>> 閉じた世界で





 今日もまた彼は泣いていた。
 全てを成し遂げ、今ここに安らぎがあるべきなのに。

 それでも彼は泣く事しか出来ないでいた。


 「……母さん。母さん? ……お母さん」


 深淵より吹き荒ぶ風のような暗く、寂しい声が、俺の脳髄をかき回す。

 日差しの入らぬこの部屋はいつでも薄暗いが、もう幾日も窓を開けてないからだろう。
 部屋はすっかり湿っぽくかび臭く思えた。

 だが、喚起のためにとファンをまわしたところで、換気口に鼠の死骸でも詰まっているのだろうか。
 饐えた肉のにおいが立ちこめる為、不快は増すばかり。
 そんなもんだから、何時しか換気扇も使わなくなっていた。

 沼の底に沈むヘドロのように淀んだ空気漂う室内に、ただ一つ置かれたソファーにこしかけ、俺はドアの方を見る。

 錠前が、一つ。二つ、三つ……あわせて5つ、鎖に繋がれ内側から固定されている。
 内側から固定されている、という事はこの錠前をつけたのは他ならぬ俺自身であるはずで、錠前の鍵も室内にあるはずなのだ。

 だが、この部屋の何処にも鍵は存在しない。
 あるのは巨大な穴と、脈打つ壁と、誰のものとも思えぬ呻き声。
 そして。


 「……母さん?」


 母を乞い彷徨う、一人の少年その影だけだった。

 部屋にある巨大な穴は、今ではない何処かに繋がっていて、そこで俺は少年と出会った。
 ……彼の名を、俺は知っている。
 その過去も……何があって、何をしてきたのかも。

 そして、彼が俺の死をもって全てを終わらせようとしている事も。

 窓はまるで運命を嘲笑うが如く、今日も揺れている。
 外に風が吹く様子は見られない。

 床にはまるでホースのような管がいくつも伸び、心音にあわせて脈打っていた。
 これは踏みつけると下水のようなニオイのする黒い液体をまき散らす。

 壁は人の顔にも似たヒビが幾つも浮かび上がり、始終なにか囁いている。

 引っ越してきたばかりの頃はこの部屋だって何の変哲もない。
 少し日当たりが悪いだけの、古ぼけたアパートだったのだが……。

 壁はまるで臓腑のように蠢き、僅かに窓から見える世界も霧がかかったように淀んで見える。

 そう、ここは胎内。
 今この部屋は一つの胎(はら)となり、母となろうとしていた。


 「……お母さん」


 そんな中、少年は母を乞う。
 いずれこの場所が自分を生み、育み、慈しんでくれるものだと信じて。

 ……だが、ここに何がある。
 窓が嘲笑い、壁は素知らぬふりをして自分の話ばかり。

 汚水をまき散らす床のパイプだって、ノイズのはしるテレビだって、彼に何を与えてくれるというのだ?
 愛情? 思慕? そんなものがこの世界にあるというのだろうか。
 彼の望むものが……。


 「ウォルター」


 名を呼べば少年が、驚いたように顔をあげる。
 ……自分の名を、誰かが呼んでくれるとは露ほども思わなかったのだろう。

 その瞳にまだ穢れはなく、この不愉快な胎内とは裏腹に彼は無垢で美しい。


 「……お母さん?」


 向けられた瞳は穢れこそ知らないものの、不安の色が強く見える。
 俺は静かに首を振ると、少年の前へと跪いた。


 「残念ながら、お前の母さんではない……」
 「母さん……じゃない……」


 期待の色に輝いていた少年の瞳はすぐに落胆の色へと変わる。
 だが仕方ない。
 俺は男なのだから、この子の母親になってやる事は出来ない。


 「……だったら、母さんは何処。母さんは。母さんは?」


 不安げに呟きながら、少年は何度も何度も、この異世界と化した室内に目をやった。
 だが本心では、彼もわかっているのだ。

 彼は少年であるが少年ではない。
 無垢ではあるがその指先には乾いた血がついている。

 ……母はいまこの世界に宿ろうとしていた。
 だが、そうであっても彼は救われない。

 そういったものがココにはない事。
 彼は盲信する事でそれを忘れ、狂気の中に孤独を置いてきたつもりだったのだろうが……本当はわかっているのだ。

 この世界でも、自分が愛されなどはしないという事に。


 「……俺はキミの母親ではない。名前は、ヘンリー」
 「ハリー?」
 「いや、ヘンリーだ。ヘンリー・タウンゼント……キミの母親でもなければ、父親でも、兄弟でもない」


 俺の答えで、少年は泣き出しそうな顔をする。
 無理もないだろう。
 彼が何を犠牲にしても求めていたものが、まだここには無いのだから。

 そう、彼は今でも迷子の少年なのだ。
 遠い昔、暖かな手から離されたまま、一人きりで暗闇を歩き続けるそれだけの……。


 「だったら、お母さんは。お母さんは何処、お母さん……ぼくはね。ぼくは……」


 彼はただ一つほしいものがあった。
 その為に生き続け、死にたくなるような屈辱にも耐え、その為だけに、あんなにまで残虐になれた。

 その成果は今、実ろうとしている。
 だが……その実りは必ずしも彼の求めるものでは無い事を、俺は知っていた。

 ……今、もし彼が求めに答えられるのだとしたら、それはきっと俺だけなのかもしれない。
 そして、俺は……その覚悟がある。


 「ウォルター、俺はお前の父でも母でもない。だけど……」


 俺はきっと家族になれる。
 お前のほしかったもの、全て与える事が出来るから、だから。

 震える少年の身体を抱いて、俺はその耳元で囁く。


 「……だからもう、俺で終わりにしてくれ。俺は、離れはしないから」


 少年の目から、大粒の涙が零れ出す。
 抱きしめられた暖かさに戸惑っているのだろう。

 俺は少年の涙を唇で拭うと、そのまま頬を撫で、鼻に触れ……その小さな花弁のような唇に、優しく吸い付いてやった。


 「へんりー……」


 柔らかな唇は触れ合う事で一瞬、びくりと身体を震わせたが、抵抗はない。
 そう、彼は少年だが少年ではない。大人のするキスの意味も、知っているのだろう。

 だが知っていて彼はそれを受け入れた。
 俺を受け入れる事。
 それが、儀式を不完全にする事を知っていながら。

 俺の身体が内側からじわり、熱くなっていくのが分かる。
 世界が歪み閉ざされていくのも。

 ……自分が歪な何かに浸食される感覚が内からこみ上げてくる。
 俺はもう「壊れる」のだろう。

 それは死とも違う何かだ。
 人間とも、化け物とも、生者とも死者とも違う何かに、俺はなるのだろう。

 それは死よりも恐ろしい事。
 信仰も、道徳も、何もかも欺いた道なのだと思う。

 だが……。


 「へんりー……ヘンリー、ヘンリー。へんりぃ……」


 少年はか細い腕で俺の身体を抱き返す。

 脈打つ壁も。嘲笑う窓も。
 まるで俺たちには無関心なように自由に蠢く中、俺は少年の身体をつなぎ止めるよう、ただ泣き出す彼の涙拭ってやっていた。

 僅かに鉄錆の味がする、業深き、だが無垢な少年の涙を。






 <それは閉じた世界の中で。(戻るよ)>







 「オマケ:ショタウォルターとヘンリーさんと」


 壁は蠢く。
 床は脈打つ。

 すでに怪物の臓腑と貸したこの部屋で。


 「へんりー、ごはんできた! これ!」


 今日もウォルターは穏やかな笑顔を見せていた。
 皿にはそのへんの壁から切り取ったなんだかわからないものが乗せてある。


 「ごはんってなぁ……」


 この部屋から出られなくなってどれくらい時がたつのかわからない。
 実際、おそらく俺は現実の世界から消えている、幽霊のようなものなのだろう。

 腹もへらない便利な身体になってもいるし、火も通ってない何だかわからないものは食べたくない。
 (そもそも、まだ動いているのだ)

 だが。


 「おれね、すげーがんばって収穫してきたんだよ! へんりー食べると思って! なー」


 眼前のウォルターは屈託なく笑う。
 その手は血塗れ、業を成す時は大人と同等かそれ以上の力はあるのだろう。

 俺だって手をやく蠢く瘤たちも恐らく素手で引きちぎってきたのだ。
 何より、この笑顔の前では断りにくい。


 「……わかった、キッチンからナイフとフォークをもってきてくれ」
 「はーい!」


 ウォルターはわらって台所へと向かう。
 俺はソファーに座ると、蠢く瘤をつまみあげる。ぎょろりとした目玉がこちらを向いていた。

 何て悪夢の世界だろうと思う。
 何て馬鹿げた部屋があったものだとも。

 だけど。


 「もってきた! ふぉーくと、ないふ!」


 隣にいるウォルターは幸福そうに笑う。
 ……これでもう悪夢の輪廻が終わるのなら、この笑顔の傍らにいるのもわるくない。

 部屋は相変わらず陰湿な空気ばかりはこんでいたが、それでも俺は幸福だった。