>> だから彼は影に誓う。





 あの坂道を上ればいつも甘い匂いがする。
 一流ホテルで修行をつんだというパティシエが、今日もケーキを焼いているからだ。

 ケーキよりクリームブリュレをいい色合いに焼き上げるパティシエは、今日も変わらずあの甘ったるいクリームを飽きる程にのせたケーキを焼いているのだろう。

 変わらない坂道のかわらない光景と、かわらない匂いの中、ただ一つだけ変わっていたのは傍らにある影。


 『おい、まてよ。ミスタぁ!』


 子犬のように足下にまとわりつくように絡む、あの小柄な少年の影が、声が、もう何処にもない事だった。
 坂道を上り、道沿いにあるライトを背もたれにして瞼を閉じれば、ほんの数日前まで傍らにあった日常が鮮明に思い出される。


 「おい、ミスタまてって言ってるだろ。何だよ、急ぎすぎだって。俺をおいていくなよな!」


 置いて行ってる訳ではない。

 あいつが……。
 ナランチャの奴が、路上に並ぶ出店や店先のアクセサリーなどに気を取られてその度に立ち止まるから、勝手に遅れて歩くだけだ。


 「おい、聞いているのかミスタ! おいっ、おーい」


 聞いているも何も、聞こえないふりをするのが難しい程の大声だ。
 聞こえない訳がない。


 「おい、いい加減にしろよナランチャ! まったく……置いて行かれたくなけりゃ、もっと急いで歩け。今日は楽しいオカイモノの日じゃねぇんだぜーホント……」
 「わかってるって! ……あ、何だろあれ。なー、ミスタ何だろうな、あれ! すっごい目の光る、猫のボールペンが売ってるんだけどさー!」


 聞こえている事を示す為にわざと大声で返事をするが、ナランチャの興味はすでに他にうつっており、別の店へと引き寄せられる。

 言っても無駄だったか。
 ミスタは内心、嘆息をつくと振り返ってさらに歩みをすすめる。


 「あ、まてよミスター。ひっでぇぇ、また俺の事置いていったし!」
 「だから、俺は置いていってねぇって言ってるだろ、お前が勝手に網にかかってるだけだ!」

 「非道いのはかわりないだろ。罰として、ほら……あそこのケーキ、かってくれよ、な!」


 全速力で坂道を駆け上がり、ミスタの足下に絡みついて、とびっきりの笑顔を見せてケーキ屋によるようせがむ。

 クリームブリュレならまだしも、あんな甘ったるいだけのケーキを買ってどうするんだ。
 そうは思うが。


 「な、買って買って、買ってくれって。後で、ちゃんと金払うからさー、今おれ、持ち合わせが全然ないんだよー!」


 足下でまとわりついて絡みつくナランチャの仕草は少々邪魔だと思いはじめていたし、後で金が返ってくるなら出してやってもいいだろう。
 それほど高い買い物でもない。


 「ちっ、仕方ねーな、ついてこいよ。好きなの選べって」
 「え、本当に買ってくれるの!?」

 「おごりじゃ無ぇぞ、貸しにしておくだけだからな! ……幾つ欲しいんだよ、ほら」
 「4つ!」

 「ふざけるな! そんな縁起の悪い数やめとけってのっ……5つだ! 3つでもいい、だが4つだけは駄目だ……いいな?」
 「じゃ、5つ! 俺と、ブチャラティと……フーゴとアバッキオに。残りの一つは俺が食べる!」

 「俺の分が無いだろうが、どういう事だ!?」
 「えへへー……ありがとうな、ミスタ! ごちそーさまっ」


 あの口振りからだと、本気でミスタの分は残さずに二つのケーキを頬張る勢いがあるが、無邪気に笑うナランチャの笑顔が傍らにあるのは悪くない。

 ナランチャは、本当にケーキを買って貰えた事が嬉しそうに笑っていた。
 その幸福な微笑みが傍らにある事が、ミスタもまた何となく嬉しかったのだ。


 「ありがとなっ、ミスタ。この借りは必ず、何かで返すからさ!」
 「本当かぁ、オイ?」

 「ホントだって、俺はミスタと違って嘘つかないから……よし、早く帰ってみんなでケーキ食べよう、な!」


 ケーキの入った箱を頭上に掲げる姿を何となしに眺めているミスタの手に、暖かな指先が触れる。


 「ほら、何やってんだよミスタ。早く帰ろうぜ、皆の所にさ」


 もうここにはないはずの、記憶だけの指先。
 それなのに何故だろう、握った指先が不思議と暖かい。

 まるで本当にナランチャが、この指先を握って今でも、あの笑顔を向けて「帰ろう」と言っているかのようだ。


 「ナランチャ……?」


 目を開ければそこに、見知った顔が立っている。
 長い睫毛にゆったりとしたウェーブの残る髪。


 「どうしたの、ミスタ?」


 そこには鞄を掲げたトリッシュの姿があった。


 「な、何だ。トリッシュか……どうしたんだ、一体?」
 「それはこっちがした質問よ、ミスタ。何こんな所でぼぅっと突っ立っているの?」

 「こんな所……か」


 確かに昼下がり、人通りの多いこの路上で見知った仲間が黙って目を閉じ物思いに耽っていれば、何事かと思うのだろう。
 だが、失った彼の持つ日常、その欠片に思いを馳せていた事を、どう彼女に説明していいのか解らず、ミスタは愛想笑いで誤魔化した。


 「いや、別に……ちょっと考えごとをな。それより、トリッシュ。あんたこそ、何で……」
 「私は、少し……ジョルノに用があって、それで……」

 「あぁ……そうか……」


 ミスタは返事もそぞろに、坂の上にある店へと目をやる。
 そこからは相変わらず焼いたばかりのケーキから甘いにおいが漂っていた。


 『ミスタ、おい、ミスタぁ!』


 箱をかかげて笑顔をみせるナランチャの影が、浮かんで消える。

 彼は……ブチャラティもそう、アバッキオもそう。
 覚悟をして生きて、そして己の覚悟を貫き通して逝ったのだから、悲しむ事もまた彼の覚悟を辱める事になるのだと、理解しているつもりだったのだが。


 『何だよミスタ、俺ばっかりそうやってさぁ!』
 繋いだ手の数が多すぎて。

 『やめろよミスタ、俺、子供じゃ無ぇんだからな!?』
 言葉も、予想以上に多く積み重ねていて。

 その影が、思っていた以上に多く重なっていたから、彼の声も顔も仕草も、その脳裏から消えずにまだ残っている。

 割り切っていたつもりだったが……。
 割り切れない程にある沢山の思い出が、今もなおナランチャの面影を心に残していた。


 「結局よ……貸しも返さないで先に逝っちまいやがったよなぁ、あいつ……」


 あれほど何度も「借りは返す」と豪語していた癖に、何もしないで先に逝った彼の温もりが、まだ手に残っている気がする。
 もう借りを返してもらう事も出来なければ、共に笑う事も、新たな言葉を交わす事も、並んで歩く事も出来ない。


 「……でもよぉ、これで良かったんだよな。なぁ、ナランチャ」


 だが、記憶に浮かぶ彼はいつも後悔に沈む顔は見られず、嬉しそうに微笑んでいる。
 その笑顔は自らの道を覚悟をもって踏みしめて歩み、そして逝った男の笑顔だ。


 「よォ、トリッシュ。ケーキ、買っていかないか?」
 「えっ……どういう風の吹き回し? 別にいいけど……」

 「決まりだな、じゃ、行こうぜ」


 だからミスタは歩き出す。
 覚悟をきめて行き、そして逝った彼の面影をその胸に秘め、彼の記憶を抱いて、彼とともに。

 幸福を受け入れ試練に立ち向かう事を、密かに誓いながら。





 <ナランチャとミスタは俺の中でベストコンビですよ。(戻るよ)>