>> 西涼の風




 一面、血のにおいがした。
 立ち上がろうとするが、足に力が入らない。

 身体も思うように動かず、槍を杖のかわりにしやっとの思いで立ち上がれば視界は土埃に遮られ、前後もわからないまま再び土へと倒れ伏す。
 重い瞼をこじあければ、土の臭いにまじり鉄さびのような血のにおいがした。

 ここは戦場。
 それも、随分と打ち込まれ負け戦になろうとしている戦場だ。

 霧のかかった記憶を呼び覚ませば、突如現れた伏兵に狼狽えた兵たちが逃げまどう姿が、馬超の脳裏に蘇る。

 士気の下がった兵を鼓舞して何とか立て直したつもりではあったが……。
 本陣に戻る以前に倒れてしまったのか、伏兵を追いやった後の記憶がない。

 ただ気付いた時、馬超は数多の躯その中の一つに成り下がっていた。

 立ち上がろうとすれば全身を引き裂くような痛みが襲う。
 土に伏して目を閉じれば寒さのかわりに柔らかな微睡みが馬超を誘う。

 漠然と眠っては危険だという認識を抱くも、それ以上に甘美な眠りの誘惑が馬超の目を閉ざした。
 瞼の帳に意識を傾ければ、馬超の記憶は自然と遠い西涼へと向かう。


 それはまだ父がいて、母がいて、家族がいて。
 幼い自分の周囲に「あの男」がまだ居た頃の、暖かな記憶だった。


 「もしも、若が倒れたら、俺は絶対看病しますから。安心してくださいね」


 自分に忠実な従兄弟はいつも傍らにいて笑っていた。

 従兄弟だけじゃない。
 いずれは長として期待されていた馬超、その周囲にいる人間はいつも笑顔で彼を迎えてくれていた。

 だが、あの男は違った。
 いつも、いつでも彼は険しい表情を浮かべたまま黙するばかりだった。

 だから馬超はこの男は、自分の事を嫌っているのではないか……。
 何か自分が気に入らない事をして、そうして怒っているのではと思い、自然とその男を避けていた。

 男から漂う鬼気迫る雰囲気もまた、馬超を遠ざける要因となっていた。


 だがある日の事。
 夜中目覚めて一人だった馬超は、不意に不安になり誰かいないか外に出た。

 外にも誰もいないだろう……そう思ったが、そこにその男がいたのだ。
 安心と同時に、男に嫌われていると思った馬超は、何といっていいのか解らず黙って男の袖をひく。

 男もまた、暫く黙って少年の傍らにいたが、やがてゆっくり口を開くと不器用な笑みを浮かべた。


 「心配めさるな、馬超殿……貴方に、寂しい思いなどはさせませぬ」


 暖かな手が、馬超の頭を撫でる。


 「もし貴方が寂しい思いをされていたのなら、それがしがお側に参りましょう……もし貴方が一人、人知れずに倒れたのなら、それがしが必ず見つけだしましょう。そう、数多の躯に埋もれて、ひっそりと倒れていたとしても……」


 それがしが、必ず貴方のお側に参ります。
 宵闇に抱かれ恐怖に駆られた少年が錦馬超と呼ばれる英雄になっても、男の言葉は耳に残り続けていた。





 暖かな香油のにおいが鼻孔を擽り、目を覚ませば木造の天井がうつる。


 「若ぁ! よかったぁ、もう目を覚まさないかと思ったよ!」


 隣には聞き覚えのある従兄弟の声が。
 身体には清潔な布が巻かれ、もう躯のにおいは……死の臭いは何処にもない。

 聞けば伏兵による奇襲を撃退したものの、力及ばず倒れたはずの馬超だったが……。
 馬岱が探しに出かけた時、応急処置だけされて街にもほど近い街道に横たわっていたらしい。


 「もう敵兵しかいない場所だったってのにさ……誰が運んでくれたかわからないけど、とにかく無事でよかったよ、若!」


 馬岱は恩人の名を知らぬといった様子だったが、馬超は誰が助けたのかわかる。
 それは憶測にすぎなかったが、彼は確信していた。


 「あぁ……そうだな」


 馬超は笑い瞼を閉じる。


 『それがしが、必ず貴方のお側に参ります』


 馬超はまだその言葉を忘れていなかった、だがあの男もそうだったのだ。

 まだ彼は約束を守り続けているのだろう。
 離れていても、変わらぬ思いを抱いて。

 開け放たれた窓から冷たい、だが何処か心地よい風が馬超の頬を撫でる。
 その風は、西涼の方から吹いていた。





 <れめ殿まじれめ殿。 (戻るよ)>