>> 臆病者の輪舞曲





 闇の中、唐突に跳ね起きて呼吸を弾ませ虚空を仰ぐ。
 すでに綺麗になっている手を何度も何度も、丹念に洗う。
 一人暮らしの癖にいつも、誰かの為の食事をもう一膳準備する。


 「何そんなにじろじろ見てるのさ、夏侯覇。俺の顔、何かついてるかなぁ」


 夕食を準備する馬岱の笑顔は今日も優しく穏やかだったが、何処か虚ろでぎこちない。
 そして俺は、そのぎこちなさの正体に気付いていた。


 『若ぁっ……若ぁ…………』


 真夜中、隣で眠っていたはずの馬岱の口から漏れた言葉が今でも忘れる事が出来ないでいる。

 若が、誰の事を指すのか。
 蜀に来てまだ日の浅い俺には漠然としか知らかったし、未だに詳しく聞く事は出来ないでいた。

 馬岱の口から聞く事で、馬岱の中にある闇を覗いてしまうようで怖かったから。
 馬岱が過去を振り返る事で、俺に向ける視線がなくなってしまうのが怖かったから。
 馬岱の痛みを知る事で、傷つくのが怖かったから。

 結局はそう、俺は馬岱の前で非道く臆病者だったのだ。


 「いやいやいやいや、何もついてないって。それよりさ、飯出来たの? そろそろ食べようぜ」
 「えっ、あぁ……うん、ちょっとまって。今、汁を温めてくるからね」


 机の上には、今日の夕食が並ぶ。
 いつもぴったり二人分、量が少ないと思った事も多すぎて残した事もない。

 馬岱の心にいる『若』という男は恐らく、俺と同じくらい食べる男だったんだろう。

 薄暗くなりはじめた屋敷の中、台所へ向かう馬岱の背中を目で追いかける。
 ……黄昏時、馬岱の大きいはずの背中が闇に飲まれて消えていくような気がした。


 「……馬岱!」


 行かないでくれ。いなくならないでくれ。俺の目の前から、消えないでくれ。
 俺は多分お前まで失ったら、俺はきっともう壊れてしまうから。

 そんな思いが胸を突き、ほとんど無意識にその名前を呼んでいた。


 「何だい、夏侯覇?」


 馬岱は振り返りいつもと変わらない笑顔を向ける。
 そう、穏やかで優しくて、だけど何処か虚ろなあの笑顔を。

 夕日は間もなく塒に戻り、消えゆく光は影を一層濃くしていく。
 振り返った馬岱の顔もまた、闇に飲まれ霞んで見えた。


 「えっ。あ……い、いやいやいやいや! べ、別に。何でもないってか……うん、そう。何でもないよ」
 「そう。あはは、変な夏侯覇だね」


 馬岱はそう笑い飛ばしたが、俺は非道く不安だった。
 黄昏時がゆっくり闇に染まり周囲が見えなくなるように、何時か馬岱も闇に染まり自分の姿を見失うのではないか。
 自分の姿を見失い、過去を見失って、俺の声も温もりも届かない世界へ自分を投じてしまうのではないか……。


 「暗くなってきたなぁ……あかりでもつけるか」


 そんな不安を振り払う為に、俺は灯火をつける。
 薄暗かった室内は炎のおかげで幾分か明るさが広がった。

 ……俺は、なれないのだろうか。
 馬岱が今でも慕う「若」という男のように、灯火のように。

 冷えた時には温もりを与え迷った時には道標となる、そんな暖かなこの灯火のように……。


 「はい、準備出来たよ夏侯覇……何、ぼーっとしてるの? 風邪でもひいた? いけないよ、ほら。夜は冷えるんだから、ちゃんと暖かい服着なくちゃ……」


 灯火を見てる間、考え事に没頭する俺がただぼんやり立っている風に見えたのだろう。
 馬岱は心配そうな顔を向けると、俺に暖かな上着をかける。

 恐らく馬岱のものではないだろう。
 俺の身体より二回りほど大きな獣毛の外套だ。


 「いやいやいや、別にそんな、寒くないし……馬岱、ちょっと気を使いすぎだろ?」
 「そんな事ないよぉ……俺は、夏侯覇が大事だからね。風邪なんてひいてほしくないし、もしキミに何かあったら……俺は、本当に寂しいよ」


 厚手の外套をかけた俺の身体を、馬岱はその外套ごと抱きしめる。

 それは、馬岱の本心の言葉だろうか。
 それとも、闇に飲まれ感情は虚ろのままそれでも辛うじて人を演じている傀儡からもれた欺瞞の慰めなのだろうか……。


 「さぁ、ご飯にしようか。夏侯覇」


 振り返ろうとする馬岱の身体に、俺は必死で縋り付いていた。

 その背も身体も俺より大きい。
 だけど何故だろう、腕にある身体は強く抱けば折れてしまう程にか弱く思える。


 「馬岱……」


 手を離してしまえば、このまま闇に消えてしまうんじゃないか。
 今腕にあるのにそんな思いを抱かせる程、馬岱との距離を感じる。

 馬岱はもう俺の傍らにはいない男なのだろうか。
 こんなに近くにいる。抱きしめる事も、肌を重ねる事も可能なはずだった。

 それなのに、何故こんなに距離を感じるのだろう。
 何故、何故……。

 いや、わかっていた。
 俺は、知らないからだ。

 馬岱の事も、馬岱が今でも慕い続ける若という男の事も。
 そして、今でも抱え傷つき続ける内に秘めた闇の事も。

 その闇の正体を知ろうとしないから、だからこの距離は縮まないのだ。
 そう、俺は馬岱の前では非道く臆病な男だった。


 「……どうしたのさ、夏侯覇?」


 馬岱はまるで、子供をあやすような声で俺の頭を幾度か撫でる。
 その言葉は温かくて、その手はとても優しいから、俺はつい甘えてしまいたくなる。

 馬岱の闇を知らないまま、その闇が与える静寂と温もりとに抱かれ微睡んでいたくなる。
 だけど……。

 ……だけど俺が本当に望んでいるのはこんな言葉じゃ。触れあいじゃない。

 最初はただ、気紛れに肌を重ねてくれれば充分だった。
 偽りでも優しい言葉と温もりがあれば満たされていたけれども、何時しか俺は望むようになっていたのだ。

 馬岱の新しい灯火として、絶え間なく続く闇を照らせるようなモノになる事を。


 「……馬岱、教えてくれよ。お前の中にいる、そいつの事」
 「何いってるんだよ、夏侯覇。そいつって……一体誰だい?」

 「本当は、忘れてないだろ? 忘れたら、お前生きていられる訳ないもんなっ。なぁ、誤魔化さないで教えてくれよ、馬岱」


 血の臭いを漂わせた身体を川ですすぐお前は、一体どれだけの血を浴びてきた?


 「……お前、蜀に来るまで一体誰と。どんな旅をしてきたんだ。なぁ」


 仲間の屍を幾つ弔い、いくつ乗り越えその心を歪ませてきた?


 「若って……お前にとっての、若って。どんな奴だったんだよ。なぁ……」


 指標であり、灯火であり、夢でもあった。
 お前の中に今でも残る、若……馬超という男は、一体どんな男だったんだ?


 「そろそろ、俺にも背負わせてくれよ。なぁ、馬岱。俺……俺、命狙われると思ったら祖国だって捨てて逃げて、仇である国に身を置くようなそんな臆病者だけどさ。お前からは、もう逃げない……だから、教えてくれお前の事……」


 数々の闇を内包した身体を、俺は精一杯抱き留める。


 「教えてくれ、お前の全てを……そして、俺にも背負わせてくれよ。お前の中にある、その闇を……俺、もう逃げないから……」


 俺の言葉を受け、馬岱は一瞬虚を突かれたような顔をする。

 笑ってもいない、だが怒りの表情もない。
 あの顔は恐らく馬岱が久しくしなかった、道化ではない男としての顔だったのかもしれない。

 だけど、仮面が剥がれたのは一瞬。
 馬岱はまたいつもの道化笑いを浮かべると、静かに俺に首を振った。


 「駄目だよ、夏侯覇。だって、俺の痛みは俺だけのものだもんね。誰にも、分けてあげないよ!」


 馬岱という男はやっぱり道化だ。
 肉までこびり付いた道化の仮面は簡単に外れるものではないのだろう。

 あるいはすでにその仮面は顔の一部になり、二度と外れる事はないのかもしれない。
 だけど。


 「何だよ、俺はもう逃げないって言っただろ。教えろよ!」
 「だーめ。大体、教えられる程大した事してないよ?」


 だけど俺は信じていた。
 俺と言葉を交わした時、僅かに見せたあの表情が道化師・馬岱のものではなく人間・馬岱のものだった事を。
 そして、何時かその仮面の下にある闇を。素顔を、俺に晒してくれる事を。


 「……わかった、今はいいよ。でも、何時か教えてくれるよな?」
 「だーめ」

 「いやいやいや、そういう逃げは駄目でしょ。嫌がっても、いつか絶対にききだしてやるから」


 なけなしの勇気を振り絞り出した言葉は結局、俺たちの距離感を変えるには至らなかったのだろう。

 それは、悔しくもありそして同時に臆病な逃げだった。
 そう、俺は結局結論を先延ばしにして逃げたのだ。

 馬岱の道化という優しさに甘えて、自分の居場所を守ろうとした。

 作り笑いを浮かべ俺を抱きしめる馬岱の道化芝居も。
 その笑いに甘え真実から目を背けている臆病な俺も、結局は何も変わらなかった。

 だけど、変わった事もある。

 それは、僅かな希望。
 道化の下に一瞬見えた馬岱の顔は、馬岱はまだ全て闇に置き忘れた傀儡ではないという証明。

 そしてそれは、俺が馬岱の傍にいられる希望でもあった。

 馬岱が心に住む若の存在ほど、俺は大きくなれないかもしれない。
 そしてその存在のように明るく眩しい灯火にはなれないのかもしれない。

 だけど、馬岱が人間でいる理由にはきっとなれる。
 闇に染まりそうなあいつを、俺はきっと留めていられる。いや、留めてみせる。


 「……もぅ、どうしたのさ夏侯覇。ほら、そろそろ離してくれないと、ご飯冷めちゃうよ?」
 「いい……もう少し、もう少しこう、させていてくれって……な?」

 「はぁ……仕方ないね、ホント」


 抱きしめたていた身体は優しい腕に包まれて、俺たちの唇は自然と重なる。

 このキスも道化の馬岱が与える仮初めの愛情か。
 あるいは、俺の中にいる「若」という男をうつしただけの偽りの愛情なのかもしれない。

 それでも、俺は満足だった。

 この腕の中に馬岱がいる。
 馬岱の人である理由が、俺にある。

 欠片でもその心をつかむ事が出来たなら、臆病者の俺は、ただそれだけで幸福だったのだ。





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