>> 戯れ雨
その日は、朝より絶え間なく雨が降り続いていた。
「まったく、嫌な雨が続いてるよな……こういう日は、寝ているに限るか」
何処からかよく通った男の声が響く。
あくびをしつつ聞こえる声からはやる気が一片も感じられない。
この声の主は、おそらく司馬昭のものだろう。
父である司馬懿殿も、兄である司馬師殿も、情熱を内に秘め難事に挑む英傑の気概を持っているのだが、弟である司馬昭はいつもそう。
二言目には「めんどくせぇ」「めんどくせ」と、厄介事から目を背けてしまう癖が以前から見受けられた。
あれでは司馬家もとんだ荷物を抱えたものだ……。
私は内心そう思い、今日もまた机と対峙していた。
雨でも出来る事は山ほどある。
民からの陳情文に目を通せば、今この土地を支える者達が何故に憤っているのか手に取るように分かる。
館には軍略についてまとめた本も山ほどある。
孫子の兵法など、目を通しているだけで瞬く間に時が過ぎていく。
これほどまでに出来る事が多いというのに、何故あの男は何もしようとしないのだ。
そして、何故あの方は。
王元姫殿は、何故あの男の傍らに居続けようとするのだろうか……。
「……誕……諸葛誕どの?」
気付けば亜麻色の柔らかな髪が私の眼前で揺れた。
澄んだ瞳が、私の姿を捉える。
王元姫殿だ……。
頭でそう思うが、次の言葉をうまく紡ぐ事が出来ないでいた。
彼女の柔らかくそして美しい髪と瞳がひとたび私を捉えると、いつも私は何故か、語るべき言葉を見失ってしまうのだった。
「お、王……元姫、どの」
やっとの思いで絞り出した声を聞き、彼女は僅かに笑ってみせる。
「やっと気付いた……さっきからずっと、声をかけていたのに、全然気付かなかったから」
「そ、それは……すまない。いや、申し訳……ありません、少し、書面を見るのに夢中でありまして……」
「いいの。それだけ夢中だったのに、私が止めてしまったのだから」
彼女は僅かに微笑むと、申し訳なさそうに小首を傾げる。
その口数は少ないが、眼差しが暖かいので私は次の言葉を捻り出すのに困窮する。
「ごめんなさい、続けて」
私の手が止まったのを見て、彼女は遠慮せず続けるようにと促す。
だが、その眼差しがそばにあり、どうして仕事など続ける事が出来ようか……。
それでも彼女を前にして、出来ない姿を見せるのも憚られる。
普段より司馬昭殿の怠慢に付き合わされている王元姫殿だ。
彼女に対して私まで怠慢な姿を見せる訳にはいかない。そう思ったから、私はひとまず積み上げられた陳情書を読む。
「……真面目ね、諸葛誕殿は。何処かの誰かにも見習って欲しい」
溜め息まじりで王元姫殿はそう呟いて、私の前で頬杖をつく。
吐息が指先に触れる程に、彼女の肌は傍にあった。
触れようと思えば触れられる距離。
だが、身体の距離と裏腹に心の距離は互い、遠い。
彼女は私の傍らにあるべき女性ではない。
彼女の言う「誰か」の傍らにあるべき女性なのだから。
「……そう近づかれては、陳情書が読めません。これは、民から預かった大事なもの。貴方が傍らにいれば……気が散って集中出来かねます」
「そう、ごめんなさい」
この目に囚われては仕事にならない。
そう思い紡いだ言葉で、彼女はゆっくりその場を立つ。
少し言葉がきつすぎただろうか。
もし、彼女を傷つけてしまったのならそれは申し訳ないが……。
そんな私の不安をよそに、彼女は私の背後にまわると、ストンとその場に腰掛けて自らの背中を私の背中と重ねた。
布一枚を隔てて突然重なる肌に、私の鼓動は否応なくとも高まる。
「……元姫殿、どのようなおつもりですか」
「だから……私が見ていたら出来ないのなら。私は、貴方とここにいる。見なければ、続ける事も出来るでしょう?」
「戯れを……からかっているのでしたら、余所でやってください。私は……」
「からかかってなんか、いないのだけれども。私は……」
私は、貴方の傍に居たい。
私の背中で、彼女が語る。
それは声でさえなかった、ただ唇だけの呟きだったが、確かに聞こえた。
彼女は確かにそう語ったのだ。
「何を……」
振り返る私の眼前に、彼女の潤んだ瞳が輝く。
「私は。私は……ね、諸葛誕殿……」
彼女はそれ以上は語ろうとはしなかった。
だが、それだけで充分だった。
永久に届かぬ場所にあると思っていた、その心がいま手を伸ばせば触れる事の出来る場所にいるのだ。
身体の距離と心の距離が、今は同じ場所にあるのだ……。
戯れでもなく、偽りでもなく、嘘でもない。
真実の言葉がいま、ここに。
だが。
「……元姫殿、お戯れを」
だからこそ、私はそれを拒んでいた。
彼女は……すでに、私のものではない。
そうなる事が、決まった身なのだから。
「……それが、貴方のこたえ?」
「はい」
「私が望んでいたとしても?」
「……冗談を」
私は全てに鈍感に振る舞う。
彼女の真実が全て、一時の戯れであるかのように振る舞う。
それが唯一、私と彼女を守る術。
卑怯な手段だが……私と彼女がこの場にありつづけるには、もうこれしかないのだ。
「そう……」
彼女は僅かに俯いて、一度だけ。
たった一度だけ、私の身体に縋るよう抱きついてから、振り返らずにその場を去っていった。
「元姫殿……」
呼び止めようとする声はこもり、彼女の元へは届かなかった。
この瞬間。
もう二度と互いの思いが結ばれる事がなくなったのだろう、だが……。
だが、私の思いはこれでいい。
たとえ一時でも、一瞬でも……永久に対岸から見る事しか出来ないと思っていた一輪の花が、そばで咲いてくれたのだから。
「…………お幸せに」
私の口から、無意識に言葉が漏れる。
外には止むことのない長雨が、音もなく降り続けていた。