>> ともしび




 それは生あるうちには終わらぬ闇。
 血を流し切り開く業深い道を、今日も彼は張り付いたような笑顔を浮かべて歩んでいた。


 「ただいま、なぁんてね」


 誰も居ないはずの我が家に戻り、虚空に向かって声をかける。
 以前であれば誰かがいた。


 『遅かったな! 馬岱』


 そんな声をあげ迎えいれてくれた気がした。
 だが今の馬岱には、それが誰だったのかさえもう曖昧にしか思い出せてはいない。

 そもそもそんな人物はおらず、自分はずっと一人。
 こうして、任務を受け、人を傷つけ、生きていたのが当然だったような気さえするが……。


 「や、遅かったな。馬岱!」


 思慮にふける馬岱の耳に、本来は聞かれぬ言葉……帰還を喜ぶ声が響く。


 「……若?」


 無意識にこぼれ落ちた言葉を、声の主は穏やかに否定した。


 「いやいやいやいや……俺だよ、馬岱」


 赤銅色の髪をなびかせた小柄な将には見覚えがある。
 名は確か。


 「やぁ、夏侯覇じゃないか! どうしたんだい、こんな遅くに」


 名を思い出す前に、声が反応する。
 なるべく快活な声を出し、明朗な笑顔を浮かべる事……今の自分は、こうすればいい。

 こうすれば皆は警戒しない。
 本能が命じるまま身体を動かせば、夏侯覇は馬岱の右手に目をとめた。


 「あ、馬岱……」


 目をとめる。かと思うと、その手を自分の方へと引き寄せる。
 何かあったのだろうか。気付く前に、滴る血の感覚が腕へと伝わった。

 ……怪我をしていたらしい。
 刀傷は、右手を真一文字に切り裂いている。


 「怪我、してるじゃないかよ……すぐ治療しないとな。薬箱はあるか?」


 普段から笑顔を絶やさない夏侯覇ではあるが、その時ばかりは真剣な顔になると部屋を見渡し薬箱などを探し始める。

 自分が、諸葛亮に依頼されれば仲間にさえ刃を向ける、そんな手駒である事、出来れば多くの人間に悟られたくない。
 その為の笑顔、その為の道化芝居だ。

 あまり家捜しはされたくないのだが……。


 「あはは、大丈夫だって、この程度の怪我。唾でもつけておけばなおるよ!」


 だから、部屋を探さないでほしい。
 そのつもりで言ったのだが。


 「いやいやいやいやいや、その深手で唾だけじゃ駄目でしょ。とにかく、薬箱探すから馬岱はあんまり動かないでくれよな!」


 どうやら意図は伝わらなかったらしい。
 あちこち部屋を動き回ると、盛大な家捜しを開始した。


 「確か、このへんに……なぁ、ここにしまってなかったっけ、馬岱」


 小柄な身体を精一杯伸ばして棚を探る夏侯覇。
 その背後には、一枚の封書が……諸葛亮より密命で承った任務が置かれている。


 「さぁ、そっちじゃなかったと思うけどなぁ……」


 立ち上がり、一緒に探すフリをしながら密書を片づけようと夏侯覇の背後に立つ。

 振り返る前に一瞬。
 この密書を握りつぶせばいいだけだ、それほど難しい事ではない……はずだった。


 「いやいやいやいや! その深手で動くなって、俺、言ったっしょ。休んでろって、馬岱!」


 だが、傷を負っていた事。
 そして、あの重々しい鎧を着ていなければ夏侯覇は素早い将である事が災いした。

 密書は握られたまま、夏侯覇の前に晒される。
 紙には滴る鮮血が滲んでいた。

 中身は見られていない、だが、密かに始末しようとした事が裏目に出た。
 夏侯覇は暫く訝しげな表情を向けていたが、やがて何かに気付いたようにはっと顔をあげると、悲しそうに顔を伏せた。


 「……いやいやいや。お前が、怪我とかおかしいと思ったけど。やっぱ、そういう事か」


 夏侯覇は多くは語らず、に濡れた手から密書を取ると、黙ってそれを火にくべる。

 それが何であるのか。
 多くを聞かずにそのような所作をとってくれたのは有り難いが……。

 多く語らないという事は、それだけ多くに気付いている、という事だろう。

 ……彼はもう知っているのだ。
 自分が闇に紛れ、何をしてきたのかを。そして、この傷の意味を。


 「……傷、見せてくれよ」


 断る理由も思いつかずにいると、夏侯覇は馬岱の手を引き寄せる。


 「あはは……でも、ホント大丈夫だって。それに今、膏薬もつかいきっちゃったから、本当に唾でもつけておくしかないんだよねぇ」


 この言葉は、嘘ではなかった。
 この所、粛清と呼ばれる裏の仕事が多く、それで生傷が絶えない。

 薬は使い切ってしまったばかりだ。
 だが、買い足す気にはなれなかった。

 ……傷を受け、生き延びて、この先に何があるのか。
 自分が望んでいたのは生き延びる事ではなかった気がするからだ。


 「だからさぁ、いいんだよ。俺なんて……もう、俺なんてどうだっていいんだ、ほっといてくれても……」


 あぁ、いけない。
 自分は道化なのだ、楽しい笑顔を振りまいて、愛嬌を振りまいて。
 全てを闇に封じていなければいけないのに、口から知らずに闇が漏れる。

 自分は道化。
 仮面の下にある闇を漏らすのは禁忌なのだが……。


 「いやいやいやいや……傷ついてる馬岱、ほっとけないっしょ」


 だけど彼は穏やかに笑う。

 何故笑うのかは、わからない。
 自分の下にある闇に気付いているのなら……もっと恐れ、忌み、避けるべきだと思うのだが……。


 「んー、でも傷薬がないなら治療もなぁ……唾でもつけておけ、か……」


 夏侯覇は血に濡れた馬岱の手を暫く見つめていたが、ふと何か思いついたような顔をみせると、おもむろに馬岱の手へ舌を伸ばしその血を、傷を舐りはじめた。


 「ちょ、ちょっと、夏侯覇……」


 留めようとする馬岱の言葉に耳を貸す気配もなく、ただ傷を。血を舐る……。
 ねっとりとした舌の感覚が痛みを和らげる事はなかったが、馬岱の心を揺さぶる。


 「……他に、怪我してるところないか。馬岱?」
 「え。あー、べ、別にないよ」

 「いやいやいや、そりゃ嘘でしょう……胸元から、血のニオイがするぜ」
 「あはは……ちょっと、左胸を皮一枚ほどね」

 「左胸、ね」


 夏侯覇は僅かに頷き、馬岱の服に指をかけると慣れた様子で衣服を脱がす。
 露わになった胸元には、うっすらと血が滲んでいた。


 「あぁ、これね。了解」


 夏侯覇は馬岱の胸に顔を埋めるように抱きながら、その傷にも舌を走らせる。


 「ちょ、ちょっと……夏侯覇ぁ! く、くすぐったいよぉ!」
 「いやいやいや、少し黙っててもらわないと。これ、治療中だから。唾でもつけておけば治る、っていったのアンタだからな?」

 「確かにそういったけど……」
 「舐められるのが嫌なら、傷薬の一つでも買わなきゃ駄目っしょ……」


 夏侯覇の声が、心なしか重い。
 まるで、馬岱の傷が自分の傷であるかのような言葉だが……。


 「……どうして、こんなにまでしてくれるのかなぁ」


 顔は笑っていた。
 だがこの表情も、ただ作っているだけだ。

 表情の筋肉をもちあげ作った仮面だ。
 仮面の下にはただ、闇が広がるばかり……誰も覗けぬ深淵が……。


 「いやいやいや! ……馬岱。おまえ、俺がこういう事する理由、わからないのか?」
 「あぁ……俺には、キミの気持ちがよくわからないよ」


 恐らく夏侯覇は気付いているはずだ。
 自分の正体、この下にある闇。

 それなのに、何故自分に近づく。自分と絡む。
 闇は恐れられ、嫌われ、人から好かれぬはずなのに、馬岱はそれが解せないでいた。


 「……ホントに、わからないのか?」
 「あぁ、さっぱりだよ」


 本心から出る言葉に、夏侯覇は露骨に腹をたてた様子だった。
 頬を膨らませながら、一度馬岱に顔を背ける。

 ……だがすぐに悲しそうな目をすると、精一杯の背伸びをし馬岱の首へと手をまわした。

 直後、柔らかな唇が触れる。
 ただ触れるだけ、だが暖かく優しいキスだ。


 「……これでも、まだ分からないのか? 俺は……俺は、馬岱の……」


 闇を照らしたい。
 夏侯覇は唇だけでそう呟くが、ただそれは声にならないまま再び唇が触れる。

 言葉ではなく行動で、少しでも照らしたいのだろう。

 だが、何を?
 心を? この深淵を?

 だとしたら何と無謀な挑戦者なのだろうと思う。
 もう自分は、かつて何を喜び、何で笑っていたのかさえ思い出せない道化なのだが……。


 「夏侯覇……」


 彼の名を呼び、その身体を抱く。
 例え無謀な事であっても。例え届かぬ光であっても。

 今はその僅かな光が、彼にはとても暖かかった。





 <馬岱は胸毛はえているよね派です。 (戻るよ)>