ……俺とヴィオラで考えているんだが、ちっとも決まんねぇ。お前はいつも何でもすぐに決めちまう、頭が切れる奴だからな……」
あぁ、ガスコインに悪気なんてものはないのだろう。
ただ心から子供の誕生を祝い、そしておそらく俺も心から祝福してくれると、そう信じて頼んできているんだろう。
だがねガスコイン、その思いは重荷なんだ。
俺はもうガスコインの心を背負ってやる事は出来ないし、したくないんだ。
お前に頼られるのが辛いんだ、苦しいんだ。
お前は決して俺のモノになりはしないのだから……。
「はは、そういうのはやっぱり奥さんと一緒に悩んで考えた方がいいと思うぜ? ……案外、一番最初に考えていたやつに決まったりするもんだ」
俺の口は流ちょうにそんな風に動いていたが、心はすっかりさび付いて何も考えられなくなっていた。きっとあの時当たり障りのない言葉で波風たてずやり過ごせたのは、俺の中にこびりついた理性と常識、これまで培ってきた立場などがそうさせたのだろう。
ガスコインは俺が名付け親を事態した事に不服のようだったが、それでも妻とまた考えてみると告げ、後日俺の言った通り 「最初に候補にあった名前にきまった」 という手紙だけ来た。
俺は、その手紙を見ながら酒を浴びるほど飲んで寝転んでいた。
しばらく獣狩りにも出ずにただ、酒を飲んで、飲んで……ひどい体たらくだと誰かに叱られた記憶が漠然と残っている。
だがそうしないと俺という存在が保てないような気がしたから、とにかく俺は酒に溺れた。
いや、あるいは……。
……あるいはとっくに、俺はもう死んでいるのかもしれない。
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狩りは続けていた。
古狩人ヘンリックという名は、狩人の間では有名になっていた。
ガスコインの相棒として覚えているものも多かったが、ガスコインが獣狩りから一線ひいたのもあり今は古参の狩人ヘンリック、フリーの狩人ヘンリックという印象が強いようだった。
あれから俺は夢中に狩りを続けていた。
危険な獣と知っても挑む事が多かったのは、ただ忘れたかったからだろう。
戦っている最中だけは、何も考えずに動く事が出来た。
経験という身体に染みついた動きだけで戦っていた俺は、自然と誰より強く的確に獣を狩るようになり、その姿はまるでミンチマシーンのようだとよく揶揄されたものだ。
……獣にやられたのか、大けがをした男を拾ったのもその頃だった。
放っておけば死ぬだろうと思ったが、一人でいるといらない事ばかり考えてしまうからその男を拾い、治療して、獣の戦い方を仕込んでやった。
獣の戦い方を仕込んだのは、その男が「仇を討ちたい」と渇望したからである。
何でも官憲隊を率いて獣狩りをしたのだが、仲間たちは軒並み獣に喰われ自分も生死の境を彷徨う重傷を負ったのだとその男は言った。
だから効率のよい殺し方を教えた。
男は若く飲み込みもよく、元より体力も気力も俺より勝っていた所に「復讐」という確固たる目標があったからだろう、結果として俺よりずっと強くなっていった。
男はやがて「虫」を獣から見いだし、それを狩るという目標で「連盟」をたちあげた。
連盟には当然のように俺も名を連ねる事になったが、俺はそれで別に良かった。
男……ヴァルトールの見つけてくる獣はいつでも強く強大で、戦いの中にある忘我だけが安らぎとなっていた俺にはおあつらえ向きの居場所だったからだ。
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「腕が折れてますヘンリックさん、戻って下さい!」
誰かが叫ぶが俺はひく事なく相手に幾度も得物を突き立てる。
そうすれば獣は悲鳴をあげ、血と溶岩のまじった飛沫をあげながら崩れ落ちた。
「今だ、頭を叩け! こいつが二度と動けないように徹底的に殺すんだ!」
俺の叫びに誘われるよう、狩人たちは獣を叩く。
だがそれも一時、最後の力を振り絞って立ち上がる化け物を前に、俺は折れた腕でまた武器を振るった。
……いつからだろう、腕が折れても足が折れても痛みを感じなくなったのは。
骨が折れても筋肉を動かす方法を心得て、俺の戦いはますます野蛮になっていった。
痛みも恐れもない戦いは、きっと狩人より獣のそれに近かっただろう。
獣を倒した後、輸血液で簡単な治療をする。
だが輸血液だけですぐに骨がつながる事はない……それでも俺は何ごともなかったように腕に添え木を巻くと、また日常へと戻っていった。
「……腕の骨を折っても果敢に獣へと挑んでいったそうだな、同志ヘンリック」
食事をしてると、ヴァルトールが声をかけてくる。
連盟を立ち上げた頃はまだ俺に対しての気遣いが抜けず、「ヘンリックさん」なんて敬語が抜けきらなかったが、最近はきちんと俺を「部下」として話せるようになってきた。
律儀なヴァルトールにしては良い進歩だと思う。
「腕一本折れたくらいいずれは治るが、獣に喰われた人は戻らん……それなら獣を殺せた方がいいものな、ヴァルトール」
俺の言葉に、ヴァルトールは珍しく困ったような声を出す。
「……身体を大事にしてください、心配しているんです」
本当に心配してくれているんだろう。
だが俺は誰かに心配される筋合いはないと、今はそう思っていた。
「……俺に敬語をつかうなといってるだろ、ヴァルトール。ここでは君が長だ。その自覚をもて」
「ヘンリックさん、俺は本気で心配を……」
「長、他のものに示しがつかんぞ。心配は無用だ、そして話は以上だ」
とりつく島もないと思ったのか、ヴァルトールはそれ以上何も言わず俺から離れた。
その時の俺はそう……誰かに頼られるのも、誰かを頼るのもまっぴらだったのだ。
『頼りにしてるぞ相棒!』
そうやって笑うガスコインを、どうしても思い出してしまうから。
・
・
・
ガスコインが死んだ。
風の噂でそう聞いたのは、獣狩りの日が前後だったろう。
最初はもちろん、冗談だと思った。
ガスコインはオドンの墓守としてヤーナムで一生平穏に過ごせるはずであり、急に死ぬ理由などなかったからだ。
そして次に何故死んだのか理由を聞いた。
事故か病気に違いないとそう信じていた思いは簡単に打ち砕かれた。
ガスコインは死んだ。
獣を狩り、血に酔う世界から抜け出せず、とうとう獣に落ちたのだと。
そうして沢山の獣と狩人を殺し、嬲り、犯し、オドン墓地を血と死体の山にした恐ろしい獣となり、最後は狩人に討たれたのだという。
嘘だと思った。
ガスコインはもう獣を狩る理由がない、それなのに何故獣を狩っていたのだと、ただ疑問しかわかなかった。
それにガスコインは強者だ。
聖職者ではないが、彼ほどの実力者が獣となればかなりの「化け物」になっていただろう。
それを殺せる狩人なんて今のヤーナムにいるはずがない。
嘘だ、嘘だ……嘘にきまっている。
俺は……。
……俺はこの世界のどこかでガスコインが生きているのだと。
そう思う事だけが唯一の存在理由だった……。
だから俺は確かめに行く事にした。
本当にガスコインは死んだのか。獣に変貌し、落ちて、狩人に倒されたのか……。
確かめなければいけない、俺にはその義務がある。
だがそれが事実だったらどうする?
俺は……。
……俺はどうする、どうすればいい。
ガスコインのいない世界で、どうやって生きていけばいいんだ?
震える手を押さえ、誰にも言わず歩み出す。
場所はオドン墓地……ガスコインが管理していた墓地だ。
全て見ればわかる、確認すればいい。
案外ガスコインは元気なまま、俺に話かけてくるかもしれない。
「少し狩人をしてないとすぐ死んだ事にされる、参ったもんだ」
そんな風に笑ってくれるに違いない。
そうでなければ、そうでなければ……。
そうでなければ俺は、何のために生きてきたんだ……。
ただ一欠片の望みをかけて、俺は懐かしいヤーナムへ行く。
願うなら、もう一度友に会えるように。
・
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・
気付いた時、冷たい死の臭いがした。
鴉羽のアイリーン、そして見知らぬ狩人が俺の顔をのぞき込む。
……何を話しているのかわからない。
だが俺は、極めて冷静に「死」にいく自分を受け入れていた。
俺は……ガスコインの死に、感情の制御などできなくなり……その暴走した感情は狩人が狂気に落ちるきっかけに充分なり得た。
きっと人を殺すのも躊躇わない死神になるのを、この二人がとめてくれたのだろう。
身体が冷たくなるのがわかる。
微かに感じていた血の臭いも薄らぎ、目も見えなくなる。
狩人として生きてきた俺は……。
……どうやら、狩人として死ぬ事は出来ないらしい。
だがそれでいい。
仲間も殺さずに死ねればそれでいい。
ましてやガスコインが死んだこの場所で眠れるのなら、俺の最後の幸福といえるだろう。
跪く見知らぬ狩人は、俺の目を閉じ囁いた。
「せめて、あなたの愛する人と同じ夢が見れるように……」
あぁ、そうだな。
夢を見れるなら、ガスコインとともに狩人をしていた夢を見たい。
そう告げようとするが、喉からひゅうひゅう音が出るばかりだった。
もう、終わりだ。
次はない。
だがもし次があるのなら、今度は……。
……今度は告げよう。ガスコインに、お前は最高の相棒だったと。