>> 仮初めの手を握り





 新緑の隙間から、心地よい初夏の風が流れ込むたびに草原は一斉にざわめく。
 その、心地よい風に誘われ馬岱は暫し微睡みに身を預けていた。

 蜀の風は、初夏ともなれば涼しく心地よい。
 西涼に居た頃はいつも土埃の乾いたにおいが染みついており……そのにおいも馬岱は決して嫌いではなかったが、こうして昼寝をするにはこの新緑のにおいを孕んだ風の方が向いているな、と馬岱はそう思っていた。

 この風なら、今日はいい夢が見られそうだ…………。


 「何をしている、馬岱」


 その時、隣で誰かの気配がした。
 微かに金属のすれる音をさせている……恐らく、槍につけた装飾が風に舞い音をたてているのだろう。

 細身に思える、だが大柄な男だ。
 男なのは声で分かるし、大柄なのはその足音で分かる。

 ……長く、諸葛亮の下で働いていた馬岱は自然と、暗闇の中でも相手の姿を捉える事が出来るようになっていた。
 その特技は、目を閉じ微睡んでいる時でも有効らしい。

 だが、今日現れたこの男は馬岱に対して敵意はないらしい。
 持っていた槍を早々に投げ出すと、馬岱の隣に腰掛け暫く心地よい涼風の恩恵に触れていたようだった。


 「昼寝しているくらいなら、少し俺の鍛錬に付き合え! と言いたい所だが……ここはいい場所だな」


 隣で誰かが、寝ころぶ気配だけがする。

 ……誰だろう、と馬岱は思った。
 この声は懐かしい。そして、とても心地よい。

 今頬を撫でる初夏の風にも似た。いや、それ以上に温かくだがどこかくすぐったいようなものが胸の奥から突き上げてくる。
 こんな事、もうずっと無かったのだが……。


 「お前をつれて長い、長い旅をしていたけれども……思えば、色々な事があったよな」


 寝ころんだまま背伸びをする気配が、すぐ隣で感じられる。
 そうだ、ここまで来るのに色々あった。

 故郷をなくし、肉親をなくし……寄る辺ない身となり、あちこち彷徨う事となったからだ。

 曹操に、反旗を翻した。
 その経緯より、曹操の息がかかった場所には長居する事が出来ず、結果あちこちを彷徨う羽目にもなった。

 命に関わる戦闘を経験したのも、一度や二度ではない。
 過酷な旅を続けていたはずだったが……。

 ……何故だろう。
 その頃の事を思い出そうとするのは、馬岱はあまり嫌いではなかった。

 最も彼はいま、その頃の記憶はほとんど曖昧になっていて、何をしていたのか。
 自分が誰と旅をして、どうしてこの土地でまだ生を貪っているのかは、よく覚えていないのだが……。


 「馬岱」


 不意に、誰かと手が重なる。

 大きな手。
 だが、傷だらけの手だ。

 長く西涼の厳しい風にさらされていた上、厳しい槍の鍛錬を続けた結果、その手には傷と肉刺とが多く出来ていたのだ。

 ごつごつとした痛々しい手だった。
 だが、だからこそ馬岱にとってその手は、何より守りたいものだった。


 「…………これからも、俺についてきてくれるか。この手を離さず、俺と……ずっと、傍にいてくれるか?」


 当然だ。
 これからも傍に居る、離れる訳がない。

 もう、離すものか。
 例えこの手が千切れても…………。


 「当然だよ、若ぁ」


 目を閉じたまま、馬岱はその手を握り返す。
 傷だらけの大きな手が、驚いたように震えた気がした。


 「若の為なら、俺はどんな地獄でもお付き合いしますって。だからそんな泣きそうな声出さないでよね。俺は……何時でも、若の味方だよ!」


 精一杯の声を張り上げて出た言葉は、道化か。本心か。
 それは馬岱にもわからなかった。ただ。

 握った手を離したくなかった。
 もう二度と……この温もりを、失いたくはなかったから。


 その直後、どぅっと強い風が吹き、あたりの木々を揺らす。
 握った手は指先に影を絡め、今し方まであった温もりは跡形もなく消え去っていた。


 「……馬岱、馬岱。馬岱」


 それと代わり、現の声が馬岱の耳元で響く。
 まるで蚊の羽音を思わす、耳障りな声だ。

 ……もう少し。
 せめてあと数秒でも、この微睡みに身を預け幸福な夢を見ていたかったのだが……。


 「いい加減に起きてください、馬岱」


 コツリと、額に軽い衝撃が走る。
 目を開ければ白装束の軍師が、冷たい視線を向けていた。

 恐らく持っていた白羽扇の柄で額を小突いたのだろう。
 呼ばれても返事をしなかった制裁といった所だろうか……。


 「……一体何かなぁ、軍師さまぁ。俺、今日は非番のはずなんだけど、違ったぁ?」


 大げさに額を擦りながら、白々しくそう語れば軍師は静かに口元を隠す。
 それは馬岱の運命を今自らの手中においているという、優越からの笑みにも見えた。

 ……そう、馬岱は今、この男の下で働いていた。
 時には一人の兵士として。そして、時には人に言うのも憚られる任務を遂げる手駒として……。


 「貴方の休日は、私が決めるべきことです。さて、話したい事があるのですが、私の部屋まで……来れますね?」
 「嫌だっていっても、どうせ無理矢理にでもつれていくつもりなんでしょ? はいはい、行きますよ……っと」


 馬岱が起き上がると同時に、まだ何処からか初夏の風が強く吹き付ける。
 周囲の草原は一斉にその身を揺らし、賑やかな音をたてていた。


 「……楽しい夢を見ていたのですか?」
 「えっ?」


 起きあがってから数歩、進んだ時、諸葛亮の口からそんな言葉が漏れる。

 楽しい夢……。
 僅かな微睡みの中、傍にあった影はたしかに彼を幸福にしていた。

 だが夢の中にあったあの影が。あの手が誰のものだかどうしても思い出せない。
 とても、とても大切な存在だった気がするのだが……。

 ……だが、だからこそ思い出すのが恐ろしい気がした。
 あの影の事を思い出せば、自分の中にある何かが、壊れてしまいそうだったからだ。

 あるいは、もう自分は何処か壊れているのかもしれないが…………。


 「……どのような夢を見ていようが、別に構いません。ですが」


 と、そこで軍師は乱暴に馬岱の首もとを掴む。
 急に喉笛を捕まれ、苦しいと思うより先に、柔らかな唇が馬岱のそれと触れていた。

 草木がざわめく中、支配のみを目的とした乱暴なキスが続く。
 呼吸さえ軍師の手に制御され、乱暴な愛撫が続いた。


 「……何するんだよ、軍師様?」


 支配から逃れ、軽蔑の眼差しを向ければ諸葛亮はまた口元を隠すように笑う。


 「いえ、ただ分かっていて欲しいのです。貴方は、もう誰のものでもない……私の手駒。可愛い狗……私の、傀儡であるという事を。わかってますね?」
 「……勿論。俺は、アンタの為にだけ踊る道化だよ」


 馬岱は笑うと……より正確に言うのなら、笑い顔を作ると、おどけたような仕草を見せる。
 その姿を見て、諸葛亮は満足そうに頷いてから再び館へ歩き出した。

 そう、自分は軍師様の傀儡。
 手駒であり、狗であり、玩具でもある……ただ軍師の為だけに存在する、都合のいい道具にすぎない。

 思いも、感情も、とっくに置いてきたはずだ。
 あの時、何処かにおいてきたはず、だ……が。


 馬岱は一度、今し方まで微睡んでいた草原を振り返る。
 あの影が誰だか、今の馬岱にはどうしても思い出す事が出来なかったが……。


 「大丈夫です、俺、離れませんから……すぐ、貴方の傍に行きますよ……」


 胸に手をやり、無意識に呟く。

 草原には変わらぬ初夏の風が吹き、草木はその身を穏やかな流れに委ねていた。





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