>> その手に口付けを





 夏侯覇が、他国へと逃れたそうです。
 隠密として他国の情報を得る為に暗躍する、一人の兵がそんな報告を私の耳へと入れる。

 夏侯覇は、元々魏の重臣である夏侯淵の実子だ。
 近年、魏ではその情勢が大きく揺らいでいる……。

 かつての魏を愛する連中と、未来の魏を見いだそうとする連中。
 双方の軋轢がいよいよ本格化してきた中、「かつての魏」で中心人物であった男の息子、というだけで生きづらいのだろう。

 己が身を案じて国を捨てる……。
 奔放な夏侯覇らしい素直な生き方だとは思う。

 だが、国を欺いてまでも生きようと思うとは……。
 この国に生まれ、英才教育を受け育ってきた私にとっては考えがたい事だった。

 最も、自分を高く買う勢力に使えるという気は分からんでもないが……。


 「どうされますか、鍾会殿」


 司馬家は、どうやら夏侯覇を討つ為に人員を割く様子はなかった。

 今は揺らぎの中にある家柄とはいえ、魏では名門の夏侯家の者だ。
 迂闊に討ち取り、夏侯家を慕う魏の重臣たちへ反感を買いたくないのだろう。

 「かつての魏」と「これからの魏」
 いずれこの二つの対立があるのは明かだったが、今はまだ事を荒立てたくはないはずだ。

 ……だが、それでも自分の父を討ち取った、仇である国へ逃れようと思うものか。
 兵が伝える夏侯覇の進路が、蜀へと向かう道だと知り私は溜め息をついていた。


 「兵の準備なら出来ておりますが」


 密偵は一礼するとすでに討伐の準備は万端である旨を伝える。
 司馬一族が出るには角が立つ。だが、私が出る分には問題ないだろう。

 蜀は、まるで我が国こそ逆賊といわんばかりの勢いを未だに持つ、情勢もろくに読めない輩ばかりの国だ。
 夏侯覇がその国に下ったのであれば、遅かれ早かれ我々と対立する事となるのだろう。

 司馬家の連中は逃す事が一つの慈悲だと思っているのかもしれないが、敵国にわざわざ人材を流す必要もあるまい。

 このような汚れ役。
 英才の誉れ高いこの私が買って出るのは些か気が乗らぬが……この国へ恩を売ると考えれば、悪くはない。

 しかし、夏侯覇も馬鹿な事をしたものだ……。

 私は深々と腰掛け、暫し目を閉じる。
 どの進路を辿れば今から夏侯覇へ追いつく事が出来るのか……私は綿密な計算を開始した。


 『おーい、鍾会!』


 そんな私の脳裏に、ほんの少し前。
 だが今となっては懐かしい光景が、浮かぶ。


 「おい、鍾会。鍾会鍾会鍾会、鍾会ぃ!」


 小柄な身体を精一杯伸ばし、必死に手を振るその男は、小さな身体にはそぐわない大きな剣と鎧とを身にまとっていた。

 普段なら厳めしい兜で顔を隠しているのだが、今は自軍の陣地だ。
 顔を隠す必要はないと思ったのだろう。

 年齢より幼く見える顔は、私の方へと向けられていた。
 この小柄な将兵が、今蜀へ下ろうとしている男、夏侯覇である。

 この男は、いつも明朗で屈託のない奴なのだが……何かと喧しいと思える時も多かった。
 構ってやる筋合いはない、そう思っていたのだが。


 「鍾会ぃ、おい、聞こえてるのかー。こらっ!」


 聞こえぬフリをしている私の身体に、夏侯覇が飛びついてくる。
 私の背中にあいつの着る鎧その重みが、ずっしりとのし掛かってきた。


 「うるさい! ……そんな事をしなくても、聞こえているぞ。全く」
 「あ、だったらどうして返事しないんだよ! 聞こえてないと思って、心配するだろ!」

 「貴様に心配などされる筋合いはないのだが……一体何の用だ?」
 「あははー……別にそんな重用って事でも無いんだけどさ……ほら、コレ」


 と、そこで夏侯覇はまだ湯気がたつ肉饅頭などを私の鼻先に差し出す。


 「給仕が作ってるのをちょっと貰ってきたんだけど、一人じゃ食べきれなそうだからさ。はいこれ、お裾分け。好きだろ、お前も」


 ……その手にはまだ、沢山の肉饅頭が抱えられていた。
 食べきれない分を、等というが……こうして私に対して点数を稼いでおきたいのだろうか。

 浅はかな魂胆だと思う。
 乗ってやる必要もないだろう……。


 「……いらないな。栄養は普段の食事で充分とれている、無用だ」
 「えっ、いらないって……いやいやいや、今ちょうど間食に頃合いの時間だぜ? そんな、無理しないで食えって、ほらほら」

 「だから無用だと言って……」


 そこで、私の腹がぐぅと音をたてて鳴る。
 生理現象だから仕方ないとはいえ、何というタイミングだろう……。

 ばつが悪くなり自然と顔が赤くなる。そんな私を、あいつは笑って見つめていた。


 「あはは、やっぱり腹減ってるんだろ。ほら、食えって、遠慮いらないからさ」


 夏侯覇は、半ば強引に私へ肉饅頭を押しつけ、自身もそれを一つ頬張る。

 ……こんな事で恩を売られたくないのだが、空腹には敵わない。
 仕方なく私は、受け取った肉饅頭に口をつけた。


 「あ、やっぱ食べるんだ。それ」
 「当然だろう……貴様がくれた癖に、何をいってるのだ」

 「いやいやいやいや、英才の鍾会様は、そういうモノ食べたりしないのかと思ってたから……」
 「……モノくらい食べる。私を、何だと思ってるんだ」


 そう、だよなぁ。
 夏侯覇は無邪気に笑うと、再び肉饅頭を頬張る。

 ……歳のわりには幼い顔立ちだ、と思っていたがコロコロ表情をかえるため一層子供っぽく見えた。


 「いやいやいや、悪く思わないでくれよな。何せ……鍾会、アンタさ。あんまり周囲とうち解けてない、っていうか、あんまり積極的に話したりしないだろ?」


 当然だ。
 私は英才教育を受けた身、その当たりにいる将兵たちとは違う、優れた兵だ。

 その私が、凡才に媚びた会話なぞする理由も必要性も感じられない。


 「だから、最近俺たちの間では、鍾会実はカラクリ細工説とかが出ちゃっててな! ネジを巻けば動き出すカラクリ鍾会……って話したばっかりだから、モノ食べる姿が何かおかしくてな!」


 ……だが、そんな下らない噂が流れていたとは。
 まったく、これだから凡才は不愉快だ。


 「……でも、鍾会って人とあんまり話さないよな。どうしてそんな、他人と話そうとしないんだよ?」


 夏侯覇はそんな事を宣いながら、心配そうに私の顔をのぞき込む。
 ……家柄だけの男に心配などされたくないのだが。


 「別に、必要があれば話す」
 「じゃ、普段は必要がないから話さないのか? ……そういうのって、疲れないか。たまには息抜きしないと、疲れちゃうぜ?」


 私にとって、凡才と会話する事の方がよっぽど疲れるのだが……。

 だが夏侯覇は、そんな私の事など気にする事もなく、「もっと楽に接しろ」だの「悩みとか話せる相手が居たほうがいいぜ」だの。
 まるで自分の方が優れた人間であるかのようなアドバイスをしはじめた。


 「とにかく、もっと肩の力抜けって! 俺たちも居るんだしさ」


 夏侯覇は笑顔のまま、私の身体に触れる。
 それまで黙っていた私だったが、その行動でついに限界へと達した。


 「いい加減にしろ、貴様……」
 「お、何だ。怒ってるのか?」

 「当然だ! さっきから黙って聞いていればアレコレと私に指図など……いいか、英才教育を受けた私に、そのような指示など無用だ。貴様に言われなくても出来る!」
 「いやいやいやいや。そう言う割には、全然出来てる風に見えないぜ?」


 そこで、夏侯覇はまた私の腕に軽く触れる。


 「気易く触るな! いいか、私は貴様たちと違う。英才の誉れ高い鍾士季だ。本来なら、貴様たちと連むような身ではないのだ、わかったな」


 その腕をふりほどき、思いっきり嫌味を込めて言ってやる。
 大概の将は、こう言えば二度と任務以外で話しかける事などなかった。

 ……だが、夏侯覇は違っていた。


 「何だ、気易く触らなければいいんだな。それじゃぁ……」


 と、そこで夏侯覇は跪くと、優雅に一礼してみせる。


 「……何のつもりだ?」
 「だから! ……気易く触れちゃいけないんなら、丁重に触れさせて頂きます。って奴さ、鍾会殿?」


 そして、そんな事を宣いながら私の手をとりその甲へ口付けなどをして見せた。

 柔らかな感覚が。
 体温が、私の肌へと伝わっていく……。


 「な、な、何をするんだ、貴様ぁっ!」


 とっさに手をふりほどくが、腕に残った暖かな唇の感覚がやたらと温かく、その事実が私の心を惑わす。


 「何って、恭しく扱わせてもらっただけだって……お前がそう扱ってほしいって言ったから、俺はそうしただけだぜ?」


 悪戯っぽく笑うその顔は、まるでこちらの反応を見て楽しんでいるようだった。
 不愉快な奴だと思うが……。


 「馬鹿馬鹿しい!」
 「そんな利口じゃないからな。だからもっと連もうぜ、鍾会」

 「どうして私になど……私は貴様と連むなど御免だ」
 「俺は連んでたいんだって、歳だってそんな変わらないだろうし……俺、お前の怒ってる意外の顔も見てみたいもんな」


 ……だがなぜだろう。
 素直なあの言葉は、今でも私の中に鮮明に残っていた。

 結局、夏侯覇が望むように。
 あの男の前で、素直に笑う顔などとうとう見せてやれなかったが………………。


 「……鍾会殿! 鍾会殿!」


 眼前で呼ばれる、兵のその声で私は過去の思いより脱する。
 そう、夏侯覇はもうここには以いない。二度とここに戻る事もないのだろう。


 「どうされますか、兵は」


 討つ事は容易い。
 亡命する夏侯覇は、多くの兵は持たずに逃げたからだ。

 だが……。


 「捨て置け」
 「は?」

 「……どうせただの将兵だ。捨て置いてもいずれ、自滅する。それに……今、事を荒立て夏侯一族を敵にしたくはないからな」
 「では、兵は……」

 「国内の警備にでもまわしておけ」
 「はい、ではそのように……」


 兵は一礼し、部屋から出ていく。
 私は窓辺に腰掛け、外の風景を眺める。


 「……あの時の肉饅頭の借りではないが。これで、一応貸し借りは無しだぞ。夏侯覇」


 誰に聞かせるでもなく呟く私の視線は、無意識に蜀の方へと注がれる。
 その脳裏には、あの日見せた夏侯覇の天真爛漫な笑顔が浮かんでいた。





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