>> 薬湯
戦の疲れの為だろうか。
それとも国を逃れてから、緊張の連続だったからだろうか。
戦 り戻って暫くしたその日、夏侯覇は立つ事もままならぬ程の高熱に見回れていた。
「うー、まずいなぁー、俺とした事が、全く。ついてないっしょ……」
朦朧とする意識の中、目をあければ天上が回転して見える。
ゆっくり休んで英気を養いたい所だが、まだ戦も終わったばかり、自分が亡命して間もないという事実も変わらない。
眠ってばかりはいられないだろう。
一刻も早く身体を治さなければいけない。
焦りばかりが脳内を廻る最中、彼の家その扉を叩いたのは馬岱という将兵だった。
「やぁ、夏侯覇。お見舞いにきたよ」
馬岱は普段と変わらぬ笑顔で枕元へ座ると、「病気にいい薬湯だから」とすぐに茶を煎じ始める。
熱冷ましや喉の痛みを抑える薬草を、茶葉として煎じたものらしいそれは、独特の薬品臭を室内に漂わせていた。
ただのお茶とは違う、やや鼻につく匂いだ。
だが、嫌いな匂いではない。
むしろ、なつかしい匂いに思える。
「さぁ、どーぞ。美味しくないとは思うけど、これもお薬だからね。一気に飲んで、元気になりなよ?」
目の前に差し出された琥珀色の液体は、独特の匂いを含んだ湯気を漂わせる。
この光景、何処かで見たような気がする。
何処かで。
懐かしい気もするのだが、思い出してはいけない気もしたので、夏侯覇はその薬湯を一気に飲み下した。
喉に絡む苦味と、鼻に抜けるようなハッカのかおりが夏侯覇の記憶を揺さぶる。
そうだ、この味は。匂いは。
幼い頃、夏侯淵とともに連れ立っていった郭淮の屋敷で見たものに違いなかった。
彼が知っていた頃から郭淮という男は一病息災を絵にしたような男で、いつも不健康そうな憂いを含んだ顔をして、厚手の着物を羽織るとこう。苦くて渋い琥珀色の飲み物を、せき込みながら飲み下していたのだ。
『おじさん、大丈夫かよ。すっごい咳してるけど?』
彼があまりにせき込むものだから、夏侯覇も少し心配になって、一生懸命背中をさする。
郭淮は、そんな彼に笑顔を作ると、いつも黙って頭を撫でてくれたのだ。
『大丈夫だから、どうぞあちらへ……』
郭淮はいつもそういって、自分を遠ざけていたから、夏侯覇は、自分が子供だから嫌われているのだとか。
郭淮は自分と遊ぶより、夏候淵と仕事の話をするのが楽しいのだろうと思いこんだりもした。
だが、今になって思う。
あれは自分の咳で、病がうつる事を恐れてわざと遠ざけていたのではないか、と。
同時に郭淮が、胸を病んでいながらも必死になって自分と追いかけっこや隠れん坊。
そういう遊びに興じてくれた事も思い出していた。
あぁ、そうだ。
郭淮は優しかった、優しくて、誰より魏を思っていた。
だが……。
「俺が、殺したんだ……俺が、もう……」
だが彼は、もう居ない。
先の戦で互いに武を交えて、そして……矢の前に倒れたのだから。
戦場で対峙した時も。
彼が倒れた時も、覚悟しての事で割り切っていたのだと思ったが……。
今、この薬湯のかおりで蘇った思い出の中にある郭淮は、どれも穏やかで優しい、魏にあった頃の郭淮の姿だったから。
「……郭淮」
心が揺れ、涙が零れそうになる。
父を失い、国を失って……尊敬に値する大事な仲間まで失った事実。
全て忘れようとして、鈍感に振る舞っていた夏侯覇の身体に、少しずつその事実が浸透していって。
それまで気付かないふりをしていた感情が、一気にあふれ出してきた。
「俺はっ……でも、郭淮。俺は……俺が、裏切ったんじゃない……あぁしないと、俺はっ……父さん、俺っ……」
数多の感情が入り交じり、行き場のない思いは止め処ない言葉となって出てくる。
無意味な言葉の羅列。
だが、その意味が馬岱には分かったのだろう。
彼は震える夏侯覇の身体を抱くと、零れた涙を唇で拭いその耳元で囁いた。
「いいよ、泣きなって」
「……馬岱」
「男は泣いちゃいけない、っていうけど……涙が出るうちは、泣いた方がいいからね?」
俺にはもう、涙さえ出ないんだけれども。
唇だけでそう呟いた、馬岱の胸に身体を預ける。
あぁ、そうか馬岱は同じように悲しい事を幾度も経験したのだなぁと知り。
だから自分に優しいのだろうと思い。
「郭淮っ……ごめ、俺っ……んぅ、うぁっ……うぁぁ……うぁぁぁああぁあああぁっ……」
ただ今は、泣く。
もうここにはいない誰かの為に。
それらを踏み越え生きていく覚悟を強める為に。
そして、願う。
涙を無くした道化人形が、再び彼と同じように、声をあげて泣く事を思い出せるように。