事の発端は正午をすこし過ぎた頃だったろう。
大抵の英国民であればレストランにでも入りフィッシュ&チップスに舌鼓を打つ頃合いに現れたあの「見習い刑事」が全ての元凶だったと言える。
「たいへん! 大変なの聞いてる!? 事件なんだから、とにかくすぐに来て! あたしと、トビーが発見したまだ誰も見つけてない大事件よ。どうせバンジークス卿、法廷に立つんでしょ。だったら今から捜査しなくちゃ! ほら、早く早く!」
ノックもせずに現れたのは、ジーナ・レストレード……。
グレグソンの「刑事魂」を次いだという意味では、彼の忘れ形見とも言えるだろうまだ年若い少女だ。
見習い刑事としての彼女の仕事は新聞の買い出しやクリーニングに出したアフタヌーンコートをとってくるような「グレグソンが個人で雇っているお手伝いさん」程度のモノだったため、捜査方法はデタラメ。刑事のイロハをきちんとたたき直さなければいけないほど自由奔放な上、手癖も悪いというくせ者だ。
だが、バンジークスはそんな彼女のまっすぐな気持ちが法廷を揺るがし、一つの真実を見つけ出す事に多いに貢献した事を知っている。
そんな彼女の一途さや素直さは認めていたから、グレグソン亡き後は何かと面倒を見る事が多くなっていたのだ。
また、彼女は「死神」であるバンジークスによい感情こそ抱いていないものの物怖じする事なく接していた。
……あまりに色々な真実を目の当たりにし、自分の信念すら覆され、苦しい立場に追い遣られる事が多くなったバンジークスにとって、彼女のように感情豊か、かつ情に脆い明朗快活な少女が傍にいるというのに励まされているのも事実だった。
だからその日も彼女のいう、本当に事件なのかも怪しい話を聞く事にした。
どうせ他の刑事たちには相手にされず、自分の所に泣きついてきたのだろう……そう思い軽い気持ちで聞いているうちにジーナの語り口調はどんどんエキサイトしてくる。
「それで、その怪しい奴は闇市で有名な通りに消えて……あたし、追いかけようと思ったけどすぐにバレちゃって……あーもう、悔しい! 大きな男の人がいればあんな場所でも舐められないって自信があるのに……あっ、そういえば、バンジークス卿、最近は大きな仕事をしてないんですよね」
「……ん、あぁ、まぁ……そうだな」
自ら被告席に立ち、全ての真相が明らかになった後、バンジークスの立場は極めて危うかった。
それは彼自身が10年前、英国でおこった事件に深く関わる立場だったというのもそうだし、「倫敦の死神」として間接的ながら、長らく深い闇に染まっていたのもあっただろう。
だがそれ以上に、検事として優秀なバンジークスが法廷を去る事を望まぬ者が多いのもまた事実で、結局のところその立場や権限は極めて不安定ながら、彼は未だ検事の席に着いていた。
「それだったら、今からあたしと一緒に! 行こう、闇市!」
「……いや、今からでは休憩の時間も終ってしまう。それに」
「どうせ大きな仕事じゃないんでしょ! それより、ぜーったいアタシの見つけた奴の方が大事件だから! ……じゃあ、馬車を呼んでくるから、いい! 逃げたら絶対に許さないんだからね!」
……かくして、バンジークスは半ば強引にジーナに馬車へ押し込まれた。
彼女は馬車の料金も払わず、よく闇市が開かれるという事で有名な路地裏へ向かうと。
「それでは、調査開始−!」
バンジークスに敬礼をし、愛犬(確かトビーという名前だったか)を放してその後を追い、路地から路地へと抜けて……そのまま、人混みへ消えてしまった。
バンジークスの服と彼女の服では、動きやすさが違う。
普段から装飾の多いコートをまとっているため歩くたびにジャラジャラと小銭のような音がするバンジークスの姿は、安物を求めて市場を廻るような人々が集まる場所ではあまりに目立ちすぎた。
「全く、ジーナ・レストレードめ……どこにいったというのだ」
人混みに紛れて進み、覚えのない裏路地を抜け、迷路のように入り組んだ石畳の上を闊歩するのは、霧の深い倫敦ではあまりに困難だった。
ジーナはこの辺りに来るのも慣れているようだったが、土地勘のないバンジークスはなおさら不自由しつつ、身体を小さく丸めながら人の間をすり抜ける。
(ジーナ……どこにいった。ここは物騒だ、何もなければいいが……)
そう思いながら赤煉瓦の建物が角を曲がったその時、バンジークスの前に「出来れば会いたくなかった男」が現れてしまったのは皮肉な偶然と言えるだろう。
「やぁ、やぁ大法廷の死神クンじゃないか! 久しぶりだね、元気だったかい?」
両手を広げバンジークスを迎え入れるような大仰な仕草をするのは、シャーロック・ホームズ……この大英帝国を良くも悪くも騒がしている自称・名探偵だ。
彼の活躍は大衆向けの娯楽小説として広く出回っているらしく、彼の活躍を知る英国人は多い。
だがそれも所詮、娯楽小説での活躍だ。
小説の中で僅かなヒントを元に鮮やかに事件を解決する……といった活躍を見せる事はあまりない。
むしろ、事件を引っかき回して現場を散々混乱させる事の方がよっぽど多いという事を、バンジークスはよく心得ていた。
だが同時に彼の持つ洞察力、観察力、推理力が人並み外れて優れている事。
財界や外交などでも多くの人脈(コネクション)をもち、裏で手を回し醜聞が表に出るより以前に消し去ってしまうような事も「やってのける」事もよく知っていた。
……実際、彼の推理ととっさの機転、そして人脈がなければアソーギ・カズマにはもっとひどい運命が待っていたに違いない。
最も、今自分の傍らで「検事」としての仕事を学ぶというのはその頃から考えても、奇妙な縁と言えようが。
「……どうした、名探偵。今はおよびではないんだがな」
バンジークスは露骨にイヤな表情を向けた。
検事局にいる大概の連中はこのバンジークスの不機嫌な顔を見れば身体を縮めて逃げ出す。だが、ホームズはその顔がさも面白いといった様子で笑うと。
「いやいや、どうしたと聞くのはこちらだよ死神クン……ぼくの推理が確かなら一つ! 完全に言える事がある……君はいま、非常に困っている。そうだろう?」
まさしく今の心境を言い当てられ、バンジークスは僅かに表情を崩す。
認めたくないがその通りだったからだ。
「そう、その動揺が全てを物語っているのだよ死神クン……そもそも、ここは闇市も行われる治安のよくない裏路地だ。そこに君のように、曲がりなりにも一流貴族がいるのはいかにも不自然。そうだろう。という事は、君は一人でここに来たワケではない……誰かに連れられてここに来た、と考えるのが普通だろう。そう、つまり君は【誰かに連れられて強引にこの場所に来た】というワケさ」
図星だ、それは見事にあたっている。
ホームズの推理は、普段は相棒にサポートしてもらわなければ思わぬ方向へと進んでいく事で有名だが、今日は地に着いた推理が出来ている。よくやるものだと、バンジークスは内心感心すらしていた。
あるいは、普段相棒がいる時のホームズは相棒に甘えてしまい突飛な推理をわざとしているのかもしれない。
というのは、勝手な憶測だろうか。
「さぁ、では次に誰が君をここに連れてきたか、だ……以前、ミスター・ナルホドーの尽力により大英帝国の闇は概ね取り払われたといってもいい。しかし、死神クン。君のそのあだ名は健在だし、実際この10年の君はまさしく死神であった……そんな君を、わざわざさそうような物好き、そんなに居ないんじゃないか」
「……物好きというのはいささか気分が悪いが、否定はせんよ」
「そこで考えられる候補は、大きく分けて二人……君の下で検事としての手ほどきを受けているアソーギ・カズマ……ナルホドーの親友である彼ならそう、立場上君と付き合う機会も多いだろう。だが、今回その線はナシとしよう。理由は【時間】だ。今の時間を見てくれ! 英国人ならアフタヌーンティーを楽しむ時間であり、検事なら職場できちんと法廷の準備をする時間のはずだ。真面目で勤勉なミスター・アソーギがこの時間仕事を抜け出して闇市へ来るというのは考えづらいだろう。来るとしたら仕事の終った夕方から夜にかけてが普通だろうからね……だとすると、君に気楽に話しかけ、ここに連れてきた人物はただ一人……そう、グレグソン刑事にかわり君が何かと世話を焼いているせいで妙になついてしまった彼女……【ジーナ・レストレード】こそが君をここに連れてきた張本人だ!」
どうやら、今日のホームズはとことん調子が良いらしい。
その推理に穴はなく、バンジークスは腕を組むと。
「その通りだ。事件だ、といわれつれてこられてたが、勝手にどこかにいってしまい、はぐれて探すのに難儀をしている所だ……」
素直に、その現状を告げた。
事件だと言われ裏路地につれてこられた事、そこでジーナとはぐれてしまった事、探しても見つからず、土地勘のない場所で逆に自分が迷い初めている事……。
全てを告げながら、今の時間がすでにアフタヌーンティーの頃合いになっている事にも驚いていた。
ここに来たのは昼過ぎてすぐだったはずなのに、思った以上に時間は過ぎているようだ。急いで探さなければ。彼女に何かあったとしたら、グレグソンに申し訳もたたない。
「なるほど、そういう事ならこの名探偵の力を借りてみないかね? 今ならたった家賃分で! その人捜しを解決しようじゃないか。いいだろう? ウチにはアイリスがお腹をすかせてまっていてね……」
……確かに、自分は土地勘がない。
一方のホームズは、いつも倫敦が雑踏をフラフラしているような男だ。路地裏に自分の情報屋として世話をしている子供たちも何人かいると聞く。
胡散臭いが、信頼できる相手といえよう。
「……それでは、悪いが依頼を受けてくれないだろうか。貴公の言う値段で仕事をしてもらいたい……ジーナ・レストレードを保護して、私の所までつれてきてくれ」
「了解しました、ミスター・バンジークス」
ホームズはわざと仰々しい礼をする。
そしてずっと隣にいた少女の背中を、ぐっとバンジークスの方へと押しやった。
「では、待ち合わせ場所はベーカー街のぼくの下宿でいいだろう。アイリス、馬車を呼んでこの御仁を我々の下宿に案内してくれたまえよ」
ホームズに言われ、隣に立っていた少女は屈託ない笑顔を向ける。
「あっ! 死神クン! ……わかった、ホームズくんはどうするの?」
「ぼくはジーナくんを見つけたらすぐに帰るさ、なに。君たちがアフタヌーンティーを終える頃にはきっちり戻ってくうつもりだから、そうだね……アイリス、君特性の香草茶(ハーブティー)をたらふくご馳走してあげたまえよ」
「はーい、まかせてホームズくん! それじゃ、一緒に行こう、死神クン!」
かくして、バロック・バンジークスはなし崩し的にホームズが下宿に連れて行かれる事となった。
目的地であるベーカー街はこの裏路地から思ったより近く、馬車で5分も走れば到着する
「今までは屋根裏部屋になるほどくんと、すさとちゃんが住んでたからみんなでハーブティーを飲むのが楽しみだったけど、最近はホームズくんも忙しくてなかなか時間がとれなかったから……今日は腕によりをかけて美味しい香草茶(ハーブティ)をご馳走してあげるからね!」
アイリスと呼ばれた少女のモチベーションは尋常じゃないほど上がっているようだった。
何でもグレグソンが言うには、彼女こそが名作「シャーロック・ホームズ」を書いている作家で、父(と思っていた相手)が医学博士だったから、という理由だけで医学博士になってしまったという天才少女なのだという。
しかし、その小柄な身体と仕草はやはり10才の少女そのものに思えた。
(だが、名探偵の部屋に入る事になるとはな……)
バンジークスはどこか居心地悪そうな顔でソファーへと腰掛ける。
この部屋は、半分がホームズが利用して、残りの半分をアイリスが仕様しているようだ。日の差した窓辺はいかにも少女の好きそうなロココ調の棚やティーセットが綺麗に並べられている反面、ホームズが使っているとおぼしき机には資料とも玩具ともとれない奇妙な「モノ」たちが今にも崩れそうにひしめき合っている。
「まっててなの! 今、すぐにあったかーい紅茶(ハーブティ)をいれるからね、<<死神>>クン!」
目の前にいる少女は顔いっぱいに笑顔を浮かべながら、カチャカチャとティーセットを並べている。
ティーポットにかわいらしい黒猫があしらわれた、いかにも少女のお茶貝らしいチョイスだ。
ネコのティーポット……。
それを見て、バンジークスは何とはなしに昔の記憶……まだ兄がいて、兄嫁がいて……時々時間がある時に3人で開いたお茶会の事を、思い出していた。
あの時、兄嫁はよく見るとティーカップの取っ手が猫の尻尾になっているかわいらしいカップを使っていたのだ。
『それ、可愛いですね。お義姉(ねえ)さん』
口べたながらもそれを褒めると、彼女は照れたように笑いながら囁くのだった。
『そうなの、バロックくん。私、本当はネコが好きで……でも、旦那様は大きな犬を飼ってらっしゃるでしょう? バスカビルの家でもずっと犬を飼っていたから、犬を飼う事に不満はないけど……一度でいいから、ネコを二匹飼ってみたいなって、そう思っているのよね』
はにかんだように笑う彼女の顔は、果たしてどんな顔だっただろうか……。
もうずっと、遠くにあった出来事のように思える。
10年間、兄を失いその亡霊を追いかけて我武者羅に法廷へ立ち、死神として君臨していたこの時間は、彼に多くの幸せを忘れさせるのに充分な時間だったようだ。
「はい、焼きたてのスコーンだよ! 手作りのマーマレードと、ブルーベリーのジャムがあるからそれと一緒に食べるとほっぺた落ちちゃうくらい美味しいからね! ……紅茶は今ブレンドするからまってて! 女王様も大喜びして飲んでくれた、アイリス特性のブレンドなの!」
「あぁ……楽しみにしている」
バンジークス卿は心ここにあらず、という生返事をしてまた居心地悪そうにソファへと腰掛けた。
今ごろホームズは、ジーナの居所が手がかりを見つけているだろうか。存外に仕事が早い奴だ。案外本人をもう見つけて、辻馬車に乗せている最中かもしれない。
本当に、アフタヌーンティーが終る頃に全てが終ってくれればいいのだが……。
バンジークスはそう思いながら、アイリスのすすめ通りたっぷりのブルーベリージャムといっしょにスコーンを口に運ぶ。
それは素朴だが、香ばしいくどこか懐かしい気持ちにさせた。
……今し方、久しく忘れていた兄嫁の事を思い出したからだろう。郷愁の思いが募っているのかもしれない。
バンジークスは、そのスコーンが「懐かしい味」を思い出させた、その郷愁からくるものだと決めてしまう事とした。
だがどうしてこの一欠片のスコーンがこんなにも懐かしく思えるのだろう……。
「お待たせしましたー! アイリス特性、ブレンドハーブティだよ! たっくさーんめしあがれ!」
困惑しているバンジークスの前に、澄んだ琥珀色の紅茶が鼻孔をくすぐる。
その芳香で、彼は完全に理解した。
……それは、失われた10年前の時。
兄と、兄嫁と……3人で囲んだアフタヌーンティーの情景……。
このハーブティは、彼の兄嫁が好んで煎れたブレンド、そのものなのだ。
一口のんで、さわやかなジャスミンの香りが口いっぱいに広がる。
『自分でブレンドしてみたの初めてだから……口にあうかしら、バロックくん?』
兄嫁の優しい声が、遠き記憶を呼び覚ました。
あの時は皆笑っていて、それまで召使いに紅茶を入れさせていた兄嫁が、急にハーブティに凝りだして、自分で煎れるようになった時は不躾な召使い連中は「どうせお嬢様だ、3日もすれば飽きる」と陰口をたたかれていたようだが、兄嫁ののめり込み様はなかなかで、気付いた時は自分で庭を弄り、幾つかのハーブを植えるようになっていた
時々、とんでもない味のブレンドが生み出され兄や自分を困惑させる事もあったが……。
……笑っていた、皆。
幸せだった……。
「どう、おいしい? 死神クン」
眼前の少女は、ただ無邪気に笑う。
脳裏に浮かぶ女性もまた、無邪気にそう聞いたのを思い出した。
『どう、おいしい? バロックくん?』
義弟に「くん」をつける時はご機嫌を伺っている時だ。
バンジークスはしばらく目を閉じると、不器用に笑って見せた。
「あぁ……美味しいと、そう言わせてもらおう。カモミールと……ジャスミンだろうか?」
「すっごーい! よくわかったね。正解! 正確には……」
「……ジャーマンカモミール、だな」
「すっごーい! すっごーい! 死神クン、ハーブに詳しいんだね! そう、ジャーマンカモミールとジャスミンをあわせると、すっごくさわやかなジャスミンの香りが楽しめるの! ……ふふ、ホームズくんもいつも美味しい! としか言わないから、わかってくれるの、嬉しいな」
少女は屈託なく笑うと、喜びで小さく飛び跳ねる。
……あぁ、そうだ。兄嫁にはそんな無邪気な、少女のような所があった。
そして兄は、そんな妻を愛していた……幸せだった、間もなく子供も産まれる予定でいくつも名前の候補を考えていた日々が今は昨日の事のように鮮明に思い返せる。
バンジークスは言葉に詰まる。
……アイリスは、彼の兄嫁によく似ていた。
何という偶然か……。
……血が引き寄せたとでもいうのか。彼女もまた兄嫁と同じように紅茶を愛し、ハーブティーを愛し……幸福な時間を作っていたのだ。
彼の兄嫁が、かつてそうしていたように。
「……ご馳走になった。世話をかける」
「いいのいいの! あたしもね、ハーブの話が出来て、すっごく楽しかったよ!」
アイリスは嬉しそうに飛びはねながら、彼の周りに絡みつく。
「……またハーブティーの話がしたいな。ね、死神クン! … …また、アイリスのアフタヌーンティーに付き合って欲しいの」
……断るのが彼女のためなのだろう。
探偵と検事が連んでいると思われるのも喜ばしい事ではない。
頭ではそう理解(わか)っていたが。
「あぁ……いずれ」
彼は微かに笑っていた。
彼女の手から生み出される過去の、懐かしい記憶……ただ何も知らず、幸福だったあの時間を思い出させてくれるハーブティーと、それを生み出す少女を静かに見守っていたかった。
程なくしてドアが開き、無数の声と足音が洪水のように流れてくる。
「あ、バンジークス卿! ずるい、アイリスのお茶を先に飲んじゃうなんて!」
勝手に連れてきたくせに、探し出されたお礼もなくいきなりずるいと言い出すジーナ。
「どうだい、ぼくの推理は馬鹿にならないだろう、死神クン」
名探偵は得意げな顔をしてコートを脱ぎ、帽子を机へ乱暴に投げながら 「アイリス、ぼくにも一杯。仕事が終った後のご褒美をくれるかな」 そんな事を言って笑う。
アイリスは幸せそうに笑いながら 「任せてなの! とびっきりの、煎れるからね」 そう言いながらティーセットを準備をはじめる。
彼女の周りは暖かな笑顔が、包み込むように溢れていた。
「……迷惑をかけたな、報酬だ。さて、ジーナが無事に見つかったのならもういいだろう。失礼しよう」
バンジークスは最初に取り決めた報酬にいくらか色をつけてホームズのポケットへねじ込む。
「いいのかい? ぼくは構わないけど、最初の取り決めより随分と多いみたいだぜ」
「あぁ、美味しい香草茶(ハーブティ)の礼だと思ってくれて結構だ」
「せっかくぼくが来たのだから、バイオリンの一つでも聞いてほしかったものだがねぇ」
「いや、それこそ遠慮しておこう。元より私は人が多い所は苦手だし、ジーナも私がいてはくつろげないだろうからな」
テーブルの上におかれたスコーンを頬張るジーナを見ながら、バンジークスは密かにその下宿を後にした。
部屋から出れば倫敦は相変わらず霧が濃く、街は賑やかだが誰もが誰も無関心に石畳の上を行き交っている。
バンジークスは今去ったばかりの、あの下宿を思い返していた。
暖かな紅茶、穏やかな会話、優しい笑顔。
アイリスはあの中で、ゆっくりとした時間を過ごし成長していくのだろう。いや、是非そうあってほしい。
この霧に包まれた倫敦のどこかで幸福に笑っている。
バンジークスはそれを祈らずにはいられなかった。