>> ベランダ付き合い






 外に出た時、吐く息はすでに白くなっていた。
 すでに周囲には外灯の光しか見あたらず、人の気配もない。

 ここ数日はプレゼンの準備で忙しかったが、それも今日で終わりだ。

 結果はどうであれ、明日……すでに時刻は今日になっているが、とにかくそこで全てが決まる。
 彼は胸一杯に冬の鋭利な空気を詰め込むと、夜の道を見据えた。

 今日は遅くなったからタクシーで帰る予定だった。
 家まで二駅程度だが、すでに終電の時間は過ぎている。

 寒さからコートを引き寄せ一度小さく身震いすれば、まるでその仕草が終わるのを待っていたかのように一台の車が近づいてきた。

 どうやら、電話で来るよう頼んでいたタクシーがやってきたようだ。
 音もなく開いたドアにその身を滑らすよう乗り込むと、男はすぐに眼を閉じ眠ったような仕草を見せる。

 タクシーの運転手にあれこれと世間話を持ちかけられる事を、男はあまり好いてはいなかったからだ。

 タクシーの運転手も男がそういった世話話や愚痴などを誰かと共有するのが好きな性質ではないと見抜いたのだろう。
 一度だけ座席を確認すると、それから行き先だけを聞き、黙ってアクセルを踏み込んだ。

 物わかりのいい、理想的な運転手だ。
 男は人気がほとんどない路地を二、三度眺めると小さく溜め息をついて眼を閉じる。

 運転手も気を使ってか、ラジオの音を小さくした。

 もう深夜と読んでも差し支えない時間帯になる。
 ラジオの向こうでは穏やかな声の女性が眠りを誘うように語りかける。

 その声に混じって、低い男の声がした。
 だみ声といってもいい、嫌に耳に残る声だ。

 いや、耳に残るだけじゃない。
 この声は……。


 「……れで……さんはバイトをしながら音楽を?」
 「ですねぇーッ……掛け持ちとかして、多いときで6つくらいやって……合計で100種類は経験しましたよ……」
 「100種類もですか……」


 司会者と思しき女性の声は夜に聞くのにちょうどよい心地よさだが、男の声は妙に喧しい。
 運転手も、この必要以上に賑やかな男の声は安息の妨げになると、そう思ったのだろう。
 チャンネルをかえようとラジオに手を伸ばす、その指先を。


 「まってくれ」


 男が、とめた。


 「ラジオを。このまま、このラジオを聴かせてくれないか……頼む」


 いかにも人好きしなさそうな無愛想な男が急にそんな事を頼んだ事は、運転手にとっては不思議に思えただろう。
 だが運転手はさして理由を聞こうともせず、ラジオの番組はそのままで運転へと戻った。


 「……それで、バイトの頃の思い出とかは何かあるんでしょうか?」


 司会者らしき女性は相変わらず穏やかな口調で男に問いかける。
 どうやらその番組は、歌とトークで繰り広げられるタイプのもののようだった。


 「バイトの思い出は色々あるんですけどねぇー……俺の場合、アパートの思い出ってんですか。そっちの方が印象に残ってるんだよなぁー」
 「アパート?」

 「あぁ、アパート。……駅から……歩いて7,8分離れた、坂の上にあるボロいアパートでさぁ……あの当時でもう築30年かそれ以上はたってた、ボロいアパートだった訳よ。階段のぼると軋んじゃって、その足音で誰が帰ってきたかわかるの」
 「あはは、それは……相当ボロいですね」

 「格安だったし。あと、管理人がすげぇーいい人でなぁー。そういうのもあって、俺、ずっと住んでた訳だけど……」


 目を閉じれば、男の脳裏にあの住処が浮かぶ。

 錆びた急な階段。
 ずらっと並んだ8つの郵便受けは、いつもあいつのポストだけ領収書や請求書などが無数に詰め込まれていたか。


 「都会ってさ。隣に誰が住んでるとかわからないってよくあるだろ。俺もさ、ずっと隣に誰が住んでるかなんて気にもしてなかったし。そういうもんだって思ってたんだ。だけど……」


 出会ってしまった。
 ラジオの向こうでそう語る誰かの言葉が、自分の記憶とリンクする。

 そう、あの日は風が冷たいが、月の綺麗な夜だった。



 ……あの時、自分は今とは違う職場にいた。
 本社から出向という形で子会社で管理職見習いの仕事をしていたのだ。

 彼の職場は昔からそう。
 将来有望な管理職候補生は、こうして子会社に出向させる。

 子会社への出向はその会社では未来が約束された証でもあった。
 勿論、男もそれを名誉に思い本社を離れたのだが……。

 男は仕事こそ優秀であったが、人とうち解け合うのが苦手な性分であった。
 子会社は独自の人間関係が構築され、彼のようなタイプの人間は仕事が出来ても何かと苦労が多い。

 職場は仕事をする場所であり仲良しチームを作るサークルの類ではない。
 男はそう思っていたし自分の仕事に信念もあったが、それでもその日男は、強かに酔いスーツも脱がずに寝そべって月を見る事しか出来ない程度に孤独と疲れが満ちていた。

 小さなアパートから見る月はほとんど住宅に阻まれて見えづらい。
 帰り道はあれほどはっきり見えていたのだが……出向先とはいえ田舎という訳ではない。高台にある住宅街が空を覆っていたから、男は身を乗り出してベランダへと出る事にした。

 エアコンの室外機がやっとで入る、お世辞にも広い場所ではない。
 だが、月は凛として輝き青白い光で世界を照らす。

 今夜は満月だ。
 それも、良い月夜だ。

 男は空に孤独で浮かぶ月が、孤独だが暖かな光を放っている事が何となく嬉しくて、新しいビールの缶を開けた。


 「オタクさんもぉ、月見酒っすかぁ?」


 その時、不意に声がする。
 やたらと耳に残るだみ声だ。

 テレビはつけていない。家に誰かを招く性分でもない。
 では、一体何処から……。

 上下左右と落ち着きなく首を動かす男に、声の主は笑ってみせた。


 「あはは、こっちっすよこっち」


 二度目の声に導かれるまま視線を向ければ、そこには一人の男が立っていた。

 月光の青い光りのせいか、やたらと肌が青白く見える。
 ろくすっぽ櫛も入れられてないような癖毛の、いかにも軽薄そうな男だった。

 一目みて、マトモな仕事……スーツをきて月給をもらい定時で仕事をしているようなタイプではない。

 フリーターか。
 あるいはもっとマズイ仕事に片足をつっこんでいたって何ら不思議ではない風体だ。


 「今夜はいーい月ですもんねぇ。この月を見上げないでテレビなんか見てちゃ、勿体ないって奴ですよ。旦那、いーい趣味してますわ」


 だがその軽薄そうな外見とは違い、自然に美を見いだす感性くらいは持ち合わせていたらしい。

 しかし、何にせよ自分とは会わないタイプである。
 男はすぐにそう思い、早々に話を切り上げようとした、が。


 「はい、これ」


 男もまた、月を愛でつつ酒を飲んでいるようだった。
 片手には安い缶チューハイが握られ、皿に何かつまみのようなものをのせている。そのつまみをこちらに差し出しながら、人なつっこい笑顔を見せる。


 「イカのゲソをーですね。バターで炒めて、ポン酢かけたやつです。だいじょーぶ、毒とか入ってませんって。俺のかーちゃんが酒の肴によく作ってた奴なんで。ンまいっすよー」


 差し出された皿からは、香ばしいバターの匂いが漂ってきた。
 普段なら知らない相手から差し出されたものなど決して口にしたりはしない。

 だがその日、男は強かに酔っていた。
 そして、酒ばかり口にしいい加減空腹だった。

 何も入れてない胃袋は食べ物を欲していたのだろう。
 ベランダを隔て差し出された皿に、無意識に手が伸びていたのだ。


 「あはは、どうっすか。これ」


 イカの足を炒めてポン酢をかけただけ。
 男はそう言っていたし、実際それ以上ではないものだが、その味は酒と月とによくあい、すでに随分酔っていた男を上機嫌にさせるには充分だった。


 「うまいな……」
 「でしょう! これ、うめぇんですよ。たいして時間かかんねー癖に!」


 料理を誉められたのが嬉しかったのか。
 男はさも楽しそうに笑うと、男に近づき月を見た。

 それから何を話したのか、はっきりと覚えていない。

 小一時間程度だろうか。
 月を眺めながら、最近のできごとやスポーツの事。
 そんな、職場の昼食や休憩室で出る話題をぽつ、ぽつ語っていたと思う。


 「あはははは! マジでそんな事あったんすかぁ。いやー、面白ぇー」


 あいつは、些細な事でもやたらとオーバーに笑う男だった。


 「え、全然知らないッス。あー、ニュースとか見ないからなぁ……」


 政治や国際情勢に関してはからっきし興味がないのか、今は子供でも知っていそうな当たり前の事さえろくに話せない男だった。

 もし、この男がクラスメイトなどで教室にいたとしても、きっと自分とは違うグループに所属し用がなければ決して話しかけなかっただろうし、町中であっても目を合わす事もなかったのだろう。

 二人は、生活も、性格も、外見も。育ってきた環境も、かなり違っているようだった。
 だが、それでも。


 「今日は本当に、いーい月っすよねぇ」
 「あぁ……そうだな」


 その日、アパートの二階で隣同士ならんだベランダから、同じ月を見ていた。



 それからたまにベランダに出ると、大概は隣人が顔を出していた。


 「よっす、おはようございまっす」
 「あぁ……いや、もう昼だがな」


 大概は、一言挨拶をかわすだけだったが。


 「これ、多く作り過ぎちゃったんすよ。煮染めなんですけど、食べます?」


 たまに料理を作りすぎたという男から、ずっしり重いタッパーを受け取る事があった。
 カレーや煮物などという大きめな鍋で作ると美味い料理を、男は大概多量につくり、その一部をこちらに回してくれたのだ。

 本来は余計なお節介だと断る所だが、男はいつもいい匂いを漂わせこちらにタッパーを差し出してくる。

 あの匂いには、抗いがたい魅力があったし、実際料理も美味かったのだ。
 一人暮らしで外食が多かった男も、隣人から手料理を受け取った時だけは炊飯器に米を仕込む程度の料理は行った。

 貰うだけじゃ悪いと、実家からおくられた野菜を分けた事もある。


 「いやー、立派な大根じゃないっすか。今ね、買うと本当に高いんすよ……俺、安いスーパー結構渡り歩くんで」


 隣人はそれを喜んで受け取り、後日何かしら料理にして返した。
 借りばかりつくっている気がしたが、大根でも馬鈴薯でも、包丁なんか握った事のないような顔をした隣人の印象とは裏腹にやたらと美味かったのは覚えている。


 「料理人って程でもねーんですけどね。外食系のバイトはけっこうやってますから」


 ベランダで風に吹かれながら飲んでいる時、隣人がそんな事をいって笑っていたのは覚えている。

 学費が払えず大学を中座してから、隣人はずっとバイトで食いつないできたという。

 いわゆる、フリーターという奴だ。
 しかし飽きっぽい性格らしく長く続くバイトも少ないようで、幾つも職をすでにかえているのだと笑っていった。

 軽薄そうな外見通りの軽薄そうな態度は気になったが、それでも隣人のする話は男の見る世界と違い、いつも喧噪に包まれていた。

 路上で唐突に殴られた事から発端した喧嘩の話。
 理不尽な注文をつけてくる客との雑言。

 隣人の口から漏れる人と人とが交わる雑多な音は、それまでの男の人生になかったものだった。

 ……男は、隣人と自分とは違うと思ってた。
 フリーターとして寄る辺なく生きる彼を、どこか見下している所もあった。

 だが、隣人は男が思っている以上に、豊かな男であった。
 少なくても男は、音に祝福されているのだと信じていた。

 部屋に帰ればいつも無音だった男と違い、隣人はいつも何かしらの物語とともに生きていたのだ。


 「聞いて下さいよ。俺、好きな人出来たんです! あの、コンビニの新しいバイトの子なんですけどね……」


 ベランダの距離は縮まらない。
 だが、男は隣人というものが少しずつ分かっていた。

 軽薄そうな外見通り、軽薄な所もある。


 「好きな人出来たんすよ。居酒屋の看板娘らしいんですけどね……」


 隣人は、よく男に恋の悩みをした。
 いや、悩みにさえ至らない、恋の予感程度のものだろう。


 「最近、新人バイトの子が気になるんですよ……」


 悩みの相手は、いつも違っていた。
 一時など、日替わりかと思う事もある。

 だがそれが、未だ身体を知っても恋を知らぬ男にとっては新鮮だった。

 人と人との距離が縮み、その摩擦や軋轢でうまれる歪や傷。
 そういったものを恐れて人と近づくをのやめた男を後目に、隣人はそれらを平気で飛び越えていた。


 ある日、ベランダから乾いたギターの音が響いたことがあった。
 学生時代、コピーバンドだが少し楽器を囓っていた男は、その音にひかれベランダを覗くと、はにかんで笑う隣人がいる。


 「あぁ、いたんですか……サーセン、うるさかったでしょ」
 「いや……ギター、か。バンドでもやってるのか」

 「まぁ、一応。……俺、ミュージシャン目指してるんですよ」


 隣人は、曲作りの真っ最中だったらしい。

 その日は平日の昼だった。
 この時間ならいつもは誰もいないからと、思い切って少しひいてみたのだという。

 だがその日は偶然、休日出勤した男が代替えの休日をもらっていた。


 「どんな曲を作ってるんだ?」


 ポップスかロックだろう。
 そう思って聞けば、男が奏でたのは期待を裏切らないロック調を響かせる。

 ミュージシャンを目指しているは伊達ではなく、演奏は一人前だ。
 慣れた様子でギターを奏でるその姿は、彼の自信と誇りに満ちていた。


 「でも、正直無理かなぁって思う事はあるんすよね」


 曲を奏で終わった後、隣人はぽつりと呟いた。


  「いつまでたってもお声はかかんねーし。人気はね、まーそこそこあるとは思うんすけど……最近、仲間もやめるやめないだの言い始めてね。みんな仕事とか家 庭とか振り返るころなんだろうなぁと思うんすけど……でもそーなると、俺って結局これしかねーんですよ。だからねぇ、無理かなぁと思うんですけど。どうし たもんだか……」


 それはいつもバカみたいに口を開け笑う男から漏れた、弱気の言葉だった。
 「どうしたらいいんだろう」「どうすればいいと思いますか」
 そんな言葉はよく聞いたが、大概それは解決が間近の悩みばかり。

 本当に先の見えない悩みについてもらすのは、きっとあれが初めてだっただろう。


 「何を心配しているんだ」


 あの時自分のこたえが隣人に、どう届いたのかわからない。


 「おまえは、音に祝福されているじゃないか。俺とは比べモノにならないくらい、沢山の音を抱えて生きてる。楽しい音、悲しい音、辛い音、そんなに沢山の音が傍にある奴なんだ……その音を、悪く使うな」


 男には夢に生きるといって定職にもつかず、やる事も定まらずフラフラと生きる人間を見下すきらいがあった。

 夢という言葉で誤魔化して現実を見ようとしない。
 そんな逃避者だと思っていた。

 だけれども、隣人にはたしかな敬意が芽生えていた。
 彼の夢を。それに向かって進もうと足掻く力を。男はたしかに尊敬していたのだ。


 「そう、っすね。よくわかんねーけど、俺がウジウジいっても俺の出来る事やるしかねーし!」


 彼はもう立ち直っていた。
 ベランダの隣人は、壁を隔てた所にいる他人で。連絡先を教え合うほど親しい友達ではなかったけれども、男は奇妙な繋がりを感じていた。

 そしてその繋がりが、ずっと続くものだと思っていた。
 だが……。


 子会社の出向は最初から一時的なものだと決まっていた。

 任期満了。
 仕事がずれ込んだ関係で、予定の期間より三ヶ月ほど遅くなってしまったが、本社に戻る事が無事に決定した。

 梅雨時になるとやたら湿気っぽく、かび臭くなるこの古い賃貸アパートともついにお別れとなる。

 引っ越しの日、隣人はいないようだった。
 挨拶しようと思った。だが、いないなら仕方ないと諦めた。

 引っ越し先を教えるほど親しい仲ではなかったし、仮に連絡先を教えたとして、ベランダを隔てて話す事ができても、一緒に酒を飲む事が出来るとは思わなかった。

 男は隣人と住む世界の差を、それほどまでに感じていたのだ。

 だから、黙って出る事にした。
 別れといえば春先が普通だから、きっと急にいなくなった自分に驚くだろう……。

 新しい住所へと向かう前に、男は一通の手紙を投函した。

 さよならのかわりに。
 恐らくはもう出会わない、ベランダの友のために。


 タクシーはうなるようなエンジン音をたてて夜の街を直走る。


 「へぇーっ、そんな事があったんですか」


 ラジオの向こうからは女性司会者の、溜め息混じりの声が聞こえた。


 「えぇ、ベランダ付き合いとも言うんすかねぇー、そんな感じで」
 「お隣さんと仲良くなった訳ですね」

 「そうそう」
 「でも、突然引っ越しちゃった?」

  「そうなんすよー、いやー、驚いたなぁ。あれは、梅雨時だったと思うんすけどね。急に表札なくなったと思ったら、もう誰もいなくて。そりゃ、隣ってだけで 他人だけど、一声くらいかけてくれよって結構恨んだりしたもんですよ。他人だけど……俺は、結構信頼してたんですから」


 悪い事をした……。
 改めて男は懺悔する。

 だが本音をいえば、会ってしまったら留まりたくなると、そう思ったのだ。
 自分はそれだけの思い出を作ってしまったから。


 「でもね……」


 ラジオから男のだみ声が続く。


 「隣のその、オッサンが引っ越してからね。2,3日たったくらいかなぁ。手紙、届いたんすよ。そのオッサンから」
 「手紙ですか。どんな内容?」

 「言える訳ないじゃないっすか! 俺とあの人との秘密って奴。そういうの、あるでしょ。言いたくない秘密……」
 「あはは、あやしーい」

 「……まぁ、ね。突然いなくなってごめんって話が書いてあった訳ですよ」


 突然の手紙でさぞ驚いた事だろうと思う。
 本当なら、面と向かって言うべき事なんだろうが、きっと顔を合わせたらますます言いづらくなるだろうから、だから手紙をかいた。

 隣の部屋だから住所を知っているのはさして不思議ではないだろう。
 だが覚えておくつもりもないから、手紙はこれが最後だと思ってくれてもいい。

 私は元々、三年の契約で一時的にこの土地にきていた。
 別れがあるのも分かっていたが、言い出せなかった事をまず謝ろうと思う。

 すまなかった。

 そして、何も言わず引っ越したのもさぞ驚いた事だろう。
 言おうとも思ったのだが、君がつまらない話が嫌いなのはよく心得ていたから、私事のつまらぬ話を後回しにしているうち、とうとう引っ越す日が来てしまったのだ。

 だがそれはこれまであれほど良い隣人であった君に対してやはり失礼な事だったと思う。
 すまなかった。そして、今までありがとう。

 私は今日から君の知らない場所で、また違った仕事を始める。
 君が音楽で喰っていこうとするように、私も今の仕事で食いつなごうと思っている。

 恐らく、もう会う事もないだろう。
 だけど私はいつか君の声を、はにかんで笑いながらつくった君の曲を聴ける事が出来ると信じているよ。

 だから君は何処かで見ている誰かのために、音楽を続けていってくれると嬉しい。
 いつか街角で君の声を聞いた時、私はきっと笑って振り返るのだろうから。


 ……たしか、そんな事を書いたはずだ。
 部屋番号が一つしか違わない。名字だけでも届くだろうと思っていたが、無事に届いていたらしい。


 「運転手さん……この、ラジオで喋ってる奴。何て、名前か知ってるか?」


 男の問いかけに、運転手は少し考えた素振りだけ見せてから。


 「さぁねぇ」


 と、面倒臭そうにこたえた。
 どうやら自分が流行にうとい訳ではなく、誰でも知ってるアーティストという訳ではないようだ。


 「では、今日はなんと生で歌って貰いましょうか……曲は」


 間もなく男の家につく。
 長い長い語りの後、ギターの音がゆるやかに響く。

 以前聞いたロック調の曲とは違う。だが、あの時と同じメロディラインの曲だ。


 「はい。曲は……音の祝福……」


 タクシーが目的地に止まり、代金をねじ込むと男は足早に帰路へとつく。
 明日にひかえたプレゼンは寝不足で挑む事になりそうだが、いつもの事だ。問題はないだろう。

 雪がちらつき始めた街を走る男の顔は、安堵の笑顔に包まれていた。






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