>> 傀儡狗
その日、軍師殿より密命が飛び込んできたのは、ちょうど店で服を誂えていた頃だった。
「全くもぅ……休日くらい、しっかり休ませてほしいよねぇ」
店へ訪れた小間使いの語り口からすると、火急の用という訳ではなさそうだ。
だが、呼び立てられても悠長に休暇を楽しんでいたとなれば軍師殿も嫌味の一つは喰らわせるだろうし、何よりわざわざ自分を捜し店にまで来たこの若く気弱そうな小間使いに申し訳ない。
馬岱は寸法なおしもそこそこに切り上げ、軍師の元へと歩みを進めた。
何処からか心地よい風が吹き付ける。
だが、いつもより少し肌寒く感じるのは、新しい服の首もとが大きく開いているからだろうか……。
「うーん、もうちょっと胸元。開きすぎてたかなぁ……」
小間使いに案内され裏口より軍師の屋敷に通された時も、馬岱はただ新しい衣服の胸元ばかりを気にしていた。
……これから軍師より語られる任務は、人の心を歪ますのに充分なモノだろう。
裏切られた人間が、その欺きにさえ気付かない影を闇に塗る仕事だ。
普通の人間であれば任務がある、その事実だけでも気がそぞろになる所だろうが……。
「首のあたりに、襟巻きみたいなモノ。欲しいよねぇ。西涼ほどじゃないけど、こっちも冬は寒いからさ」
馬岱にとっては全て日常。
裏切りも、死も。
自分の襟元よりも気にならぬ、取るに足らない事となりはじめていた。
「遅かったですね、馬岱」
呼び出されてすぐ来たつもりだったが、それでも多忙な軍師殿にとっては遅すぎる来訪だったらしい。
諸葛亮は、馬岱が来た事には気付いているようだったが彼の方に目をやることもなく、忙しそうに書面ばかりを見据えていた。
「ごめんよ、軍師さま。まさか休日まで呼び出されるとは思わなくって、ちょっと新しい服を誂えにいってたんだよね」
と、そこで馬岱はおどけたように両手をあげると、その場で一度優雅に回る。
「どう、似合う?」
それを聞いても面白い答えが、この軍師からかえってくる事がないのは分かっていた。
だが、自分は道化。
こうして笑っておどけるのも任務のうちだ。
そうとでも思わなければ、彼はもう笑う事など出来ないでいた。
「そう、ですね……」
諸葛亮はそこで書物に向けていた目を馬岱へ向けると、頭からつま先まで値踏みするような視線を向ける。
かと思えば音もなく立ち上がると彼の傍らへと近づき、そのやや開いた胸元へ白い指を伸ばした。
「……お似合いです。ですが……少々、この胸元は開きすぎかと」
「だよねぇ。俺もちょっと、寒いかなぁって思ってさ。襟巻きでも買ってこようとか、思ってたんだよね」
「襟巻きですか……いえ、襟巻きより面白い道具(もの)がありますよ」
諸葛亮は含み笑いを見せると、何処からか革の首輪を取り出す。
繋がれた鎖からは、乾いた鉄の音がした。
「これなど、首につけてはいかがでしょう……きっとお似合いですよ、馬岱」
冗談か本気か判断がつかぬうちに、諸葛亮の腕が馬岱の首筋を舐める。
首輪なんて、冗談じゃない。
抗う事は難しくなかったが……。
軍師の手駒。
使い勝手のよい殺人玩具。
影を背負った自分が首に巻くには丁度良い。
馬岱の頭はすでにもう、軍師に抗う精神が失われはじめていた。
「ほら、お似合いですよ」
首に巻かれた牛皮の感触は冷たく、むずがゆい。
眼前の軍師は手にした鎖をたぐりよせると、満足げな表情を向けた。
「本当に、似合ってるかなぁ……」
首に手を振れ、革の感触を確かめる。
「これじゃぁ、犬みたいだよね。俺」
「狗ですよ」
馬岱の言葉に間髪もいれず諸葛亮は宣言する。
「……貴方は、私の狗ですよ。これからはずっと、私の傍らにあり、ただ従うだけの。ただの傀儡で、そして狗です」
あぁそうか。
もうこの軍師殿の中にはいないのだ。
すでに馬岱という人間は、あの人が死んだ時から……。
「そう、うまく飼い慣らせるかなぁ。俺をさ」
「うまく導いて見せますよ……貴方という、狗を、この策でね」
ですから。
諸葛亮は唇だけで呟くと、手にした鎖をたぐり寄せ馬岱の身体を引き寄せる。
「これからもよろしくお願いしますよ、私の可愛い馬岱」
知らぬ間に、唇が触れる。
これは、道具にかける愛情。
子供がお気に入りの人形にキスをするような。
騎兵が愛馬の鼻面に口付けするのと同等の、情であって愛には成り得ぬキスだ。
だがそれでも……。
「……全く、仕方ない軍師様だよねぇ」
馬岱の表情にぎこちない笑みが浮かぶ。
触れたばかりの唇は、まだ暖かい。
そう、それは情であって愛ではない。
生涯終わらぬ闇への道標ともいえるものだが。
だがそれでも、今の馬岱には必要な支配だった。